19:rescue




「あの、別府さん、お風呂はいいよ。水だけ浴びるから」
さつきは本当に風呂を立ててくれようとしている別府を見て、慌てて止めた。
「寒い時期じゃないし、大した事ないから」

「大した事ない?」

真直ぐ目を見て茶化しもせずに言われると、何となく返事ができなくて、さつきは「うん」と小さく頷くだけだった。

「汝な、何かあったら言うて来いちゅうたのを忘れたか」
「忘れてない。でも迷ってる内にこんな事になっちゃって……ごめんなさい」
「……さつき」
「はい」
「悪か事した。俺が余計な事ば言うたから」

(あ……)

「違う!」
思わず大きな声で否定した。
別府はさつきに怒っているのではなく、別府自身に非があると感じたのか。
「別府さん、違う、それは違うよ」
別府に何を言われていても、言われていなくても、きっと結果は同じだった。
だって向こうは相手にならないとさつきを執拗に馬鹿にして貶めながらも、結局はライバルとして見ていたのだ。
「初めからターゲット……矛先は私に向いてたんだよ」


さつきは桐野の対象には十分なり得たし、屋敷内の誰が見ても桐野はさつきとの距離の方が近かった。
嫉妬や相手にされない焦燥をぶつける相手は、比較対象であるさつきしかなかっただろう。
だから、別府が言っていた事は関係ないのだ。本当に向こうの一方的な言い掛かりだから。

「ただ私も馬鹿だからさあ……言わなくていい事言っちゃって、逆上させてどーすんのって自分でも思うんだけどね……」
「言わんでんよか事?」
「…………男咥え込むの得意でしょ?って言うから、こそこそ部屋に忍びこんで男咥え込もうとしてるの貴方でしょって」
「………………」
「言い返した……」

さつきの話を聞きながら浴室に移動してきていた別府は、無言で水を桶で掬うと、それをそのままザバーっとさつきの頭から浴びせたのだった。

「わっ!いきなり何すんの!」
「くっ、は、はは。ソーカ、言い返したか」
「だって黙ってるの癪じゃないですか。あっちは言いたい放題なのに」
「気持ちは分かるが、そいで怪我なんぞしたら元も子もなか。もう少し考えろ」
「うん……分かってる。大人げないなーとは、自分でも思う、ん、だけど」
「おい?」
「あー…………ヤだ、ごめん」

別府と話している内に涙腺が段々緩くなってきた。
滴が零れないように少し視線を上げて、片手で口元を覆う。

「……悔しい。何であんな事言われたりされたりしないといけないの?私、何もしてない。いるだけなのに、それもダメだって」

そう思っているのはあちら側の人間だけだ。
それは分かっていても、継続的に負の感情を付きつけられるのは結構辛かった。
さつきだって普通の女なのだ。鋼鉄のハートを持っている訳じゃない。

「ごめん、今の忘れて。いさせてもらってるだけでありがたいの、分かってるのに、わ」

我儘だよね。
そう続けようとして、ザバッとまた頭から水をかけられる。
文句を言おうしたが、別府が柔らかく笑うのでさつきは口を噤んでしまった。

「”もう少し考えろ”は言い過ぎじゃったな。悪い」

さつきは首を左右した。
心配してくれての言葉だと分かっている。別に気を悪くした訳じゃないのだ。
「ここに居りたいだけ居れ。兄が遠慮するなち言うちょるんに、誰を気にする事がある」
「ん……」
「頼まれて居てやってる。そう思え。堂々としちょればヨカ」
その言い草にさつきが思わず口端を上げれば、別府も微笑った。
「よし。湯でなくていいのなら水ば浴びろ。志麻を呼んで来るでまずはそん格好を如何いけんかせい。俺も着替えてくっで」
それだけを言うと、ぽんとさつきの頭に手拭を置いて別府は浴室を後にした。


あの後、別府は池の着物を引き上げその後始末を見かけた女中に頼むと、また屋敷を出たらしい。
だが暫くしてさつきが炊事場に顔を出した時には既に戻っていて、そこで氷嚢を作っており、
「あてておけ」
そう言ってさつきの頬に押し付けて来たのだけれど、思わずといった風に二度見してきた別府にこちらが驚いてしまった。
「え、何?」
「いや、そん格好……」
そう言えば洋服で別府の前に出るのは初めてだった。
借りていた着物は全て池に投げ込まれてしまい、着られるものが洋服しかないのだ。
「男みたいじゃな」
さつきにとっては至極普通の格好だが、確かにこの時代だとそう取られても仕方ない。
苦笑いしてしまった。

「氷、わざわざ買いに行ってくれたの?」
今は初夏だ。
冷蔵庫も冷凍庫もない世界で買える氷がある事にまず驚いてしまう。
「函館氷って言うんです。前に比べたら大分安くなったんですよ」
志麻が言うには、以前氷は輸入物が主流だったが今では国産化に成功、その分安くなっているのだそうだ。
「そうなの……あ。まだあるのかな?氷」
「結構残ってますよ」
「ホント?志麻ちゃん、水に砂糖混ぜて火にかけといて!別府さん一緒に来て。庭にヤマモモ取りに行こう」
「え?」
ぽかーんとしているふたりを余所に、さつきは笊を持つと別府を引っ張り出した。
    
器に削った氷の上に水と砂糖とヤマモモの果汁を煮詰めた簡易シロップをかけ、
「はい、どうぞ」
「おう」
別府に渡す。
土間の框の方では既に志麻と幸吉がきゃあきゃあ笑いながらかき氷を食べている。
もしかしてとは思っていたが、かき氷を食べた事がなかったらしい。
いくら安くなったとはいえ貴重品はやはり貴重品だったようだ。
甘いだの冷たいだの言い合っているふたりの様子が微笑ましくて、さつきも顔を綻ばせた。
そこで隣からの視線を感じたのだった。

「イマイチだった?」
「いや…………汝はあげな事があってん元気じゃな」
元気というか。
「美味しいものがあれば大抵元気」
そう言えば、匙を口にしながら別府が可笑しそうに笑った。
「嫌な事はすぐ忘れる事にしてます。みんな優しいしからいつまでもヘコんでられないし。今日は別府さんにも助けてもらって……氷、ありがとうございました」
アイシングしていれば、腫れも随分マシになる。

「……あれはいつからじゃ」
アレ……
「あんな感じになったのは最近かな?それよりご飯前におやつ食べちゃってお腹いっぱいになりそう」

”あんな感じ”になったのは確かに最近の事だ。
しかし別府の顔には「そんな訳ないだろう」とありありと書かれている。
このままだと洗い浚い話さなければならなくなるような気がして、さつきは強引に話を変えた。
はあ、と別府が嘆息したが聞こえないふりだ。


桐野は今日、帰りが遅い。
辺見もそれを聞いて雪緒とふたりの食事になる事を嫌い外食してくると言っていた。
雪緒はあの広い部屋でのひとりきりでの食事に気が引けるのか、それに先程の事もある為か、自室で先に食事を済ませていた。
別府は今までのごたごたに付き合っていたので、食事にありついておらず、
「えっと、ここで一緒に食べる?別府さんが、もし嫌じゃなかったら、だけど」
さつきがちょっと遠慮がちに誘えば、ふたつ返事で了承されてしまった。

食事中、聞けば別府は出張に行っていたようで、今日から休暇だとの事。
「それでここに顔出したの?」
「来てみたらあの騒ぎじゃ。エラい剣幕の怒鳴り声じゃったから一体何かと。ま、何日かここにおるでどこか出かけるか、さつき」
「え、私?」
「そうして下さい!別府さん!お願いします!」
「し、志麻ちゃん……」
「私も賛成や」
「幸吉くんまで」
「さつきさん、ほんまにちょっと外で息抜いた方がええと思います。実は明日にでも辺見さんに頼もう思うてました」 
「幸吉、志麻、何か欲しい物はあっとな。買うて来ちゃる」
「私三色団子がいいですー」
「私もそれがいいです」
「え、え、え、ちょっと」
自分抜きでどんどん話が進んでいってしまうのに焦ったものの、

「汝、どこか行きたい所はあるか」
「……この前のお茶屋さんがいいデス……」

周囲の勢いに簡単に丸め込まれてしまうさつきだった。



「さつきさん、明日楽しみですね〜」
「は、はぁ……」
不思議だ。何故か志麻の方がウキウキしている。
一緒に行くかと聞けば、何言ってるんですかーときゃらきゃら笑われて一蹴されてしまった。
そりゃそうだ。志麻にも仕事がある。
「一日のんびりしてきて下さい。さつきさんは人の事を考え過ぎです。自分の事、後回しにしてばっかり」
「そうかな」
「そうですよ。お団子忘れずに買ってきて下さいね!」
苦笑して頷けば、志麻も安心したのかほっとしたように笑った。

「それで、本当に付いて行かなくて大丈夫ですか?」
「いいよいいよ。志麻ちゃん明日も早いんだから、早く寝なさい」

明日の事じゃなくて、今日の風呂の話だ。
例の件のお陰で桐野から借りている着物が全部ダメになってしまった。
勿論寝巻も、その替えも。
志麻が新品を下ろそうとしたのを押し止め、さつきは自分が持っていたパジャマ変わりのキャミソールとショートパンツをキャリーバッグから取り出した。ただ手に取ったところで少し考えてしまったのだ。
(露出度高過ぎでは)
現代の自分の家なら憚る事はないが、シャツを羽織ったとしてもさすがにここではどうだろう。

それで今日は風呂は最後、遅い時間に貰う事にした。
あれから夜には何も起っていないし、書生たちの居室とも随分離れた所にある。多分大丈夫だろう。
(パッと行ってパッと帰ろう)
そう思って。




「すぐに帰るつもりだったんだけどなー」

こんなにゆっくり風呂を使うのは、ここに来てから初めてだった。
自分の家でもないし、後でまた湯を使いたい人がいたらと思うと多少の遠慮があり、そんなにゆったり時間をかけて湯に浸かったり体を洗ったりした事がない。
改めて見るとさすがに旧幕時代にお殿さまが使っていた風呂で、丁寧に使いこまれた歴史のある感じがする。
(檜だし……いい香り)
ほんのり薄暗い浴室で、湯も温くなっていたけれど、それが却って気持ち良い。
そんなつもりはなかったのに、こんな機会中々ないと思うとついだらだらしてしまう。
(まぁいっか。ゆっくりしていこ)

風呂椅子に座り、いつか桐野が分けてくれた石鹸の泡を腕や首周りにぽんぽんと置きながら改めて自分の体を見れば、知らず溜息が落ちた。
「酷いね、ホント」
腕も足も痣と怪我だらけで、これが女の体かと思ってしまう。
その上今日は顔、頭にまで怪我だ。

別府には悪い事をしてしまったと思う。
あんな所に居合わせて、平手打ちの跡や額についた血を直に見られてしまったから、手を出されている事を隠せなかった。
人に言わず我慢していた思いが漏れてしまったのは、多分それもある。

今更だが、別府の前であんな風に泣きそうになってしまった事をさつきは後悔していた。
雪緒の涙を見て「女の武器すげえ」と内心馬鹿にしたくせに、自分だって結果的には彼女と同じ事をした。
卑怯だ。
別府の立場からすれば、あんな姿を見せられてしまえば何らかのアクションを取らざるを得ないじゃないか。

さつきがいない間に別府は幸吉と志麻をつついて知っている事を聞き出していたようだったし……
別府は桐野に話してしまうだろう。

(面倒事持ち込みたくないって思ってたのに)

さつきは起っている事を桐野に話さなくていいと思い続けて来た。
しかしその自分の判断は、却って周りを振り回して徒に事を大きくするだけで……――間違っていたんじゃないか。
ツン、と鼻の奥が痛くなる。
雪緒の言う通り意地を張らずに自分が出て行きさえすれば、あれこれは起ってもここまでにはならなかったのかもしれない。

「……も、出ようかな」

自己嫌悪に負けそうになってそう呟いた時、突然風呂の戸が開いた。



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