志麻と幸吉に「部屋で本でも読んでる」と言ったのは取って付けた言い訳ではなく、さつきは最近読書にはまっていた。
志麻と幸吉の手伝いをすると言っても一日中ではなく、自由になる時間はあるのだ。
しかしそうは言ってもテレビもなければパソコンももちろんない訳で……
ここでの娯楽と言えばほぼ江戸時代の延長で花の時期に行楽だとか、女性なら歌舞伎、男性なら相撲を見に行く事くらいらしい。
たださつきからするとそんなお金も使う、人の手を煩わせるような事は心情としてできない訳で。
「さつきさん、本読みます?持って来ましょうか」
志麻に水を向けられ、さつきはそれに飛び付いたのだった。
所有者が屋敷を出る際、持って行けなかったのかもういらなかったのか、大衆小説の類がこの屋敷にはがさっと残っていたらしい。
見れば和綴じの印刷物で多分江戸時代のものだった。
(も、文字が……)
読めない。ミミズがのたくっとる。
初めはそんな感じだったのだけれど、いろはの基本的な崩しを志麻に教えてもらってあとは適当に推察して読む事にした。
やってみると読んで読めない事はなく、慣れてくるとそれなりに読み進められるようになっていた。
和綴本に飽きたら出張の行き帰りで読もうと思っていたペーパーバックをこれまたごろごろしながら、少しずつ読み進める。まさに読書三昧だ。
そんな感じで過ごすさつきの身の回りは随分さっぱりしていた。
元々荷物の量がニ、三日分と少なかったのもある。
最近では用心して所持品のほぼ全てを鍵のかかるキャリーバッグにしまい押入れに入れていた。
必要なものはバッグから出し、使ったらまた直す。面倒だが仕方ない。
文机には和洋の本が幾らか積んであるくらいだった。
多少かさばるものと言えば桐野が与えてくれた着物だったが、それも念の為他室の箪笥に移していた。
志麻にしてもそんなに持ち物がないようで、これが女子ふたりの部屋かと苦笑してしまう。
それほど殺風景だった。
だから、そんな部屋が荒らされるとはさつきもついぞ思っていなかった。
しかも本を読むのに倦んで炊事場にお茶を汲みに行き帰って来る、僅か三十分足らずの間で。
戻ってきたらきっちり閉めた筈の襖が半開きになっていて、小首を傾げながら恐る恐る室内を覗けば、本が散乱しキャリーバッグが縁側に転がっていた。
「……何これ……」
一冊一冊拾いながら、畳に散らばっているのが本だけである事を確認してホッとする。
キャリーバッグは鍵をかけていたから、どうしようもできなかったのだろう。放り出されていたのは腹いせか。
自分の文机の抽斗は全部引き出されていたけれど、中味は入れていないから当然空っぽ。
志麻には面倒をお願いして長持に錠をかけるようにしてもらっていたから、彼女の所持品にも被害はなかった。
それに志麻の文机には宛名が明記されている手紙があったから、侵入者もそちらには手を付けなかったらしい。
関係ない人間には危害を加えないという最低限の分別はあったようで、それには安心したのだけれど……
片付け終わって気が付いた。
ない。
ペーパーバックがない。
抽斗、押し入れ、蒲団の間、近くの空き部屋や廊下とあちらこちらを探したけれど見つからなかった。
「持って行っちゃった?」
和綴本は数えたら全部あったのに、洋書だけがなくなっている事を思えばそうとしか思えなかった。
犯人は多分書生だろう。雪緒や藤乃がそうした方面に興味があるようには見えない。
(うーん……これまずいよね……どうしよう)
桐野に相談した方がいいだろうか。
しかし相談するにしても今日は寄る所があるので帰りが遅くなると桐野が志麻に伝えていたのをさつきは聞いていたのだ。
(明日でも大丈夫かな)
今すぐどうこうできないのはもどかしいけれど、屋敷から持ち出されなければ多分問題はないと思う。
それよりも、だ。
「……鉢合わせしなくて良かった……」
今更ながら背中が冷えた。
偶々さつきがいなかっただけなのか、いない時を見計らって誰かがやって来たのかは分からない。
しかし、どちらにせよこれは随分危うい状態だ。
日中は桐野も辺見もいない。
幸吉や志麻も屋敷でそれぞれに仕事を抱えているから、何かあった時、屋敷の中心部から少し離れた室内では大声を上げても気付かれない可能性が高い。
「はあ……もう、本当に」
溜息しか出ない。
「こんな事国元の親が知ったら泣くぞ」
書生たちはこんな事をする為にここにいるのだろうか。
書生たちの行動は、初めは純粋に雪緒に対する同情とさつきに対する怒りだったのだと思う。
一方的に善悪を断ずるのはどうかと思うし、しかも結果的には間違っているけれど、それはそれで正義感は認められる行動だろう。ケシ粒程度だけど。
(それにあれだけきれいな人に泣いて訴えられたら、男としては退けにくいだろうしなぁ)
彼らは若い。というより子供だ。
学問の為に上京しているのだから優秀なのだろうが、勉強ができる事と人情の機微や人間の二面性に敏い事はまた別の事だ。
「利用されている」のを「頼られている」と、彼らはきっと勘違いしている。
そう思うと年若い書生たちには若干の同情心も湧くのだけれど……
しかし今のさつきには大きな懸念が生じていた。
というのも、最近では彼らに嫌がらせそれ自体を楽しむようなきらいが出てきていたからだ。
(相手を追い詰めるゲームになってる)
行動がエスカレートしているのは雪緒らに焚き付けられている事に加え、恐らく桐野に話が伝わっている気配がないと踏んだから。ばれないようにスリルを楽しむと言うか、ゲーム感覚なのだろう。
(あの位の年の子、集団だと自制が利かなさそうだからなぁ)
さつきにとって彼らは”男の子”だが、実際には”力の強い若い男”である事に変わりはない。
あの女は男にだらしないなんて話もしているようだから、もしかしたらもしかする。
(ホント、どうしたものか……)
さつきは今日何度目か知れない溜息を落とした。
志麻にはその日の内に今日あった出来事を話した。
彼女もまさか部屋の中まで踏み入られるとは思っていなかったようで、酷く驚いた表情を浮かべた。
「そんな事まで……」
「本当にごめん。巻き込まないつもりだったのに、却って巻き込んでる」
怖いだろう。
ただあちらには志麻に危害を加える気はないようだからそれは安心していいと思うのだけれど、もしもの事がある。
とばっちりで志麻に何かあったら悔やんでも悔やみきれない。
だからさつきは言ったのだ。
部屋を別にした方がいい事、そして移動するならさつきでなく志麻の方がいいと。
しかし、
「私は移りません」
きっぱりと言われてしまった。
「でも志麻ちゃん」
どう説得しても「移らない」「ここにいる」の一点張りで、結局さつきの方が根負けした。
「貴重品は今まで通り長持に入れて鍵、部屋にいる時は絶対につっかえ棒して、人が来たら大きな声で誰か聞くのよ」
中にいるのが志麻だと分かるように。
そう頼んだその日の夜中だった。
さつきも志麻も既に就寝していたけれど、ギシギシと静かに廊下を歩く音にぱちりと目が覚めた。
隣の志麻が気付く様子もなく寝ているのを確認して、さつきは静かに半身を起こす。
日中にあんな事があったばかりだ。さすがにドキドキしながら外の様子を窺っていたのだが。
足音は部屋の前で一度止まると、時を置かずそのまま引き返して行ってしまったのだった。
(え、何だったの)
いや、何もなかった事は良かったのだけれど……不可解さに首を傾げてしまう。
しかしすぐに廊下に出るのはさすがに怖く、朝になってから襖を開ければなくなった筈の洋書が部屋の前に置かれていた。
「どういう事?」
持って行ってわざわざ返しに来た?
訳が分からない。
息をひとつ落として本を拾い上げると、その拍子に挟まっていた紙がはらりと落ちる。ん?と拾い上げて一瞥。
(字が書いてあるけど……栞?持って行った子が挟んでたのかな)
そう思い特に気に留めなかった。
怖い思いはしたけれどそれ以降部屋は荒らされる事なく、ましてや誰かが入った形跡が認められる事はなかった。
手は相変わらず出されていたけれど、夜中に足音が聞こえるといった事も二度は起らず、よく分からないなりに随分ホッとしたのは確かだ。
しかしそれから暫くも経たない内に別室の箪笥に入れていた着物がなくなった。
ごっそりと、全て。
さすがに焦ってしまった。
困る。だってあれは借り物なのだ。いずれは桐野に返さなければならない。
うろうろと探し回って見つけた先は庭園だった。
「なーんでこーなるかなー……」
池で泳いでいる着物の群れを眺めながら、さつきは池の周りに配置されている飛び石にしゃがみこんだ。
届かないと分かっていたが、手近に落ちていた枝を拾って腕を伸ばす。
「あーさすがに無理っすね無理っすよ」
でも放っておく訳にもいかないし、こりゃ入らないとダメだわとしゃがんだまま草履を脱いだその時だった。
「う、わっ!」
どんっと背中を押されて頭から池に突っ込んだ。
派手な音と共に大きな水飛沫が上がる。
「あっは!あはははは!」
「………………」
池の中で四つん這いになって俯けば、前髪の先から濁った雫がひとつふたつと音を立てて水面に落ちる。
ついでに大きな溜息も唇から零れた。
「素敵な恰好ねさつき。水草と藻と泥だらけ!臭くて汚くてあなたにとってもお似合い!」
「そりゃどーも」
無機質にそう答えて、頭から垂れている水草を摘まんで捨てる。
雪緒はついさっきまでさつきがいた場所に同じようにしゃがみこむと、にっこりと笑った。
(せっかく、女が見惚れるほどきれいなのに……)
さつきからすれば残念な美女としか言いようがなかった。
「ねえまだ出ていく気にはならないの?私もいい加減飽きてきちゃった」
「前言ったじゃないですか。ずっといるって」
呆れ調子で即答すれば、目の前の美人はムッと面貌を歪ませる。美人は怒っても美人だと他人事のように思いながら、不意に気が付いた。雪緒とふたりきりで話をするのはこれが初めてだ。
さつきはそのまま池に座り込んだ。
池の中と外で言葉を交わす様子は他人から見たら酷く不審な光景だろうが、この際そんなのはお構いなしだ。
「雪緒さんはどうしてこのお屋敷に来たんですか。本当にきぃさん……桐野さんが好きなの?そんな風には見えないんだけど」
「なんですって」
「何でって。客観的に見て貴方、桐野さんの顔に泥を塗るような事ばかりしてますよ」
先客を追いやった上怪我を負わせたり、屋敷内に下世話な噂話をばら撒いたり。
客人の部屋が荒らされたり、物がなくなったり。
主である桐野の監督不行届きだと言われても仕方ない不名誉な話ばかりだ。
足を引っ張るのが目的なのならばそれも分かるけれど、好きな人の身辺でやる所業ではないだろう。
「私、貴方が桐野さんと茶屋にいる所を見た事があります」
あの時は本当にいい雰囲気だと思ったのだ。少なくとも悪い印象はなかった。
そんな感じだったから、こそこそせずに普通に屋敷に来て普通に挨拶を交わし、普通に接していたら応援くらいはしていたかもしれない。
そう告げれば雪緒はそんな事を思った事もなかったのだろう、酷く驚いた顔をしていた。
「でも違いましたね」
「貴方が私にしている事、桐野さんが知ったらどう思うか。考えた事はないんですか」
「人を貶める事よりどうすれば好きな人に好かれるかを、どうして考えないんですか」
「飛びぬけて美しいからって何もかもが手に入る訳じゃないし、何しても許される訳じゃ」
バシン!
言葉の途中で大きな音が響いた。
「気に入らない事や思い通りにならない事があったらすぐに手を出す。今までもそうして来たの?それで何もかも解決してきたの?」
ゆっくりと視線を戻せば目の前の彼女の体は怒りでわなないていたが、頬をぶたれたさつきは驚くほど頭と心が冷めていた。
「可哀想な人だね……」
それは間違いなく憐れみの言葉だった。
聞くや雪緒の双眸は怒りで吊り上がり、足元に転がる小石を掴むと、
「……貴方に何が分かるのよ!」
勢いよくさつきに投げつけた。ガツッと額の上で音を立て池に落ちる。
「今まで手に入らない物なんてなかったのに!」
「桐野さんは物じゃないよ」
「なんで私の前で桐野様は笑わないのよ!」
「知りませんよそんな事」
「何で私じゃいけないの!」
「仕事から帰った後で屋敷滅茶苦茶にしてる人の顔なんてわざわざ見たくないですよ」
「あんたがいなければ……こんな事にはならなかったのに!」
「私だって貴方がいなければこんな事にはなってませんって」
バシッともう一発頬を打たれた。
痛い。
石が飛んできたり平手が飛んできたり、今日は忙しい日だ。
(あ、血……)
咥内にじんわりと鉄の味が広がるのを感じて黙り込めば、雪緒は蔑むように嗤った。
「図々しいのよこの恥知らず。貴方桐野様とは全く釣り合わない。なのにここに居座ったりこそこそ会いに行ったり、『きぃさん』だなんて馴れ馴れしいのよ」
(いていいって言ったの本人だし、向こうが会いに来るんだけど)
「分を弁えなさい。分からないの?異人みたいなナリで……髪の色が珍しくて飼われてるだけよ」
(飼われてってあたしゃ犬か何かかい)
「男咥え込むのが得意なんでしょう?いい所紹介してあげましょうか」
「……お言葉を返すようですけど」
「夜中にこそこそ会いに行って男咥え込もうとしてたのはどなたですか」
言い放った途端、罵声の嵐が頭上から降り注ぐ。
お嬢様なんだろ、誰か止めてやれよと思うほどの罵り具合だった。
(もー付き合ってられんわ……)
いい加減嫌になって完全にスルー、立ち上がろうとした所で、雪緒が履いていた下駄を手にして振り被った。
(え)
さすがにそれは考えていなかった。
下駄で力一杯殴られたらさすがに内出血どころの騒ぎではすまない。
やってくる衝撃を思い身構えた所で、
「何ばしちょっ」
それは久しぶりに聞く声だった。
「……ん?汝はあん時の」
「べっぷさん?」
雪緒が陰になって見えていなかったのか、さつきの姿を見て別府は大きく目を見開いた。
「っ、さつき!?」
「きゃあっ」
腕を掴んで雪緒を引き倒し、器用に後ろに転がす。
さつきの様子と後ろに転がる女を一瞥して何があったのかを把握したのだろう、別府の顔が歪んだ。
そして口を開きかけた所で、突然雪緒が別府の背中に抱き付いたのだった。
「助けて……助けて下さい!私その方に、」
(ぶりっ子SUGEEE)
雪緒は涙を浮かべながら震えている。
即座に相手方の非を訴える変わり身の早さ、そして巧みな”女”の使い方にさつきは感心してしまった。
そう言えば職場にもいた、こういう女。
かわいくて、男の前でだけは態度が良いので大抵の男が騙される。
(でも別府さんは騙されないと思うぞ雪緒さん……)
何せ別府はある意味さつきの同志なのだ。
しかもさつきの姿を見た段階で、もう大体の事情を飲み込んでしまっている。
「触るな」
地を這うような低い声で拒否をくれると、別府は邪険に雪緒を払いのけた。
今までそんな扱いをされた事がなかったのだろう、呆然としている美人を尻目に別府は躊躇いもなく池に入って来る。
「…………」
「…………」
別府は頭や肩で乾きかけている藻を摘まんで捨てると、滅茶苦茶になった髪を手櫛で粗く整えてくれた。
「酷い顔でしょ」
向かいの男が黙っているからなんだか罰が悪くてそんな事しか言えない。
「……否」
別府は言葉少なにさつきの髪を軽く掻き分けると、額の怪我を確認した。
顔には軽く血が流れていたようで、それなら確かに別府でなくてもぎょっとしただろう。
血を懐紙で拭われた後、別府の指がそっと腫れた頬に触れた。
思わず目を閉じると、「悪い、痛むか」、謝罪され、座り込んだままでいたさつきの手を引くと別府は立ち上がったのだった。
「戻るぞ。風呂ば立てちゃる」
「でも、着物が」
「後で俺が取りに来るで気にするな。歩けるか。どこか、他に怪我は」
「ない、大丈夫」
その言葉が合図だったかのように別府は歩き出す。放心状態でこちらを見つめていた雪緒には目もくれずに。
(怒ってる……)
少し前を歩く背中からはピリピリとした空気が伝わってきて、さつきは声が掛けられなかった。
戸惑っている内に別府はどんどん先に行ってしまう。
さつきは座り込んだままの雪緒を振り返る暇もなく、風呂場へと向かう別府の後を追った。
sigh:長嘆息 140812130705