27:on the QT




「幸吉、呼んで来てくれ」
桐野の指示を受けた少年がひとつ返事を落として室を後にした。
それを横目で見ながら若干気まずいというか、この場に酷く居辛い気がしてさつきは口を噤んだままでいた。

今日は一体何だというのだろう。
少なからず混乱している。
桐野はあんな風だし、別府も辺見もいつもなら自分相手に絶対にあんな事言わないし、しない。
わざとで他意がないと分かっていても、あんな風に言われたり触れられたりすれば誰だって心臓が跳ねるだろう。
好意を持っている人であるから、余計にだ。もちろん人としての好意だけれど。

(……誰呼びに行ったのかな)
ちろんと桐野を覗き見るとぱちりと目が合ってしまい、さっと視線を逸らせば、
「如何した」
春風の軽さで笑まれる。
(――〜〜〜何なのこれ……!)
昨日の夜の、あの妙に親密な雰囲気に近くてさつきは本当に居た堪れない気持ちでいっぱいだった。
かといって何となく恥ずかしくて誰の顔も見られない。
その、身の置き所がなくてそわそわしている様子が余計に周りの微笑を誘っていたのだけれど。

それにしても。
(欲深くって)
別に、普通だよね?
ぼさぼさに乱れた髪を手櫛で整えながらさつきは言われた言葉を反芻する。
できる事、して欲しい事、欲しい物。
(そんな事言われてもなぁ)
正直言ってないのだ。
昨日は桐野においしいものでも食べられたらと言ったけど、本当にその程度で。と言うよりそれだって別にいらないのだ。
ここに置いてくれているだけで十分ありがたかったし……
遠慮しているとかそんな事ではなく、今のさつきにとってはそれが一番重要だった。
(……あ、これって「して欲しい事」になるのかな)
そう思った所で、
「入ります」
幸吉の声がした。






「あの、」
「なんじゃ」
「……イエ……」

目の前に座らされた書生たちの顔を見てさつきは何とも言えない表情になった。
ここに彼らが連れて来られたのはさつきへの謝罪の為だろう。でも。
(別にもういいんだけどなあ)
捻くれた考えでなくそう思う。
だってどの書生の頬も洩れなく赤く腫れていて、グーでだかパーでだかは分からないが、これはどう見ても。
(鉄拳制裁の跡ですよねーそうですよねー)
彼らは既に桐野から懲罰を受けている。

桐野が別府と志麻よりも随分遅れて姿を見せたのは、きっとそういう事で。
しかも当事者であるさつきがいない所でという辺り、相当キツい小言を聞かされたのではないだろうか。
いや、小言のレベルで済んでいたらいいのだが。
(………………)
というかまず小言を言う桐野が想像できない。

さつきは屋敷に来てからこの方優しい桐野しか知らないけれど、しかしそういう人の方が怒ると怖い事は知っている。
ましてや桐野は薩摩を代表する剣豪のひとりだ。優しいだけの筈がない。
書生たちは高校生くらいの年代の子ばかりで、生意気盛りとは言っても桐野に叱責されれば震えるほどに怖かっただろう。
だから彼らをどうしたいかと問われても、更に叱責を加える気にはさすがになれなかった。
ただ、さつきも普通の人間だから言いたい事はある。

「桐野さん、さっきの”できる事”っていうか、”して欲しい事”なんですけど」
「ん?」
「何もいらないって言ったけど、撤回します。”話をするのを許して欲しい”です。いいですか?」
ああ、と頷いた桐野に、あと確認なんですけど、とさつきは続ける。

「私、ここの男子教育のあり方とか、桐野さんの指導方針とか、お国元の後輩指導の方針とか、何も知りません。私が話したい事、もしかしたらそういうのと相容れないかもしれない。それにここは『女は三歩下がって』っていう場所で、女が余計な口を挟むなって思われるのは分かってるんですけど……」
それでもいいですか。

おや、という顔をされてしまった。
確かにこの手の、本当の意味での真面目な話はここに来てからした事がなかったから、それもそうかと思った。
桐野が特に咎めだてするような素振りを見せないので、好きなようにさせてくれるのだろうと口を開きかけた時、

「待ってくいやんせ」

聞き慣れない声に制止される。
声の主は桐野の一番近くにいる青年だった。年は他の書生たちより上だろうが、さつきには見覚えがない。
(いや、一度か二度顔は見た事あるかな?)
少なくともこの青年から何かされた事はないという事は分かるが、所詮その程度だった。

「さつき、肝付兼行じゃ。桐野の家の姻戚筋に当たる」
誰だろうと首を傾げたのを認めた別府が紹介を挟めば、青年も姓名を告げて軽く会釈してくれた。
「先ずこれバお返ししもす」
その言葉と共に差し出されたのは自分のペーパーバック。
「……あ」
雪緒に髪を引っ張られて倒れ込んだ時、手にしていた本も取り落としていたのだ。
鋏に気を取られていて完全に忘れていた。


「ありがとう。これ、なくなったりしたら本当に困るの。……あの、……読んだ?」
「五分の一程目を通しもしたが、」
五分の一?
本が手を離れたのはついさっきで、そんなページ数を読む時間も、余裕もなかった筈。
という事はこの本に触れる機会が他にあったという事で……
「もしかして以前これを」
持って行ったのは君?
そう言い終わる前に違うと否定されてしまう。

「じゃっどん返しには行きもした」

この青年はいつもこの屋敷にいる訳ではないようで、偶々帰って来た時に書生部屋に転がっていた洋書を見たらしい。
洋書は高価だ。
書生身分で簡単に買えるようなものでもなく、かといって桐野の持ち物とも思えない。
どうしたのかとよくよく問い詰めたら、とある部屋から無断拝借したとある書生が吐いたのだという。
それを叱りつけたものの、気付けば時計の針は夜半を指していて。
彼らの上に立つ年長者として持ち主の顔を見て謝罪もしたかったのだが、返しに行くにしても時間が悪すぎた。
それに都合悪くも次の日の朝が早く、かといってそのまま洋書を手元に置いておく事もできず。

「失礼とは思いもんどん、書き置きと共に部屋の前に」
「書き置き?」
本に挟んでいたのだがと言われて首を傾げる。そんなのあったっけ。
「……あ」
あった。
そう言えば紙挟まってた。
確かに何か書いてあったような気がするけど、気が付いた所で読めなかったし、そもそも栞代わりだと思い込んで特に気にも止めなかったのだ。
その上さつきはそれをそのまま塵箱に捨てたのだが、さすがにそれは本人には言えなかった。

「読めなかった?」

もの凄く意外そうに言われた。
そしてその奥に潜む若干の侮り。多分他の書生も同じように感じている。
江戸時代の日本は世界から見ても識字率が非常に高かったというから、彼らからすれば読めて普通、なのだろう。
しかしさつきは和綴本の、パターン化された文字を最近ようやく読めるようになってきた所なのだ。
その程度のレベルで崩しの基本を知らないさつきが、個人の癖が色濃く出る筆跡を読める訳がなかった。

「あー……あはは、ごめんね私草書体?……崩し字?読めないの」

軽く笑う。
その事については別にどう思われても構わなかった。読めない事は事実だ。
というか。
本を返しに来てくれたの、
「君だったんだね……ありがとう。あの時は困ってたから、本当に助かりました。……で、読めた?」
そう聞けば、言っている意味がよく分からなかったのか、目の前の青年は口を噤んでしまう。

"I'm not asking if you read it, I'm asking if you understood it."(読んだかじゃなくて、理解できたかって聞いてるの)

英語で尋ねれば、周りがざわめく。随分と驚かれているがまあ仕方ない。
「……っ、いや、」

"Answer in English. Do you speak English?"(英語で答えて。君英語は……)
"Yes"
"Ok. So, did you understand that one?"(で、どうだった?)
"It was beyond my comprehension and I didn't understand it well."(理解の範疇を超えていて、よく分かりませんでした)

うん、そうだろう。
さつきは頷いた。
内容は近未来SF小説で、現代から来たさつきでさえ理解に苦しむ所がある。
百何十年も前の人間がそうそう簡単に理解できるとは思えなかった。

"There is a serious difference……"
"……between the world you live in and the content of this book. Isn't that right?"

彼が知っているこの社会と本に描かれている内容には深刻な距離がある。
それは分かるが言葉で明確に言い表し難いのか、言い淀む風の青年に「君が生きている世界と、本の中の世界とでは、でしょ」と言葉を被せれば、パッと顔が上がった。

"I know. The knowledge you have is too far removed from what's written."(持っている知識と書かれている事がかけ離れ過ぎてるんだよね)

軽く笑ってそう聞いてみれば肯首される。

"By the way, why do you use English? Do you need it to study or something?"(話変わるけど、どうして英語が使えるの?勉強か何かで必要?)
"I need it for my profession."(職業柄必要で)
"Profession……job? You work at……"(仕事で?君働いてるの?)
"In the navy, I'm a naval officer"(私は海軍軍人です)
"I see. Then you must be able to use it. I think you are the best English speaker in this house, but do you think the boys can read that book?"(そうなんだ。それなら使いこなせないといけないよね。このお屋敷では君が一番英語達者かと思うんだけど……書生君たちにあの本が読めると思う?)

ノウ、と肝付が首を左右する様子にさつきはホッとした。

"OK. If you feel any part of this is wrong, forget about the book. And promise me you won't tell anyone about the inside story."(そっか。今回の事、もし少しでも悪いって思う所があったら、この本の事は忘れて。後内容についても誰にも言わないって約束して欲しい)

肝付は「書生の上に立つ年長者として」と自らの事を言っていた。
多分、書生たちがさつきにしてきた事ももう聞いているだろう。
さつきが話し始める前に彼が口を開いたのは、まず彼から謝罪しようとしたからに違いない。
今回の事は目の前の青年が悪い訳ではなく、書生たち個々人の問題だ。
それは分かっているけれど、さつきは肝付が感じているだろう罪悪感を利用する事にした。
相手の弱みにつけこんでこんな真似、本当はしたくない。
肝付には気の毒だとは、思うのだけれど。

洋書の内容を理解できていないなら、外で話されても大した事にはならないと思う。
ただ何が起こるかは分からないし……
そこから洋書を持っている人間の詳細が詮索される可能性は十分にある。
そうされるに足る本の内容だ。
この時代の人には理解されないという意味で。

未来から来た、なんて、色んな意味で恐ろしくてとてもじゃないが言える事ではない。
だからそうした事を口にしなければならない事態に陥らないよう、不安の種は潰しておきたい。
例え口約束でも肝付には最低限の釘はさしておくべきだ。

「お願い、大事な事なの。約束して欲しい」
「…………」
「さつき」
約束させられる意味を探っているのか返事をしあぐねる青年を見兼ねて、桐野が口を挟んだ。

「何の約束か、聞いてもいいか」
「あ……ごめんなさい、言葉を変えた事、他意はないの。英語がどの位できるのかなって思っただけ。約束はこの本の事と内容は忘れて欲しいって、それだけ」
「…………」
「この本は、私が、持ってきたものだから」

この本は『違う東京』から来たさつきが持ってきたものだ。
不用意に内容を広められたら『この東京』では不都合な事があるかもしれないと危惧している。
そんな思いを声に潜めた。

「……分かった。汝が、持ってきたもんじゃからな」

言いたい事が伝わるだろうかとハラハラしたけれど、どうやら問題なかったらしい。


「兼行。さつきは汝が知っちょる女達とは生まれ育った環境が随分違う。それはこん姿ナリと様子を見れば分かるじゃろう。外国語を話せるとは思わんかったが……これも話が外に出れば広まるのは早いじゃろう」
ヘタを打てば色んな意味で目立つ事になるので騒がれたくない。そんな事は望んでいない。

そこで言を切ると、桐野は暫く腕を組んで考え込んでいたのだが。

「さつきは神隠しに遭うた女じゃ」
(えっ!)

落ちた音に座がしんと静まり返る。
心構えもなくいきなりそんな事を言われたさつきの、やたらと大きい鼓動の音だけが聞こえてきそうだった。

間違ってない。
確かに神隠しで間違ってない。
間違ってないどころか「未来から来た」なんて事が言えない現状を思えば、これ以上ないファインプレーだ。
でも。
(……大丈夫、未来からなんて私今まで一言も言ってないし、きぃさんも誰も知らないんだから)

大丈夫。
そう思っても動揺は隠しきれずに体の震えとなって現れた。自分の事情を知る人間が一気に増える事があまりにも怖い。
そんな様子を桐野はどう見たのだろう。
「さつき、大丈夫じゃ。落ち着け。一度きちんと汝の事を話した方がヨカ」
かけられた声音は酷く優しかった。

「じゃっでさつきには帰る場所もなか、家族も友人も、知っちょる人間がただのひとりもおらん。そげな女がどういう訳か辺見に連れられて俺の所に来た」
”窮鳥懐に入れば”という言葉もあるし、寄る辺くらい与えてやりたいと思う。
「そいにさつきがここにおるのは、仕事が忙し過ぎるのを見兼ねて”神様”が”休め”ちゅうたからじゃそうじゃ」

ふふ、と楽しげに笑った桐野に、さつきは思わず辺見を見てしまった。
以前話した自分の気持ちを、辺見は桐野に伝えていたらしい。

「ここに来たのも何かの縁だったんじゃろう。そいなら羽休めか骨休めか分からんがさつきにとってのそげな場所にしてやりたい。そう思うんはおかしな事か」
―――だから、さつきの心を乱してやるな。

さっきまでは信じられない程激しく心臓が動いていたのに、今は完全に凪いでいた。
その上視界がじんわりと滲んでいく。
さつきは我慢できずに両手で顔を覆ってしまった。

「こら泣くな」
いち早く気付いた辺見が、笑いながら背中をさすってくれる。
「あり、……ありがとう……っ……」
守ってくれて。そんな風に思ってくれて。
ここには本当に神様が連れてきてくれたんだと思う。



桐野の話を聞き、泣き出したさつきを見て書生たちはみな一様に口を噤んだまま沈み込んでしまった。
肝付はそんな彼らに内心、(今更……)、溜息を吐いた。
彼自身まさか桐野がこの女にそこまで気を遣っているとは思ってもいなかったのだ。様子を見るに別府と辺見もきっと同じだ。
肝付が知る桐野の女性関係は何れもが華やかで派手な遊びだった。

さつきの事は客人とは聞いていたが、どうせ今までと似たような関係の女性と同じだろう、どこかでそう思っていたのは否定できない。
そして恐らく書生たちも同様に思っていたのだろう。
その証拠に皆顔が青い。
手を上げていた事、その内容は聞いていたが、どれほど酷い事をしていたのだと思わずにはいられない。


「さっきの……本の事もその内容も忘れる。貴方おはんの事も余計な事は口外せんち約束しもす」
潤んだ瞳を向けたさつきにひとつ頷くと桐野に声をかけた。
「桐野さぁ、証人になってくいやんせ」
「ああ」
この人が間に入った方が彼女も信じられるだろうと思っての判断だった。

「おい、何しちょる、汝らもじゃ」
語気を強めて呼びかければ、皆が口々に謝罪と約束を述べる。
その勢いに驚き咄嗟に側にいた辺見にしがみついたさつきを見て、確かに構いたくなるような女性ではあるなと肝付は思った。



on the QT:ひとつ内密に
肝付は明治4〜6年まで桐野邸に寄宿。明治5年に海軍省入り。なのでこの当時はまだ新人。20才。細かい履歴が分からないのでナチュラルに捏造しています。果たして彼に英語は必要だったのかとは思うのだけれどね 201582120131001

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