雪緒に髪を切られた時、鋏が首を掠ったのだろう。
さつき自身は軽い興奮状態で怪我をしている事に気が付かなかったけれど……
志麻と藤乃が震えていたのは、大した事はないとはいえ刃物による怪我での流血を目の当たりにしたからかもしれない。
生温かい感触が首筋に当たる。
傷口から流れる血を桐野が舐め取った、ようだった。
「………………」
「………………」
桐野とばちんと目が合う。
何が起っているのかよく分からないといった表情で、大きく目を見開いたさつきを見て目の前の男は口端を上げた。
この、笑い方……
(――なんか)
嫌な予感。すごくヤな予感がする。
今、珍しくも屋敷の全員が一ヶ所に揃っている。
その目の前で何かする気だ。内心随分混乱していたけれど、それだけは何となく分かった。
離れた方がいい、絶対。
掴まれたままの腕と逆の手で桐野の体を押し離そうとしたが、さつきの力ではそれも適わない。
離れるどころか両腕を掴まれ、結果的には軽く拘束される様な形になってしまった。
さつきが身動きできなくなった所で、
(え、え、やだ、近付いてくる、え、嘘、)
桐野は首筋の傷口をもう一度唇で触れた。
(ぎゃーーー!!)
びくっと体が跳ねたが、叫び声は音にはならなかった。
自由がきく肘から下で桐野の太腿辺りをガンガンと叩いて抗議をしても、当の本人は首元で軽く笑うだけ。
全くもって腹立たしい。
(て、てゆーか……くすぐったい!笑わないで……!)
しかしながら桐野はさつきの抵抗も内心の焦りも完全スルー、全くどこ吹く風だ。
しかも唇で触れた後、傷口を舌で軽くなぞってきた。
「ぁ……っ」
違う意味で場が凍った。
耳まで真っ赤になっているのが自分でも分かる。
居た堪れなさに周囲が見られず、さつきは桐野の肩に顔を埋め隠した。
「なんちゅう声じゃ」
耳元で笑いを含んで囁かれた声に内心で猛抗議する。ぎゅうっと腕を抓ってやったが桐野は笑いを深めるだけだった。
完全に遊ばれている。
あまりの恥ずかしさに涙が出そうで、すんと軽く鼻を啜りあげたら名前を呼ばれた。
涙目で桐野を見上げれば、
「ん、……」
零れかけた涙まで唇で吸われてしまう。
(もう、どうしろと……)
精神的に酷く疲れてしまってさつきはくったりと桐野に凭れかかった。
「今更照れんでもヨカじゃろう」
今更?今更って何の話。
よく理解できなかった。
桐野は普段と変わらない様子で話しかけてきている。
が、その様子と内容には酷くギャップがある気がした。
突然の振りについて行けず思わず視線を彷徨わせたが、周囲はと言えばただぽかんとしてこちらを見つめている。
別府と目が合い、ここぞとばかりに助けを求めるも何事かを察したか、彼は苦笑いして首を左右するだけで助けてくれるような気配がない。
その内「こら、余所見するな」と意識を戻されてしまった。
「一緒に風呂まで入ったんに」
「ちょ、ちょ、ちょっと、待っ、」
確かに一緒に入った。開き直りもした。
でもそれは桐野が逃げ道を塞いでしまったから仕方なくだ。自ら望んでじゃない。
「体も隅々まで検分したな。ほくろが」
「はあ!?何言って」
嘘じゃないが、体全部じゃない。怪我や痣のある手足位だったし、それだって半ば無理矢理だった。
だが内容が内容だ。
さすがに周囲がざわっとしてその雰囲気にさつきは逃げ出したくなった。
「胸の谷間にふたつ、腰の」
「わー!わーー!!わーーー!!!ストップ!!」
いつの間にか自由になっていた手で桐野の口を塞いだ。
「……きぃさん」
「髪、長くても短くてもどちらでんヨカじゃろう」
「…………」
「結構似合うぞ」
さつきはもう滅茶苦茶涙目になった。
ここにいる全員にばっちり聞こえた筈だ。
今の様子を見ていれば誰だって桐野とさつきは既に男女の仲だと思うだろう。自分が第三者ならこいつらできてると断定する。
(ち、違うのに……!)
それをわざわざ誤解されるように話さなくても。
話の内容が事実だけにややこしいというか、厄介な事態になってしまった。
「…………」
ぺしっと間近にある桐野の頬を打てば周囲の空気が固まった。
でも、さつきは少し怒っていたのだ。
こんな形で見せつけられてしまえば、周りの人たちに何もないと説明してきた桐野との関係が嘘になってしまう。
それはこれからの屋敷内でのさつきの立場や、交流のあり方にも関わってくる事だ。
桐野には些細な事かもしれないが、さつきには大問題だった。
そうでなくても桐野との事は昨日の事もあってちょっとデリケートなのだ。
それにさつきの心は連続するトラブルに対してそんなに打たれ強くもない。
少しは容赦して欲しいのに。
「……悪ふざけ、すぎ」
そんな気もない癖に。
人がいる前でこんな風に、わざと誤解されるように揶揄うなんて酷い。
今この状況で桐野が芯から自分を揶揄って遊んでいるとは思えなかったが、ちょっとやり過ぎだと思う。
それにさつきは昨日、中途半端に女を煽るなと言って釘まで刺したのに。
「否、そうでんなか」
だが冗談の色が抜けた桐野の声に、さつきは眼を丸くしてしまった。
声だけじゃない。見れば顔も真剣で、少しだけ怒っているようだった。
(そうじゃないって……からかって遊んでるんじゃないって事?)
何となく続きを聞かない方がいい気がしてさつきは僅かに後ずさったのだけれど、足はそれ以上動かなかった。
「ふざけちょらん。昨日の事もな。じゃがそう言えば困るのは汝じゃろう」
「あ……」
「俺はもう暫く誤魔化されちょった方がヨカち思うちょったんじゃが、」
もう一度問うてもいいのか?
――さつき、俺の隣に来るか
「……や……!」
どんっと桐野を突き放すと、呆然としている人たちの間を抜けて、さつきは一目散に廊下の先へと走り去った。
「さつきっ」
辺見が彼女を追いかけたのを尻目に、大きな溜息をついたのは別府だった。
それを合図にしてか、周りの者たちもはーっと細く息を吐き出す。
ここで見ていていいのかという場面の連発で、さつきも居た堪れなかっただろうが、見ている方だって随分居た堪れなかった。
「……
「嫌われてしもうたかな」
「さあ。まあ、少しくらいなら脈はありもんそ」
「少しか」
「あいつを口説くんなら冗談半分では無理じゃち思いもす。そいに兄、えらく拒否されちょったしな」
そう言って容赦なく笑う従弟に桐野も苦笑いしてしまった。
そんな様子を、他の人間と同じように雪緒も言葉もなく見つめていたのだが。
桐野がそちらへと向き直れば、彼女はびくりと反応した。
「雪緒さァ、今見た通りじゃ。悪いが
「どうして!?どうしてあんな恥知らずな真似をする女がよろしいのですか……!」
「恥知らず?」
「嘘をついていたではありませんか!」
さつきはこの屋敷の単なる客分だと、桐野とは何でもないと言い続けてきた。
のに。
違うじゃないか。
風呂に一緒に入った?体を検分した?
それに雪緒は昨夜、実際に半裸に近い状態のさつきを背負って部屋に入って行った桐野の姿を見ているのだ。
これで何もないとは言わせない。
「あいつは嘘など言うちょらん。風呂は偶然じゃ。あいつが出て行こうとするのを俺が無理矢理引き止めた」
体を検分したのは痣や怪我があまりに酷かったから。
さつきを背負って部屋にまで行ったのは、湯疲れでまともに歩けない彼女が危なっかしかったから。
「部屋でさつきさんと一緒に寝ていたのは私です……」
そこで志麻がおずおずと口を挟む。
「ああ、そうじゃな。俺はその隣室で休んだ」
「どうしてそんな所で……」
「自室には夜中に頭の黒かネズミが出っで」
「!」
顔を真っ赤にして雪緒が黙り込む。
「雪緒さァ、俺の生まれを知っちょるか」
「え?」
桐野の家は藩から扶持を貰ってはいたが、父が流罪になり無録となった。
薩摩での若き日々は本当に赤貧洗うが如しを地で行く生活だったのだ。
「米なんぞついぞ食った覚えはない。そいでも油虫が入ったメシは俺でも遠慮したい」
「…………」
「メシを無駄にするんは心底感心せん」
藤乃が小さく叫んで手を畳につき頭を下げた。
「そいに俺は女の肌に目を逸らしたくなるような痣を山ほど作ったり、顔面に石を投げたり、人をけしかけて怪我をさせるような人間は嫌いじゃ」
「そ、それは……」
「あわよくば手籠めにでもしてやれと唆すのもな」
桐野の言葉に雪緒の父がえっと息を飲んだのが伝わった。
「……行動に移しとらんで良かったな」
これは棒のように突っ立っていた書生たちへの台詞だ。覚えがあるのか何人かが凍りついた。
「さつきは部屋も食事の場も貴方に譲りもした。今までされた事も、他人に見られた時以外は口外しちょらん。今に至っても俺には何の相談もなか」
桐野が知っているのは、さつきの周りの人間から聞き出したから。
「ここ以外に居場所のない女が屋敷を追い出されかけちょるんにな」
なんだかんだ言っても、さつきは文句を表に出さずに雪緒を優先していたのだ。
「恥知らず、か」
「…………」
「俺はそうは思わんが」
「貴方の父御とも話ばつけもした。これでもうお引き取り願いたい」
桐野の最終宣告に雪緒が言葉を発しようとしたけれど、
「志麻。客人のお帰りじゃ」
「あ……、はいっ」
有無を言わさぬその様子に結局は口を噤んでしまった。
「貴方はもう少し思い遣りを知る事と……人の痛みを想像できるようになった方がヨカ」
静かにそう零すと、桐野は雪緒の父に軽く会釈をして部屋を後にした。
Emergency Call:緊急警報発令
油虫というとテントウムシの好物を思い出しますがGの事です。15221130719