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これでようやくひと段落する。
先日来からの懸念が払拭される事を思い、桐野は安堵の息を吐いた。

彼女には知人を介しては強引に、時には拝み倒されて何度か会い、その度に妙な雰囲気にされるので面倒な事になりそうな気がして、もう誘ってくれるなと断りを入れていたのだ。
しかしそれでは遅かったらしい。
幸吉と志麻から日中に女性が屋敷を訪ねてきたと何度か報告されたのはその直後の事。
そして嫌な予感が現実のものになったのは突然で、ある日帰ると雪緒がいた。

それから後の展開はいつも通りと言っていいほどいつも通りで、顔には出さなかったが桐野もうんざりしていたのだ。
それでもまだ状況がマシであったのは、さつきが理不尽な皺寄せを甘んじて受け入れてくれていたからで、気の毒な事をしていると知りながらも手を打つ間だけは何とか堪えてもらおう。そう思っていた。

いつもなら時間を置かず決着がつくのだが、ただ今回はそれが思いの外長引いた。
その内に屋敷の雰囲気は少しずつ屈折したものになっていき、以前の明るさや笑い声が目に見えて欠けていく。
屋敷に帰る度に蜘蛛の巣がはびこるような、そんな薄暗さが濃くなっていく様子をこれ以上は放置できずケリをつけて来たのが今日だった。


しかし。
帰邸と同時に迎えに来た幸吉から、
「さつきさんに言うな言われてたんですけど、私も十分我慢しました。もう黙ってられまへん」  
今日あった事の報告を聞いて心底頭が痛くなった。
何日か逗留するらしい従弟を呼んで来させ、幸吉も同席させた上で彼らが見た事聞いた事を全て話させた。

「……そげな事までしちょったのか」
嫌がらせ。
怪我。
痣。

さつきは平気そうに日々を過ごしていたが、見えない所で随分と酷い目に遭っていたらしい。
別府が何故今まで気付かなかったかと語気に若干の非難を込めたが、幸吉がそれを途中で遮った。

「それが分かったんはほんまに最近で、同じ部屋におる志麻さんも知らんかったんです」
「何?志麻も?」
恐らく辺見も気付いていない。さつきはそれほど普段通りに過ごしていた。
「でも、何か事情があるんやろうから先生に言わんでええ。それにみんなが要求するばっかりやと先生もしんどいし可哀想やろって」
「……そうか」
桐野も別府も一様に苦虫を噛み潰すような表情だった。


さつきの様子からして、手まで出されているとは思わなかったのだ。
部屋と食事、後はおかしな話位だと思っていたのだが、まさかそんな事になっていたとは。
自身の見通しが甘かったとしか言いようがない。

「晋介、陸軍省に出入りしちょるあの大店、知っちょるじゃろう」
「確か他省にも繋がりがあるちゅうて、……確か政府高官のどなたかの縁者じゃったとか何とか」
「そこの娘じゃ」
「…………」

「ほんま、言うてた通りや」
ぽそっと呟いた幸吉に、どうしたかと水を向ける。
「……さつきさんが、あの人先生の断り辛い筋から来とると思うって」
「さつき、いい勘しちょるな」
別府の言葉に桐野も肯首しながら、
「そいで断りを入れるんが長引いた。今あそこに引かれたら御役目の関係で困っ事が出そうでな」

何度か足を運んで雪緒を実家に戻そうとしたのだが、向こうは向こうで薩摩閥と繋がりを持ちたいらしく、のらりくらりと肯じない。
どうも雪緒が都合のいい話を親にしていた事もあったようで、話が中々通じなかった。
雪緒にも向こうの体面にも傷を付けないよう、穏便に事を済ませたい。
桐野はそう思っていたのだが、憩いとなるべき屋敷の状態は酷くなっていく一方で、こちらとしてももう強いられる我慢の線を越えていた。

そこで桐野は雪緒が桐野邸でしている事をそのまま彼女の父に告げたのだった。
先客を女だと言う理由で突如客間から追い出し、女中と同じ部屋に住まわせている事。
食事の場から追い出すよう画策し、従僕、女中と摂らせている事。
女性としてあまりに品性に欠ける噂話を書生や女中の間に広げている事。

桐野は知っている事を包み隠さずに口にして、これが貴殿の婦女教育かと暗に問うたのだった。
まさか娘が余所様でそんな事……桐野の顔のみならず実家にまで泥を塗るような真似をしているとは思わなかったのだろう、青褪めた顔の父に桐野は一言、
「迷惑だ」
と。
相手の態度は一変した。
平身低頭、謝す言葉がないようだった。

「明日先方が迎えに来る手筈になっちょる」
「そうじごわんすか。そいはようごわした」
「さつきにも謝らんといかんな」
聞けば何度か平手打ちまでされていた上、今日は石まで投げられていたしい。
女の顔に傷までつけておいて知らなかったでは済まされないし、謝って済む問題でもないだろう。


どうするか。
考えながら、ひとりで風呂に向かった。
湯を入れ替えます、とついて来ようとした幸吉にはもう休めと伝えてある。
脱衣所に入れば風呂場から僅かに灯りが漏れていたが、音がしなかったため最後の人間が消し忘れたのかと思ったのだ。
脱いだ衣類が暗がりに置いてある事に気が付かなかったのは迂闊だったとしか言いようがない。
風呂の戸を開ければさつきがいた。
叫び声が上がる前に彼女の口を抑え、落ち着かせれば大袈裟なほど大泣きされて、思わず苦笑してしまったのだが。

「……汝、こりゃ何じゃ」

震えていたのも、俯いて半分泣いていたのも分かっていたが、敢えて気付かない振りをしてさつきの体を検分した。
腕は、特に二の腕は痣だらけ、黄色の中に青やどす黒い紫が浮いている。
一体何をされたらこんな事になるのだろう。
肘や膝にも打った跡が残っており、擦りむいてまだ肉が見えている傷や治りかけの瘡蓋が両手では足りないほどあった。
(こいは酷か……)
桐野は眉を顰めた。
しかも顔を見れば片頬には確かに強い赤みが残っている。

こんなになるまで黙っていなくてよかったのだ。
助けを求めれば、もっと早く、どうにでもしてやれたのに。
これは少し話をした方がいい。
そう感じて、
「別に取って食いやせん。後ば向くでその間に入れ」
桐野は敢えてさつきの逃げ道を塞いだ。

身の置き場に困ってそわそわしていたさつきだったが、暫くすると自分から「開き直った」と言ってきて桐野は声を上げて笑ってしまった。
この女のこういう所は、本当に接し易くて気楽でいい。
少し離れた所で湯に浸かり、ぽつりぽつりと言葉を交わす。
すると段々と気持ちがほどけてきたのか、さつきが思っている事を少しずつ口にし始めた。

自分の存在は迷惑じゃないかとか。
自分がいつまでも甘えてるから、ややこしい事になったのじゃないかとか。
自分の取った方法が間違っていたんじゃないかとか。

――何か事情があるんやろうから先生に言わんでええ。それにみんなが要求するばっかりやと先生もしんどいし可哀想やろって

幸吉との会話を思い出す。
さつきが彼に言ったのは、桐野を気遣ってやれとか思い遣ってやれとか、そんな事だ。
そして”迷惑をかけたくない”。
そうした思いが元になって、さつきは揉め事を起こさないように行動していたようだった。
別府によると、確かにさつきも黙ってばかりはいられなかったようだが……
諸々を含めてそれが間違いだったとは桐野には到底思えなかったし、きっと志麻や幸吉、別府にしてもそうだろう。
それなのに、さつきはそれを自分で否定しようとしていた。

その上さつきは「桐野様」と呼んだ方がいいかとまで言ってきたのだ。言葉も改めた方がいいかと。
今までの交流は何だったのかと問いたい。
桐野はさつきの『普通』でいいと念を押すようにして言っていたというのに今になって……

「分不相応で図々しいって。ホントにそうだなって」

小さな声でそう言った女の顔は妙に寂しそうだった。
(そこまで追い詰めたか)
奔放のようで意外と慎重に線を引き、そこからは入って来ないような女を。

雪緒を思い出して苦々しく思う。
桐野の中で雪緒はただの見目麗しい、美しい女。元々それ以上でも以下でもなかったのだ。
ただその印象も屋敷の雰囲気が妙になっていくのに併せて悪化していき、風呂場で彼女がさつきに投げた言葉を聞いて”女”の厭らしさに直接触れた気がして嫌悪までが生じた。
顔が美しいだけにその醜悪さが余計に際立って見える。
そういう事に本人は気付かないのだろうか。




隣からの物音に目を覚ます。
もうそんな時間かと軽く雨戸を開ければ、桐野がいつも起きる時間より早いようだった。

「志麻」

静かに声をかけると朝の挨拶と共に小さく襖が開く。顔を覗かせた女中を室に招き入れた。
起こしてしまいましたかと頭を下げようとしたのを止めて、昨日従弟らと話した事を告げれば、志麻も堰切ったように知っている事を話し出した。

さつきの食事に気付かない内に異物が混入されていた事。
部屋を荒らされて、今は殆どのものを鍵付きの鞄に仕舞いこんでいる事。
真夜中に誰かが部屋の前に来た事がある事。

(…………それでか)
風呂でのさつきの取り乱し方に納得がいった。
あの時間だ。しかも屋敷の中心部から離れた風呂場、さつきにとっては状況的には密室同然だっただろう。
大声を上げても、男の力で組み敷かれ口を塞がれてしまえば終わりだ。
怖かったに違いない。
(大袈裟でも何でもなかったんじゃな)
内心、もう溜息しか出なかった。 

今日の予定を軽く話せば、志麻は心からホッとした様な息を吐く。
「汝にも心配をかけた」
「いえ……でも良かったです。さつきさんの事、本当にどうしようと思ってましたから……それに、」
同室も一緒に食事をするのも楽しいが、今の状態は良くないという事も分かっている。
そう言う志麻に返事を与えず、ぽんとその肩で手を弾ませると、
「引き止めて悪かったな」
朝は忙しいだろうと室から送り出した。

暫く考えて隣室を覗けばまだ朝早い事もあり、さつきは熟睡していた。
昨日の騒動の事も、遅くまで引きとめた事もある。平気そうな顔をしていても大分疲れたのだと思う。
風呂上りではほぼ裸に近い状態に、腕を晒したくなかったのか、シャツを着ていたが、今はそれさえ着ていなかった。
夜に目にした色の悪い痣の群れは、薄明かりとはいえ朝日の下ではより鮮明に桐野の目に映る。
(自分の痛みでなければここまでの事ができるのか)
知らず眉が寄った。


僅かな荷物以外、帰る家も家族も後ろ盾も、ここで生活する上の手段や知識さえないさつきにとって、居場所を与えている桐野は恩人以上のものだろう。
それは分かる。
感謝されている事も分かっているし、気を遣われている事にも、桐野は気付いている。

初対面時、男と同じ洋服を着てそれなりの態度で接して来たさつきに、桐野はこことは随分違うようだがこれは一応の教育を受けてきた人間だと感じていた。
書生も常に出入りしているから気にせず逗留せよとは言ったが、あの様子と性別を考えるとさすがに書生らと同じ扱いにするのは憚りがある。
それでとりあえずは客間にでも入れて様子を見る事にしたのだが。

部屋が自分には贅沢過ぎるから始まって、上げ膳据え膳が無理だと言い出し、暫くすると炊事場に出入りするようになった。
草抜きの許可を取りに来たと思ったら、その内志麻や幸吉を手伝い始める始末だ。
着る物にしてもこちらが見繕って与えなければ、持っている数少ない洋服を着続けるつもりだったらしい。

上京してからというもの、勝手に屋敷に来ては勝手な要求を付きつける女ばかりを見て来た桐野としては、何も持っていない癖に本当に何ひとつ要求してこないさつきは新鮮な驚きだった。
こちらの内証が世間的に見ても豊かであるのは分かっているのだろうに。
欲しい物や必要な物はないのかと問うた時には、「ない」と即答され、

「必需品は頂いていますし……住まわして頂いている事自体が、今の私にはすっごく贅沢な事なので」

屋敷周りの事を手伝っているのはその事もあるようだが、何もせずに一日をただ過ごすという事が苦痛らしい。
しかもさつきは自身を客人ではなくただの居候だと思っている。
そう本人が言っていると桐野は志麻と幸吉から聞いた。
今までの女と同じである筈がない。彼女たちとは心の持ち方が根本から違っていた。

屋敷で好き勝手にしているように見えて、さつきにはさつきなりの規範があった。
それに基づきどこまでが許されるのかという行動や言動の線が彼女の中にはあるようで、そこから先へは踏み込む様子がない。
身の程を知っているとか、分相応に振舞っていると言えば聞こえは良くないが、それが彼女なりの「客人」「居候」としての弁えだったのだと思う。いい距離感だった。
それを壊さない為に、雪緒が来た時には自分の立場を考えて何も言わずに一歩引いたのだという事が今になればよく分かる。

(すったもんだの挙句男に捨てられた、か。信じられんが)

そうした心の遣い方ができる人間は、捨てられる方ではなく捨てる方だと思う。普通は。
そうは言っても男女の仲だ。相性もあるし、駆け引きが上手くいかない事だってあるだろう。

昨日さりげなく桐野が口にした言葉は、さつきがなんだか必死な顔をしていたのでわざと誤魔化されてやったけれど、この女なら本当にそうなっても悪くないという気持ちは確かにあった。
だからかもしれない。
誤解される様な事をするなと言われた矢先に、さつきの髪を掬ったのは。
ただ桐野の内面に気付いていない(いや『気付きたくない』かもしれない)彼女が受け流す事は分かっていた。
けれどどういう反応をするのかを知りたくて普段口にしないような言葉を投げかければ、流し方が想像の斜め上を行っていた。

「私の事口説いてどーすんですか。お触り禁止ですよ。めっ」

今思い出しても吹き出しそうになる。めって。
そんな事を桐野に面と向かって言える女がどのくらいいると思っているのだろう。

(好ましい人間性じゃな)
そう思いながら、剥き出しになった肩まで夜具をかけてやる。
さつきは少し身じろぎしたものの、目を覚ます気配は未だない。
(……追い詰めた、か……)

雪緒だけに原因があるのではない事を桐野は知っている。
さつきの人間性?そんなもの、幸吉と志麻との交流を見れば大体分かっていた筈だ。
それにさつきが彼女ができる事で屋敷の役に立とうと、桐野らに感謝の意を示そうとしている事を承知の上で、桐野はさつきの人の良さと、彼女の立場を利用した。
さつきを追い詰めたのは雪緒だけではない、桐野も同じだった。
さつきだってそんな事、とっくに気が付いているだろうに。

罵りでもしてくれたら桐野としてももう少し気楽に対処もできようものを……
そんな事をする気もなく、言葉と食事だけで済ませようとしているに女にどうしたものかと桐野は思う。
これはこれで頭が痛い。

ただ一番の問題の解決がもう目睫の間に迫っている事、それが目下の救いだった。



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