いつもの時間に起きられず寝過ごしてしまった。
「昨日は大変でしたもんね。夜も遅かったですし。さつきさんもお疲れだったんですよ」
志麻はどうやら気を遣って起こさずにいてくれたらしい。
しかも良い事でもあったのか、なにやらえらく上機嫌だ。
「朝食はこちらに運びますね」
「あ、うん……」
「もう少し休まれます?」
「いや、もう起きるよ。食事も自分でするから、志麻ちゃんは自分の仕事してきて」
志麻を送り出すとさつきはもう一度布団に転がって大きく伸びをした。
昨日は色々とあり過ぎた。志麻の言う通り確かに疲れていたと思う。
精神的に。
雪緒の中庭での行動はある程度想定できたが、桐野の行動は、あれは本当に想像の遥か斜め上を行っていた。
(……そうは言ってもあれはないわ自分……)
不可抗力で開き直ったとはいえ、一緒に風呂に入るだとか、部屋まで背負ってもらうだとか。
いくら親しくても相手は付き合ってもいない男だ。女としてさすがにこれはどうかと思う。
しかも格好はショートパンツにキャミソール……
一応と思ってシャツを着ていったのは辛うじて救われるけれど、常識的に考えて昨夜は完全にアウトだ。
桐野だって内心は呆れていたに違いない。
(でも、隣に来るか、とか)
あれには本当にドキッとしたし、実際妙な雰囲気になりかけたけれど、
(揶揄われてるんだろうなあ)
冷静にそう思った。
桐野が自分に声をかけてくるほど不自由しているとは到底思えない。
それに単に遊ぶだけなら、回りくどい言葉等かけずその場で襲ってしまえば終わる話だ。
状況といい格好といい、そうなってもおかしくはなかった。
それにさつきの立場からすればそうされても文句など言いようがないのは、桐野だってよく分かっている筈だ。
それでも何も起らなかった。
「お前は面白いからな」
―― なんて。
本当にそれで遊んでいるような感じでもあったし。
いつもぽんぽんと軽い感じで話に乗っかってくれるので、さつきだって桐野との会話は楽しくて好きだ。
しかしそれは度を超すと他人から誤解される事が多いのも確か。
(ちょっと話してるだけでも雪緒さんは誤解してたし)
今まで誤解されるほど接近したつもりはなかったけれど、現代と明治の男女の距離感覚はきっと違うだろう。
(気を付けないと)
何にせよ、その気がないのなら程々の接触がいいのだ。
そう思えば思う程、昨日の風呂場のあれは反則だ。その思いが強くなった。
(遊びでもあんな事言われたら本気になりそうだわー)
冗談にしては質が悪すぎる。
(家にまで押しかけてきちゃう女の人の気持ち、分からなくもないなあ)
別府から聞いた時は「そんな事する人いるの?」だったけれど、今なら、まあ何となく。
昨日の今日で桐野と顔を合わせるのは正直とても気恥かしいが、自分がそういうのではないのは確かだし、それは桐野だって分かっている筈。
いつも通り、今まで通りの態度でいよう。
そう思ってさつきは体を起こした。
今日は来客があるらしい。
その準備で志麻が庭に咲いている花を切り出し、花瓶に活けていた。
数があるのは恐らく辺見や別府の部屋の分もあるからで、「そっちは私が持って行くよ」、ふたつの花瓶を抱えると既に出勤していて主不在の辺見の室を回り、次いで別府の室に。
部屋を覗けば別府は刀の手入れをしていて、邪魔をしない方がいいだろう、そう思ったさつきは軽く挨拶をしただけで退出しようとしたのだけれど。
「すぐ済む。そこに座っとれ」
呼び止められてしまった。
「辺見にも話しちょらんかったんか」
さつきが返事に窮したのを見て、別府が片眉を上げた。
確かに辺見に話していたら昨日のような形で別府に現状を知られる事はなかっただろう。
別府は聞き知った事、見た事全てを桐野に話してしまうような気はしていたが、果たして本当にそうなっていた。
聞けば昨夜幸吉とふたりで洗い浚い桐野の前にぶちまけたらしい。
その時まで桐野もさつきへの暴力については知らなかったようで、酷く驚いていたと。
(昨日きぃさんが痣と怪我の理由を突っ込んでこなかったのはそれでか)
これは何だと聞かれてさつきが答えられなくても桐野は深追いしてこなかった。
目にしたものと聞いていた情報が一致したからだろう。
「志麻さえ知らんかったのなら、兄や辺見が知らんでも仕方なかったかもしれんがな、後で知らされる者の気持ちも考えろ」
別府はいつも、本当に黙らざるを得ないような正論をさつきにつきつける。
特に辺見は「大丈夫か」とさつきの顔を見る度に声を掛けてくれていたのだ。この前だって腹を割って話してくれて……
辺見は本気で心配してくれていた。
そんな事分かり過ぎるほど分かっていた筈なのに、何度も話す機会はあった筈なのに、さつきは辺見に相談しなかった。
「辺見に怒られるのは覚悟しとけ」
「……はい……」
「まあ、な。言えんかったちゅうんは分かるぞ。汝は辺見に向うて兄に文句をつけるなんち事、ようせんじゃろうからな」
「……分かってくれてありがとう」
辺見にだって立場がある。
郷党の先輩である桐野とさつきとの間で板挟みにするなんて事は、どう考えてもできなかった。
「昨日の事、俺が見つけて良かった。今日で全部終わるとしてもな」
…………え?
「なんじゃ、知らんのか。あの女、ここにおるのは今日までじゃ」
「えー!?そ、そうなの?きぃさん昨日はそんな事一言も…………ただもう終わるってだけで」
「昨日?」
「夜にお風呂……の方で会って、その、少し話して」
ん、と別府が首を傾げたのを見て、慌てて言い訳をした。「風呂の方」ではなく「風呂で」だけれど。
と言うかちょっとテンパって言わなくてもいい事を言っている。
「あ。今日のお客さんて、もしかして雪緒さんのお家の方?」
「兄が昨日話をつけてきたそうじゃ。父御が迎えに来るちゅうとった」
「そっか……」
「……如何した?」
「あ、何でもない。ただちょっと……」
さつきは本来明治時代にいる筈のない人間だ。
さつきがいなかったら雪緒だってあんな風に暴走する事はなかったかもしれない。
それこそ桐野に隣に来るか、なんて…………
そんな事も言われていたかもしれない。
「……ちょっと気の毒だなって、思っただけ」
「汝は人が良いのか馬鹿なのか、よう分からんな」
「ちょ、バカって……」
確かにあれだけの事されておいて、「気の毒」という感想は中々ないだろう。
その内玄関の方が騒がしくなってきたのでその来客かと思いきや、約束の時間にはまだ早く、どうやら桐野が帰ってきたらしい。
今日は土曜日だが半ドンにしてもまだ早い。
「今日は顔だけ出して帰ってくるちゅうとったで」
「そうなの」
寝過ごしてしまった為、さつきはまだ桐野に朝の挨拶すらしていない。
出迎えに顔でも出そうかと思ったのだが……止めた。
どうせ雪緒が玄関先に迎えに行っているだろう。
いくら今日で彼女がいなくなると言っても、それで安心してのこのこ姿を出すだなんて、そんな底意地の悪い真似はさすがにしたくなかった。
「てゆーか、さ。雪緒さんはお迎えが来る事知ってるの?」
「さあ……俺もそこまでは」
昨日の桐野の帰宅時間とその後の行動、そして今日は朝から出勤していた事を思うと、
「その話、多分今からだよね……」
桐野が早く帰って来たのはきっとその為だ。
「外出、どうする」
少し考え込んでしまったさつきを推し計ったかのように別府が水を向ける。
屋敷にいない方がいいのかもしれないが、雪緒の事を聞いてしまってはなんとなくそんな気にならなかった。
行きたいのは山々だけど……
「こんな時に遊びに行くっていうのも、なんかね」
「俺もそう思う」
正直に口にすれば、別府も肯首して日を改める事になった。
別府には提出しなければならない報告書があった為、開いた時間をその作成に費やすとの事。
屋敷でうろうろしない方がいい。ここにいるか?
別府はそう聞いてくれたけれども、さすがに邪魔になるだろうとさつきは遠慮した。
(草引きでもしようかな)
なんなら木陰で本を読んでもいい。
(あ、そうしよう)
いつか篠原が慰めてくれたあの辺りなら、きっと屋敷の中からは分かりにくいし、いい木陰がある。
お誂え向きだ。思い立ってすぐに室に帰り、ペーパーバックを持ち出した。
敷いた蓆に行儀悪く横になりゴロゴロしながら読書していたのだが、初夏とはいえ屋外で長時間過ごすのはさすがに暑く、さつきは一度部屋に戻る事にした。
(喉乾いた……)
戻る前に炊事場に恐る恐る顔を出したが誰もいない。予想はしていたが少しホッとした。
雪緒は桐野と居間、恐らく藤乃も一緒だろう。
幸吉と志麻はそこに同室してはいないだろうが、桐野が呼べばすぐに顔を出せる範囲にいるはず。
今ここに来る可能性があるのは別府だけで、それなら少しここで涼んでいこうと水を汲んだ湯呑みを手に框に腰をかけた。
「ありゃ。志麻ちゃん忘れて行ったのかな」
板間には古紙の上に水切り後の植物の茎や植木鋏や置いたままになっていた。
(あー……)
忘れて行ったのではなくて、作業の途中に桐野に呼ばれたのだろう。
鋏をジーンズの後ろポケットに差し込み、ゴミを古紙の上に掻き集めるとそれを丸めて捨て、床を雑巾でさっと拭いて立ち上がる。
(部屋に戻ろう)
別府の言う通り、あまりうろうろもしない方がいいだろうと廊下を急いだ。
しかし。
「…………」
「…………」
部屋に向かう途中、折悪しく雪緒と藤乃にばったり出くわしてしまった。
ジーンズにキャミソールにシャツという格好であったから向こうはすぐにはさつきだと認識できなかったらしい。
初めは訝しげな視線を向けていたが、さつきと分かるやその顔つきが一瞬にして変わった。
(怖い怖い怖い怖い)
さながら般若のようにこちらを睨めつけてくるふたつの顔が滅茶苦茶怖い。
(なんなのこのタイミングの悪さ!)
我ながら何か悪い事でもしたのかと聞きたくなるほどの間の悪さだ。
ふたりの様子からすると桐野との話はもう終わったのだろう。
そこで実家に帰れと言われているだろうから、家に帰る準備を今からするのか、もう準備をし終わって迎えを待っているのかどちらか。
多分、一番悪い時に顔を合わせてしまった。
このまますれ違うのは嫌だ。
さつきは雪緒の退去について何か手を回すような事も、疚しい事も何ひとつしていない。
ただ相手はそうは思わないだろう。
暴言だけで済むならいいが、それ以上の揉め事に巻き込まれるのはさすがにもうごめんだった。
しかし引き返すか、少し迷っている内にも相手がどんどんとこちらに向かってきてしまう。
焦る。
ただここは部屋に面した廊下で、風を通すために障子が開けられていたのを幸い、さつきは彼女らを避ける形ですっとそこへ入ったのだった。
部屋の奥の襖から違う廊下に抜けよう。
そう思ったのだけれど。
「きゃあっ!」
急にがくんと後ろに倒れ込んだ。
髪を掴まれて引き倒され、まさかそんな事をされるとは思っていなかったため心の準備もなかったし、咄嗟の対応もできなかった。
倒れた拍子にポケットから何か落ち、畳を滑って行ったのが視界の端に映ってハッとする。
(ハサミ)
この状況で刃物はさすがに怖い。
振り向きざま、ふたりの視界を塞ぐようにして咄嗟に体をずらすと同時に藤乃が肩にぐ、と足をかけ
「この、女……!」
さつきを蹴り倒した。
「のこのこ!顔を!出して!笑いに!来たのかッ!」
身体を起こそうにも藤乃が踵で蹴りを入れてくるので立ち上がれない。
それでもさつきには危機感などは生まれず、逆に段々と頭が冷えていった。
ヒートアップする相手を見るほど、こちらはクールダウンする。
階段や廊下ではいつ書生たちに出くわすかという若干の恐怖があったのに、このふたりと遭遇した時は不思議といつも冷静になっていく。
昨日もそうだったし、以前藤乃を問い詰めた時もそうだった。
その時は何故そうなるのかが分からなかったけれど、――ああ、そうか。
(私、結構怒ってたんだ)
顔を庇うようにしていた両腕をぐっと前に出すと、足の着地位置が変わって藤乃がバランスを崩した。
その機を逃がさず立ち上がれば、藤乃がドスンと音を立てて尻もちをつく。
こちらを見上げてくる顔には不安の色が差していて、今までの強気はどうしたのかとさつきは知らず笑ってしまった。
「負け犬の遠吠え」
と、今言える精一杯の皮肉でも言ってやりたい気もしたが、昨日別府に言われた事を思い返してそれは止めた。
相手と同じ土俵に乗ったら負け。自分でもそう思ったじゃないか。
自分まで堕ちる事はない。
しかし口を開きかけて止めたさつきををどう見たのか、藤乃は金切声を上げてさつきを罵り始めたのだった。
(そんな事したら人が集まってくるのに)
どれだけ墓穴を掘れば気が済むのだろう。
雪緒と言えば、その様子を言葉もなく見つめていた。
怒りを通り過ぎたのだろうか、泣いていた。ここで出会った時点で目元が赤かったから既に泣いていたのだろう。
「家に帰れ、ですって。思い通りになって満足?藤乃の言う通り笑いに来たんでしょう?」
(だーかーらー違うっつーの)
「……どうしてよ……」
「は?」
「なんでなの!?あんたなんかのどこがいいのよ!」
(またか……)
罵詈雑言のバリエーションの少なさにうんざりする。他にもっと言う事はないのか。
それにこのふたり、人のせいにするばかりで身から出た錆とはまるで思っていない。
それが一番腹立たしかった。
「なんでも人のせいにしないで。それに私は今回の事、何も知らないし何もしてない。貴方がたが帰る事もついさっき」
「嘘!そんな筈ない。見たのよ、昨日!桐野様があんたを背負って部屋に行くところ」
(あらま)
まさかあの時間の出来事を見られているとは思わなかった。
「あれから桐野様は部屋から出て来なかった。何もしてない?知らない?よくもそんな事が言えたものね」
はーーーーっとさつきは盛大に息を吐いた。
このふたりは聞いた話を自分たちのあらまほしい方向に捻じ曲げようとする。それならこちらが何をどう話そうが同じ事じゃないか。
そもそもさつきが何を言ってもこのふたりは信じる気がないのだから余計に。
「百歩譲って私が嘘吐いていたとしても……それをそちらに責められる言われはありませんが」
さつきと雪緒の関係は、この屋敷に滞在している者同士というだけ。それだけの関係だ。
何の上下関係もないのに、なぜ常に上から目線なのだろう。
「私、昨日言いましたよね。貴方のしてる事を桐野さんが知ったらどう思うかって。藤乃さんにも言いましたよね?こんな事してても雪緒さんの立場が悪くなるだけだって」
「私の告げ口で追い出される?お門違いよ。自業自得じゃない」
>conflict:衝突 141220130715