(やってしまった……)
部屋に戻るなりさつきはしゃがんで頭を抱え込んだ。
揉め事は起こしたくないし、起こさない。
ずっとそう思っていたのに。
でもあんな風に馬鹿にされて浅ましいとまで言われてはさすがに腹が立ったのだ。今まで積み重なるものもある。
今まで雪緒と藤乃の前では大人しくしていたから、藤乃の目には正しく豹変と映ったに違いない。
さつきからすればあれだけ人を蔑ろにしておいて反撃されないと思う方がどうかしているのだけれど。
とまれ、今までとは大分違う舌鋒だったから藤乃も驚いたに違いない。
言葉にしている内に段々底冷えするような怒りが湧いてきて、若干DQNになってしまった事は自分でも認める。結構な態度だったと思う。我ながらあれはない。
(でも藤乃さん、随分ビビってたな)
本当に脅したみたいな格好になってしまったけれど、これで少しでも現状が好転すればそれはそれでいい。
そう思ったのだけれど。
どうしたものか。
手当をしてくれている志麻が泣き出してしまい、さつきは途方に暮れてしまった。
あの時の威嚇は牽制どころか裏目に出てしまったようで、実は嫌がらせはあれからますます酷くなっていた。
(もしかして怖がらせ過ぎたのか……あの時の私の馬鹿ー……)
それでこの所生傷が絶えない。
生傷と言っても割合小さなものばかりであったのだけれど、今日のはさすがに効いた。
書生に足を引っ掛けられた拍子に階段から落ちたのだ。
書生たちだって、少し前までは大怪我に繋がりそうな狼藉にはまだ躊躇いがあったのに、一度矩を踰えると罪悪感も希薄になるらしい。やり方が大胆になってきた。
とはいえ、落ちたと言ってもニ、三段程度。
大した階段ではなかったけれど、着地の仕方が悪かったのか足を捻ってしまった。
勢いよく倒れたから肘は打つし、腕は盛大に擦りむいている。
洗わなければと思いはしたがさすがに痛い。痛みをやり過ごす為にじっとしていたら通りすがりの幸吉に見つかってしまい、さつきは彼に連れられて水場までやって来たのだった。
志麻が軽く叫んで駆け寄って来るのに苦笑する。
「大丈夫だから幸吉くんは自分の事しておいで。本当にありがとう、助かりました」
幸吉は去り辛そうにしていたけれど、さつきが着物の裾を捲ったらさすがに遠慮して志麻に頼んで水場を後にした。
(足首は大した事ない)
痛みをやり過ごせば普通に歩けるようになった。本当に軽く捻った程度で済んだらしい。
けれど肘は打った所がまだじんじんとしていて、
(あー……暫く色変わるな、これ)
腕は皮が引きつれて血が滲んでいた。土間でなかっただけマシだったが一応消毒した方がいいかと志麻に焼酎を頼み、袖口を肩まで捲り上げた所で、がしゃん!と陶器が砕け散る音。
顔を上げれば、志麻が焼酎の入った片口を落としたまま、さつきを凝視し佇んでいた。
「志麻ちゃん!大丈夫!?」
「さつきさん、腕……腕……」
さつきは自分のうっかりさに心中で舌打ちした。
腕は藤乃や最近は雪緒にも抓られるようになっていて、古いのが治る間もなく次の痣ができる。
向こうは容赦というものを知らないのかいつも酷い力を込めてきた。
それが今や青や紫、赤紫や黄色と、最早下手な言い訳が通用しないほどの数と面積になっていた。
自分で見てもグロテスクだ。何も知らなければ悪い病気じゃないかと思う程で、到底人に見せられるものではないし、ましてや志麻には一番見られたくなかった。
この子に聞かれたら誤魔化せないし、きっと気にする。
それが分かっていたからこそ着替えにも注意を払っていたと言うのに。
(ばれちゃったなあ)
二の腕から関節の辺りは痣だらけ、肘は打撲、関節から下には大きな擦り傷。足も打撲や擦り傷だらけだった。
志麻は無言で傷口に軟膏を塗っていたけれど、さつきを取り巻く状況が思っていたよりも酷かった事にショックを受けたのか、小さく嗚咽を漏らし始めてしまった。
「ごめん、気持ち悪いね」
「……さつきさんこれでもまだ”大変”じゃないんですか……?全然大丈夫じゃないですこんなの……」
「うん」
「あの方々は酷過ぎます。私から御前にお伝えします」
「あー……それはしなくていいよ」
「なんで!?こんな事が続いたらいつか取り返しのつかない大怪我をします!!」
框に座るさつきの足元にしゃがみこんで、志麻は大きな声で泣き出してしまった。
嗚咽の合間合間にどうして黙ってたのかとか、私にもできる事があるかもしれないのにとか訴えられてしまい、志麻は志麻で随分我慢していたらしい。
心配させまいと黙っていたけれど、それはそれで心配を募らせる一方だったようだ。
「前顔が腫れてたのだって本当は何かにぶつかったんじゃないですよね?平手打ちの跡……」
うん、と肯首する。
「そんな目立つ所、誤魔化せないです」
「そうだよね」
「入ってええ?」
廊下から響いた幸吉の声に振り返る。
頃合いを見計らって様子を見に来てくれた幸吉は、志麻が泣いているので驚いた顔をした。
「大丈夫大丈夫」と手招きすれば、板間、さつきの傍に座る。
志麻の手を引いて彼女も板間に座らせてやると、幸吉が何も言わずに懐紙を渡した。相変わらず気遣いのできる子だ。
「幸吉くんも薄々は分かってたと思うんだけど……ごめん。気にするだろうと思って黙ってた。けど却って心配かけたみたい。本当にごめん」
「…………」
「…………」
「でもここまで酷くなったのはこの数日なの。この前あちらさんと話している時に腹が立ってきて、ついきつく言い返してね」
言い返すと言うか、三分の一くらいは脅しだったような気もするけれど。
「随分怖がらせた。それでちょっとマシになるかな〜と思ったんだけど逆効果だったみたい。で、この状態」
あははと苦笑したさつきにふたりの溜息が落ちる。
「あの、さつきさん、何言われたんか聞いてええ?腹立ってって、そんなん今まででもあったんちゃうのん?」
確かに今まで我慢できていたのにどうして今更という感じだろう。
「寒天寄せ作った日あるでしょ?」
「海老と豆の」
「それそれ。それきぃさんと辺見さんにも出したじゃない」
それをふたりの膳にだけ供して雪乃は除け者にしているとか、男への下心からだとか。
どう育ったらそんな浅ましくなれるのかとか。
「……ほんっと下らん……それまでにも色々言われてたし、それでちょっと爆発したっていうか。前の日にも言われてたのよ。きぃさんとこそこそ会ってるとか、きぃさんが夜に部屋にいないのはお前のせいだとか。言い掛かりも甚だしい。しかも夜部屋にいないってサラッと言ってたけどそれって、……ん?どうしたの?」
「……あー……」
「……うん……」
十代の若者ふたりは引き攣ったように笑っている。
「いや、なんやあの人も結局今までの人と同じやなあと」
「えぇ……」
今度はさつきが黙り込んでしまった。夜這いってそんなに普通にある事なのか。
「ミナサンセッキョクテキデスネ」
「みんな自分が思ってる事を押し付けるばっかりや。迷惑やて誰も考えとらん。ほんま腹立つわ」
それは居室に押しかける事についてだけではないようで。
確かにずっと桐野といる幸吉は、今回に限らず随分な迷惑を被っているひとりだろう。そう思うのも頷ける。
(…………ん?)
「どうかしました?」
思わず首を捻ったさつきに志麻が声を掛けたのだけれど、
「ねえ幸吉くん、『あの人も結局』ってどういう事?雪緒さんは今までここに来た
「へえ。先生の態度が今までとちょっとちゃうんですわ。なんちゅうかえらい……」
「親切っていうか。丁寧なんです」
親切、丁寧。
「そうなの?きぃさんいつもあんな感じじゃない?……いやあんな感じっていうか?いつもはもうちょっと砕けた感じだから、確かに丁寧なのかな」
でもあのふたり、お付き合いしているとか、多分そんな仲じゃない。
だから丁寧というより寧ろ……
「普通の態度じゃないの?でも、確かに言葉遣いは丁寧だよね」
「さつきさんはまあ、知らんから」
「そ、そっか……」
そう言われてしまうと苦笑いしかない。
「その”普通の態度”を取られた人は今までおらんのです。いつもはもっと放置。あ、そんなんおったんか、そんな感じ」
「……はは、す、凄いね……あ」
そこでふっと別府の声が頭の中で再生された。
――知らん内に関わった女が屋敷におっても特に気にせん。物がなくなったりしてもな
(あー……なるほど……)
そうか。そういう事か。
(……あれ?という事は私は一体何なの?)
何となく幸吉と志麻の顔を見つめてしまう。聞きたいような気もするけど聞きたくないような気もする。
「何です?」と尋ねられて誤魔化そうとしたけれど、
「今までここにそこそこの数の女の人が来てたんでしょう?結構入れ替わり激しかったみたいだけど……その、出ていく時ってどんな感じだったの?」
違う話を振った。
「それは……志麻さんが、」
「私か幸吉さんが何かされたら、そのニ、三日の内には……」
追い出されていた。
ふたりが言いにくそうなのはさつきに遠慮してだろう。さつきが色々されるようになってから随分経過している。
だがそれでさつきはある事を確信したのだった。
「オッケ。それで分かった」
「え?分かったって」
「私の事は言わなくていいからね」
「……何ででっか……」
不服そうに口を尖らせるふたりにさつきは笑った。
「きぃさん私の事気付いてるよ」
「え?」
「…………」
「私の良からぬ話、ふたりも聞いてるでしょう。きぃさんと辺見さんだってきっと知ってる。お屋敷の雰囲気が凄く悪いのに全く知らない方が変だよさすがに。ただ怪我とかはね」
見える所に目立つ傷や痣がないので、身体への暴力がある所まで気が付いているかは微妙な所だ。
何せ同室の志麻でさえ今の今まで気が付かなかったのだから。
「いかがわしい話なんて今まで一度もなかったのに、いきなり出てきたら、新しく来た人疑わない?」
それにどんなにそれらしい理由を付けても、雪緒と藤乃が来てからさつきが部屋を移って、食事の場を変えたのは紛れもない事実だ。
普通に考えたら誰だってこのふたりが原因だと思うだろう。
「それにきぃさん、色々悪いって謝ってきたしなあ……」
あれからよく差し入れがあるのも、きっとその一環だと思う。
「そうなん?気付いてるんやったら、もうちょっと何とかしてくれても」
「ねえ、貴方たちの知ってるきぃさんはこういう事に気付いて放っておく人?」
幸吉は京都で桐野に拾われたと言っていたし、志麻もこの屋敷での環境が芳しからざる時に何度も助けられていると言っていた。
当然のようにふたりともが首を横に振る。
「私もそう思う」
「でもね今回は理由があるんだと思う。雪緒さん、多分きぃさんの断り辛い筋から来てるよ」
例えば仕事の関係とかお世話になった人とか。
「……西郷先生みたいなお方ですか」
(おおおおおお!西郷先生って西郷隆盛ですか!)
思わぬビッグネームに若干慄いてしまう。そういやそうだった。
「例えばその先生が頼むって言ってきたら邪険に扱える?そう無下にもできないし、当然接する態度も変わってくるよね?」
「それは……」
「そうですね」
「そゆ事」
「ま、大人の事情があるんでしょう。幸吉くんもさっき言ってたじゃない。『みんな自分が思ってる事を押し付けるばっかりだ』って。きぃさんもそんなのばっかじゃ大変だし、仕事から帰って来てこれじゃあ可哀想だよ。だからさ、こっちがある程度事情汲んで黙ってようよ。時期が来たらきぃさんはきっとちゃんとしてくれるよ」
「でも、それじゃあそれまでさつきさんが……」
「大丈夫。暫く大人しくしとくし、あまりひとりにならないようにもする」
でも今回の怪我はさすがに目立つ。藤乃に言った通りあのふたりに聞かれたら嘘は言いたくないのだ。
となると選択肢はあまりない訳で。
「このニ、三日部屋で寝とく……本でも読んでるよ。きぃさんと辺見さんには体調崩して大人しくしてるとでも言っといてくれたら嬉しいな」
志麻と幸吉に言った通り部屋でごろごろしながらページを捲っていたら、
「入るぞ」
返事をする前に襖が開いた。
辺見だった。
「体調が悪かち聞いた。普段着で蒲団も敷かんと汝は……寝ちょらんでよかな」
どっかと座って軍服の襟元を緩めながら、これをやるといって包みを出してくる。
「カステイラじゃ」
「えっカステラ!?嬉しい!ありがとう〜凄く嬉しい。私カステラ大好きなの」
「思うちょったより元気そうじゃな」
言うや笑った辺見に少しだけ罪悪感が沸く。
「うん。……辺見さんにも心配かけてごめんなさい」
少し黙り込んだ後、辺見は改めて「なあ」と声を掛けると、
「俺は汝をここに連れて来て良かったんか悩んじょる」
さつきは彼に差し出そうとしていた湯飲みを取り落としそうになった。
(ちょ、直球過ぎるよ辺見さん……)
いきなり何の振りもなく始まった話に驚いたが、こちらを覗き込んできた辺見の表情は驚くほど真剣だ。
「部屋もメシの場も変わって、その上書生が変な話ば撒いちょる。何度か窘めたが……汝、困っちょっ事が他にもあっとじゃらせんか」
「……どうして?」
声が震えそうになった。目の前の男の勘が良すぎて怖い。
「時々空元気に見える。こん屋敷で汝が何もしちょらんのは俺も桐野さぁも分かっちょるが……」
こんな状況では居辛いのではないか?
「俺は日陰者のような扱いを受けさせっ為に汝をここに連れて来たんじゃナカ」
そこまで聞くと、さつきは辺見に急いで膝を寄せた。
「私辺見さんに会えて、ここに連れて来てもらえて良かったと思ってる。荒唐無稽な話を信じてくれた上、怪しいだけで何もできない女をお客さんだって。普通ないよ、こんなの。みんなも凄く優しいし……親切にしてもらって居心地良過ぎて本当に困ります」
そう言えば目の前の男が軽く笑った。
「私、ここに来る前働いてたの。月から金まで、時間は大体七、八時間だけど、忙しい時はそれ以上」
休みの日も問題が起きたら呼び出されたりとか、そんなのも頻繁だったと言葉を繋げるとさすがに驚かれてしまった。
「働き詰めじゃったんじゃな」
「ホントにね。ちょっと忙し過ぎた。疲れも自分の時間も全然取れないし。いい加減ヤになってた時に上司が休みやるから東京に行けって。そこで事故に遭ったの」
「そん時に俺が汝を見つけたんじゃな」
「多分。私は気付いたらこのお屋敷だったから……」
「ね、なんでここに連れて来てくれたの?放っておこうとは思わなかった?」
これは前から一度聞いてみたかった事だ。
何となく聞きそびれてそのまま来てしまったけれど、ちょうどいい機会だと思う。
「思うた」
「うん」
「思うたが……よう見れば女じゃし失神しちょるし。他の人間に押し付けっ事も考えたが、俺しか気付いちょらんかった。関わってしもうて捨ててもおけんし。じゃっどん近衛兵舎にはさすがに連れて行かれんで、そいで」
それで桐野邸にさつきを連れて来た。
(……なんて、)
親切なんだろう。
さつきは心からそう思った。
関わったといっても、さつきは辺見の目の前に落ちてきただけなのだ。
気を失っていたなら、見ている人もいなかったのなら、そのままさつきを放置しても咎める人などいないのに。
そして事情も何も分からないまま明治時代に放り出されて、ひとりで目覚めた時の事を思うと、さつきは背筋が凍るような思いがする。
本当に首の皮一枚で繋がったようなもので、辺見には感謝してもしきれない。
目の前にいる人は本当に恩人だと思う。
「ここでの生活、凄くのんびりしてる。花とか草木を眺めたり、雨とか風の匂いを感じたり、魚とか野菜で季節や旬を感じたり、本を読む時間も沢山あるし。……私そんなのもう長い事忘れてた。最近になって”ここ”に来たのは神様がちょっと骨休めしろって言ってるんだって思うようなったの」
「骨休め?」
「うん。辺見さんはきっと神様に目をつけられちゃったんだね。『あいつなら人が良いから如月さつきを預けても大丈夫だろう』って」
「なんじゃそれ」
「えー?だって本当にそうだったじゃない。見る目あるよね神様」
さつきの言い草に辺見が笑い出した。少し変化した空気にホッとする。
「辺見さん、私日陰者みたいだなんて思ってないし、今回の事だって気にしてない」
そう言い切り、
「そんな事より、こちらに連れて来て頂いた事、本当に感謝しているんです」
言葉も改めて丁寧に頭を下げた。
それが意外だったのか少し驚いた表情の辺見が視界に映り、思わず口角を上げてしまう。
「私も人間だし、そんなに心広い訳じゃないから……謂われのない悪口を言われたら不愉快だし、腹も立つよ。けど部屋の事、食事の事は本当に気にならない。今までの待遇が良過ぎたっていうのもあるけど……幸吉くんと志麻ちゃんが弟妹みたいですごくかわいいの。奉公人どうこうって私にはあんまり関係ないのよ。私、あの子たちが大好き」
「……そうか」
「今回の事、標的になったのがあのふたりじゃなくて良かったと思ってる。さすがにあの子たちじゃきぃさんと辺見さんに色仕掛けとかそういう話にはなってなかったとは思うけど……」
「ぶふっ」
辺見が吹いた。
「ちょっと!その話聞いて一番吹いたの私だよ!?そんなお色気あったら男に逃げられませんって」
「逃げられたんか」
「逃げられましたとも」
そう言えばあれから結構な期間彼氏がいない。
そう考えたら「男に飢えている」という、聞いた時に爆笑してしまったあの噂はあながち間違いとも言い切れないのかもしれない。
「飢えちょんのか」
「飢えちょりません!」
そんな風に見える訳?なんて答えながら笑った。
さつきは彼氏がいなくても苦にならないタイプだ。
それに前の男との別れ方が酷かった事もあって、当分男はいらんという気持ちでずるずる来ている。
「あンの馬鹿男二股した挙句妊娠させて、それであっちの女に持って行かれちゃった。アレ引きちぎって二度と女に突っ込めないようにしてやろうかと思う位には腹が立ったんだけど……辺見さん、なんで離れるの?」
「……いや、何となく……」
辺見をドン引きさせてしまった。
「困った事でも不安でも、不満でも何でんヨカ。何かあればいつでも言うて来い」
いいな、と諭すように念を押す辺見に、さつきは曖昧にだが頷き返した。
「長居して悪かった。汝ももう休め」
そう言って室を出て行こうとした時、辺見はふと振り返り、
「さつき、あのな、…………」
伝えたい事があったのか口を開いたのだが、少し考える素振りを見せて結局辺見は言葉を飲んだ。
何かあるのだろうか。
さつきは急かさずに辺見が話すのを待っていたが、
「否、ヨカ」
軽く手を左右されてしまった。
どうしたのだろう。そうは思ったけれど、逡巡して言うのを止めたのなら、尋ねても辺見はきっと何も言わない。だから、
「来てくれてありがとう。ゆっくり話ができて良かった」
色々と大丈夫だからと付け加えて、さつきは辺見を室から見送った。
(何だったのかな、今の)
辺見があんな風に言い淀むなんて珍しい。
今回の事について、もっとさつきに言いたい事があったんじゃないだろうか。
何となくそう思った。
だって辺見は今までも顔を合わせる度に「大丈夫か」と声を掛けてくれていたのだ。
それにさつきは「大丈夫」「何でもないよ」とだけ言って躱してきた。
心配してくれているのに、そんな返し方しかしていない。
はあ、と知らず大きな溜息が落ちた。
(難しいなあ……)
色んな所にひずみが出ている。
顔を出せばあちらから謂れのない悪口が飛んでくるし、姿を見せなかったり黙っていればこちらの心配が募るばかりで。
心配をかけまいとする行動が余計に心配をかけているのが何とも遣る瀬ない。
辺見にしても紹介者の立場からさつきの状況を酷く気にしてくれているのがよく分かって心苦しかった。
(でも怪我とか、そういうのまでは気付いてなかったみたいだな)
今はさつきも振る舞いに気を付けていたし……
無理もない。
辺見だって日中は屋敷にいないのだ。何があったかを詳細に知る事は難しいだろう。
志麻たちにはできるだけひとりにならないようにするとは言ったものの、現実にはそれが難しい事をさつきはよく分かっている。
(怪我、増えるだろうな)
そう思った。
この前と同じ程度の怪我がきっと増える。
その度に部屋に閉じこもる訳にもいかないし、誤魔化せなくなっていくのも明白で。
あちらが墓穴を掘ってる事にどうして気がつかないのが不思議なのだけれど、
(きぃさん、早くなんとかしてもらわないと身がもちませんよ〜……)
本当に。
kindness:思いやり 130630140706