「まあ、辺見の言う通りじゃな」
お前はもう少し人を頼る事を覚えろ。
少し落ち着いた頃を見計らって別府は言葉を重ねた。
さつきは子供じゃない。いい大人だ。それも同い年の。
それなのに念を押すように口にしたのは、昨日と今日の彼女の様子に意外と肝が冷えていたからかもしれない。
昨日庭で見た光景を思い出すと、別府は今更ながら背筋が凍るのを禁じ得なかった。
あの女は、雪緒は、下駄の歯でさつきの顔を殴りつける気でいた。
今見たさつきの外傷は確かに酷かった。しかしあんなもので殴られるよりは遥かにマシだろう。
ぞっとしたのだ。
もしあの時、あの場に別府が居合わせなければ……確実に怪我では済まない事態に陥っていた。
「さつき」
名を呼べば少し潤んだ双眸がこちらを向く。面貌には多少の痛々しさは残っていたけれど、
(……この程度で済んで良かった)
そうだ。この程度の怪我で済んで良かったのだ、本当に。
辺見が怒るのも無理はない。
別府はそう思う。何せ別府自身も少なからず怒りを感じているのだから。
桐野邸に雪緒が来ていた事を知ったのは昨日の事だ。そんな別府に今までさつきが受けていた仕打ちを知れという方に無理がある。
しかし別府は「困った事があれば言って来い」とさつきに予め言っていたのだ。
言外に何かあれば助けてやると。
そう言っていたのに。
さつきはこんなにぼろぼろになっても何も言ってこなかった。
否、見つからなければ誰に言うつもりもなかったのではないか。
(ああ、そうか)
そこではたと気付く。
――怒っているのはさつきに対してではない。
こうなるまで何もできなかった、何もしてやれなかった己の不甲斐なさに対して、だ。
或いは頼られなかった己の情けなさに対してかもしれない。
恐らく辺見も同じだと思う。
さつきが屋敷にやって来た当初別府が彼女に対して抱いた疑念は、志麻や幸吉、辺見や桐野といった生活を共にする人々の話を通して、また自身がさつきと接する事で、今やすっかり消失していた。
別府から見たさつきはお人好しで気立てのいいよく笑う女だった。
そして周辺の人間を思い遣る優しい女だった。
そんな女のこのような姿を、別府は見たくなかったのだ。
痣ですっかり色が変わってしまった腕であったり、池の中で悄然と座り込む姿だったり、泣くのを我慢するような顔であったり。
久しぶりに屋敷に顔を出して目にしたものは、どれもこれも己が知っている如月さつきからは程遠いものだった。
……こんな姿、見たくなかった。
別府は己が思っていた以上にこの女を守ってやりたかったのかもしれない。
(八つ当たり、か)
自分の力の及ばなさへの怒りをさつきに見せるのはお門違いだ。それは八つ当たりだろう。みっともない。
ひとつ息を吐いて感情を整理すると、依然こちらを見つめたままのさつきに話しかけた。
「……自分を粗末に扱うのは止めてくれ」
「そんな、粗末だなんて」
「否、汝は全然分かっちょらん」
本当に、全部辺見が言った通りなのだ。
何かあった時に自分が我慢すれば済むなんて思わないで欲しい。それが「粗末に扱う」以外の何だというのだろう。
そんな自己犠牲は必要ない。
「さつき、昨日も言うたが”置いてもらっちょる”とかそげん事考える必要はナカ。引け目を感じる事もな。変に気を回し過ぎるな」
「困った事があれば誰にでもいい、遠慮なく言え。隠すな。周りに迷惑がかかるなんち思うな」
「……迷惑じゃのうて、心配なんじゃ」
黙って聞いていた辺見と志麻が肯首している。
「しんぱい」
「迷惑がかかるからと口を噤まれると、余計に心配になる」
「そっか……」
「ああ。汝なら分かるじゃろう?」
「ん、分かる。……分かるよ」
「二度は言わんぞ」
「……ハイ」
ありがとうと小さく零した女の唇が、緩やかに三日月を描く。
(やはり笑っちょる方が、)
断然いい。笑っている方がかわいい
何の引っ掛かりもなく、自然にそう思った。
さつきは飛び抜けて美しい訳ではないし、別府はさつきよりも美しい女を多く知っている。
それはどこぞで評判の美人であったり美妓であったりと様々だが、美を全面に出す女とは違う
沈んだ気分を引き上げてやる為に辺見がさつきを揶揄い始めたのに別府も便乗した。
が、気丈な女が垣間見せた脆さにぐっときたというのは、実はまんざら嘘でもなかったのである。
いきなりかわいいなどと言い出した辺見も恐らく同じだ。
そして桐野も、きっと同じだったのだろう。
三人が三人とも、割合真面目に『女』としての良さをさつきに感じている。
(ああ、確かにヨカ女じゃな)
見目ではない所でそう思う。
雪緒は目が覚めるような美女だったが、別府が見た姿は何れも顔が引き攣るような場面ばかりだった。
ばかりというか、それしかない。
特に昨日見たあの変わり身の早さ。
目の前でいきなり見せられたあの激しい表裏の入れ替わりには、正直言って嫌悪しか湧かなかった。
そして聞いたさつきへの数々の仕打ち。
雪緒を見知って二日しか経っていない別府でさえ、彼女に対しては負の感情しか抱けなかった。
ましてや近くで、それも共に暮らす人間がどう思うかなんて推して知るべしだろう。
(そりゃ無理じゃ)
雪緒が張り合える筈が無い。
張り合うにしてもさつきと雪緒とでは人としての心根の部分に差があり過ぎる。そもそもの土台が違い過ぎたのだ。
それに、
――何か事情があるんやろうから先生に言わんでええ
――みんなが要求するばっかりやと先生もしんどいし可哀想やろって
こんな思い遣りをしてくれる女に泣かれてしまえば、それが男の琴線に触れまくるだろう事は簡単に予測できる訳で。
何となく先程の従兄の様子が思い出された。
(無理矢理引き止めて風呂、か)
淡白なように見えて桐野が意外と男の欲に忠実である事を別府は知っている。
怪我の検分と言ってはいたが、あの従兄の事だ、さつきが強く拒否できないのを知っていて彼女の身体を眺め倒したに決まっている。
その上風呂上りの薄着の女を背負って部屋にまで連れて行ったという。
それは普通ならどう考えても据え膳で、送り狼なのだが。
従兄だって男だ。何も問題が無ければ適当な部屋に連れ込んでそこでおいしく頂く、位の事はする訳で。
そこまで考えてカリ、と首筋を掻いた。
「……よう食われんかったな」
「え、何?」
キョトンとした顔で聞き返すさつきを、別府は言葉もなく見返す。
従兄も他の女なら簡単に抱いただろう。
だがさつきは一時的な性欲で遊んでいい女とは思えなかった。
抱くなら身体と一緒に心も。そういう類の女だろう。どちらかというと。
そう思える程度にはさつきは意識されている。
そこで一度思考が途切れた。
(…………)
そして己を顧みて、別府は思わず笑ってしまったのだった。
暫く前までこの女は従兄を誑かしに来たのだと思っていたのに、今のこの心境は一体どうだ。
「……別府さん?どうしたの?」
「イヤ、何でんナカ」
辺見は本当に面白い拾いものをしたものだ。
「入るぞ」
室に静かに響いた桐野の声にさつきの肩がびくりと跳ね上がった。
顔を合わせ辛いのだろう、どうしようと焦っているのが丸分かりであちらこちらに目が泳いでる。
「さつき」
「っは、はい……っ」
別府がさつきから少し距離を取ると辺見と志麻もそれに倣い、空いた座に従兄がどかりと腰を下ろした。
しかし名を呼ばれただけでこの動揺ぶり。
先程の別室でのやり取りについてはさつきに非は無く、従兄のやり過ぎが原因なのは彼自身を含む全員が分かっている。それに従兄は怒ってなどいない。
だからさつきが怯える必要はこれっぽっちもないのだが、別府は敢えて黙っていた。その方が面白そうだった。
「……あの……ご、ごめんなさい……」
「ん?」
いきなり謝られるとは思っていなかったのか桐野が軽く首を傾げる。
「さっきの、」
「あァ……ありゃ汝が悪いんではなかろう。謝るのは寧ろ俺じゃ」
「え、と」
「驚かせて悪かったな」
「イエ……」
消え入りそうな声に、桐野がクツリと笑った。
「さつき」
「…………」
「さつき、こっちば見ろ」
それは婉曲な命令で、こんな言われ方をすればさつきが逆らえない事を従兄は知っている。
畳の目を見つめていた瞳がそろっと従兄を覗く。
さつきの「如何にも困っています」といった面貌には羞恥や焦慮、戸惑いといった様々な感情が綯い交ぜになって浮かんでいて、
(……あー、これは随分と……)
うん。
本当によく取って食われなかったものだと別府は思った。
(しかし何ちゅうか、
これは確信犯だ。分かってやっている。
それに「悪かった」と言いながらその実、従兄は先程の事について悪いなんてこれっぽっちも思ってはいないし、謝る気なんてさらさらないらしい。
謝るどころか、顔を紅潮させて困るさつきを見る様子はどこか楽しそうだった。
さつきを見て気の毒にと苦笑いしつつ、しかし男としては従兄の気持ちもよく分かる。
要するにアレだ。
かわいい訳で。
(……………)
ぶは、と別府は盛大に吹き出してしまった。
辺見も目の前の状況に同じ事を感じたのだろう、別府の背中をばしんとひとつ、勢いよく叩くと大笑いし始めた。
志麻と従兄について室に来た幸吉はぽかんとしている。さつきも同じく。
恐らく彼らには分からない。
別府と辺見、そして苦笑している従兄にしか理解できない機微だろう。
「桐野さァ、それ位にしてやってくいやんせ」
気持ちは分かるけれども。
何せ散々揶揄い倒した後だ。あまりいじめるのもかわいそうだろう。
それにこの場には志麻も幸吉もいる。これ以上はさすがに憚りがある。
ふっと従兄が口角を上げたのに気付いて、
「説教も終わりもしたで」
そう伝える。従兄からさつきに言いたいだろう事は、恐らく己と辺見が言ってしまっている。
「そうか」
そして従兄ももうそれ以上の事を言うつもりはないらしい。
ただ、笑いを潜めると一転、従兄は謝罪の言葉を口にしたのだった。
「今回の事は
「それは昨日もう……はい……」
「髪も」
さつきの短くなった髪の先を摘まむとすっと目を細める。
ガタガタの尼削ぎのようになってしまった髪を一番残念がっているのは従兄だったのかもしれない。
「許してくれとは言わん。じゃっどん何か俺にでくっ事はあるか?」
「できる事……?」
「して欲しい事、欲しいもの、何でんよか」
さつきは暫く考えていたけれど、結局は首を緩く左右した。
「何もナカな」
「昨日言った通りで……”足して二で割ったら丁度いい”んですよ。それに私、ここでお返しできない位色んな事して頂いてるし」
「さつき、汝な……」
「本当に何もないのか」
予想通りだったのか従兄は軽く片眉を上げただけだったが、別府は辺見と共に、思わずといった風に口を挟んでしまった。
今までのさつきを見ていてなんとなくそんな返事になりそうな気はしていた。
が、実際にその通りになってしまうとやはりそれでいいのかと思ってしまう。
「あ、うん……いいの。別に、何か期待してとかそんなのじゃなかったし。私ここで本当にお世話になってるし」
できる事って、あれくらいしかなかったから。
「…………」
「…………」
「…………」
(”アレ”が”あれ”位か)
そう思ったのは恐らく別府だけではない筈で。
隣に座る辺見をちらりと見やると、視線に気付いたか彼もこちらを見返して苦笑いで肩を竦めた。
(
(まあ、な)
だってさつきだし。
従兄も同じだろうか。そう思ったが、彼の顔を覆う表情は若干微妙なもので。
確かにそうかもしれない。
従兄はこの屋敷の主であり、今回さつきに降りかかった災難の責任を請け負うべき人物だ。
いいと言われて済ませられる立場でもないし、性格でもない。
しかし。
「……はあ……」
従兄は珍しく大きな息を吐き、さつきに手を伸ばすと、
「わ!何するんですか」
頭が揺れるほどの勢いでぐしゃぐしゃと髪を掻き混ぜた。
「……汝はもっと欲深くなる必要があるな」
女を扱っているとは思えないような乱暴な手つきではあったけれど、従兄の表情は酷く穏やかで満足げだった。
feeling:胸懐 150619130928/