「先生」
いつの間にか退室していた幸吉が桐野の大刀を持って現れ、主に渡した。
桐野は受け取った刀をやや立て掛けるようにして左手で掴むと、鯉口を切ってすぐに親指を外した。
刀が鞘に収まると同時に、カチン、と硬質な音が響く。
桐野が何をしているのか、さつきには全く分からなかった。
しかしさつき以外は桐野の行動の意味をよく分かっているようで、彼らの桐野の行為を見つめる眼差しは真剣そのものだ。
「さつき、兼行が今言った事は必ず守るし、守らせる。約束は決して違えん」
(あ、……そうか、約束を守るって誓う時の儀式?作法があるんだ)
これは他人に、そして自分に、交わした約束は必ず守ると誓う行為だ。
決してパフォーマンスでしているのではないという事はさつきにも分かった。
(名こそ惜しけれとか……武士道ってこういうのかな)
どこか眩しいものを見るような感覚に目を細める。
約束を守るという言葉の重さが、自分の時代のそれとはなんと違う事か。
きっと約束は破られる事はない。
確信に似た気持ちでさつきは思った。
少しだけ遠い時代の日本人は、さつきの知っている日本人とは別物のようだった。
話したい事があったのではないのか。
桐野にそう言われてさつきは(そうだった)と思い出したものの、もうそんな気も削がれてしまって。
正直にそう伝えると、「否、今ここできちんと思った事を話せ」、真面目な表情の別府に促されてしまった。
「んー……別に……怒りたい訳じゃないの。ただちょっと考えて欲しいなって思っただけ。ね、桐野さん」
ここの書生さん達は、お役人になる為にここで勉強しているの?
そう尋ねれば概ねそうだと肯定の答えが返される。
(明治六年、か)
彼らの年齢を考えると、上手くいけばあと五、六年位で官途に着ける筈。
一人前に働けるようになるのに更に五年プラスアルファと考えたら、明治十年代後半或いは二十年代から活躍する筈の青年たちだ。
(内閣制が十年代の終わりで、憲法ができたのが二十年代の初めだった、確か。近代国家作る段階での重要な時期だよねえ……)
そう思い、書生ひとりひとりに顔に視線を移す。
「もっと……しっかり勉強する必要があるんじゃないの?女のケンカに首突っ込んでる暇なんかないと思うんだけど」
何を言い出すのかと思ったのだろう、キョトンとされた。
「家から出してもらって桐野さんにお世話になって……優秀でも東京に来れない人、勉強したくてもできない人、きっと沢山いる。ここにいられるのは当たり前の事なのかな?自分は恵まれてるとは思わない?」
国家公務員……官員になるのは国家を運営する側のひとりになるという事だ。
優秀じゃないと無理だし、将来着く役職や仕事によっては国家の安危に関わる事もあると思う。
「その時に、より高度でより適切な判断をする為に正しい知識や学力が要る。だから勉強するの。試験に受かる為だけじゃないんだよ。君たちは今、脇目を振らずに勉強しないといけない時期」
「でもね、それだけじゃダメ。それだけじゃ頭でっかちで歪んじゃう。人間には他にも大事なものがある」
そう言いながら、さつきはいつぞやの会話を思い出す。
「”女子供や弱い者を守るのは当たり前”だって、以前辺見さんは私に言ってくれた。それは優しさとか思い遣りの事だと思う。人にはねそういう気持ちもいるよ。君たちも親御さんや先輩からそう習ってるよね?」
書生たちの言葉に窮するような表情は、しっかりそうした事も教えられている事を示している。
確かに、改めて人から言われるような内容ではないとは思うのだけれど。
「私は……片方の話だけを聞いて行動するんじゃなくて、もう片方の話を聞く位の思い遣りが欲しかったの」
雪緒の話を聞いて力になりたいと思った事は、確かに優しさではあったのだろうけど。
揉めている時は双方の言い分を聞かないとその真相は分からないものだから。
「それに今回の事、君たちはミスにミスを重ねてる」
「ミス?」
そう尋ねたのは誰だったのだろう。分からなかったけれど、特に気にせず「間違いの事」と返す。
当事者の片方を完全にカットしたのも判断ミスなら、さつきに怪我をさせるような真似に及んだのも判断ミス。
それに桐野に知られていないと考えて行動をエスカレートさせたのも浅はかだった。
「もし私がこんな目に遭いましたって、外の人に話したらどうなると思う?このお屋敷の責任者は桐野さんだよ。それで、君たちの監督責任も桐野さんにある」
それだけ言えば、さつきが何を言いたいのか分かったのだろう。
書生たちの行動は桐野の面目を潰す行為だ。
「それに君たち、揉め事起こした後に自分に処分が下る可能性を考えた事なかった?」
「処分……」
「例えば、故郷に帰れ、とか」
そう言えば一斉に書生たちの顔が上がった。顔色が変わっている。呆れた。本当に考えた事なかったのか。
「ほら、それも判断ミス。想定される最悪の事態を考えてない」
ふう、と軽く息を吐く。
しかしさつきからすれば、彼らは年だけ見れば”高校生くらいの男の子”だ。
ついでに言えば学生で、社会経験がある訳でもない。
それを思うと行動の結果を考えられない程若い……というか幼いのかもしれない。若さだけで全てが許される訳でもないけれど。
葬式のような雰囲気になっている一帯を見て苦笑してしまった。
(ちょっと可哀想かな)
まるでこちらがいじめてるみたいじゃないか。
「肝付くんはいつ海軍に入ったの?」
「(肝付くん……)……去年でごわすが」
いきなりの話題転換に何事かと思っただろう。殆どの人が何を言い出すのかといった好奇の視線をさつきに向けた。
「じゃあ私の方が、社会人としては先輩になるね」
「働いて……?」
「うん。働いてて独り暮らし。民間企業で、下っ端だけどそれなりに責任のある仕事任されてる。ここではお世話になりっ放しだけど、向こうでは自分で自分の事養える位の給料は稼いでるよ。……意外?」
ふふっと笑いながら問いかければ、「まあ」、と言いにくげに肝付は答えた。
それだけ社会や男女の在り方が違うのだから、仕方ない。
「英語は学校で習ってそれからは独学。私西洋の歌が好きでそれが切欠だったけど、海外旅行しても今はまあ、そんなには困らないかな。ギターも練習したよ。そうだなー……泳ぐの得意だから水泳も好きだし、剣道もしてた」
「え」
「汝が剣術か」
周りの人は酷く驚いた顔でいたけれど、剣道の辺りは引っ掛ったのか、辺見と別府が口を挟んだ。
桐野でさえ少し驚いているから、却ってさつきも驚いてしまった。
「そ、そんなに驚く所かなあ……やらなくなってもう何年にもなりますけど。……まあ人は見かけによらない所もあるって事。自分で言うのも何ですが」
見かけによらないとはいってもこんなの、現代なら至って普通の事だ。
でもこの時代だと”女だから”という眼鏡は中々外せないと思う。
「君たち、さっき私が字が読めないと思って内心バカにしたでしょ。確かに私は繋がってる字は読めない。漢文とかは無理だけど楷書なら問題ないし英語だって読める」
働いているとも思ってなかったみたいだし、ましてや英語ができるなんて思ってなかった筈。
分からなかった筈だ。軽く話をする程度では。
「表面だけじゃ分からない事、沢山あるよ。見えてる所だけで簡単に判断するのは良くない」
何となく説教じみてきたなあと思いつつ、別府のお墨付きもある事だ。
さつきはそのまま続ける事にした。
「そこの君、……うん、あなた。男が若い時に特に気を付けないといけない失敗の原因って何か知ってる?ふたつあるんだけど」
「……否……」
「酒と女だよ」
”味”を覚えた頃は楽しいから溺れる可能性が高い。それに若いから自制が効き辛い。
しかも年齢を問わず、のめり込み過ぎたら周りが見えなくなって身を持ち崩す。そういう失敗をしたら人からは容易に信用されなくなってしまう。
さつきは幾つかの実例を知っていた。
「若い時に変な癖付けたら歳とってから怖いよ。私好きな女性に貢ぐ為に会社のお金に手を付けた人知ってる。給料一ヶ月分とか二ヶ月分とかじゃないよ?二十年分とか三十年分とか、そんな額」
「……
辺見の問いかけに、さつきはここではそういう話はあまりないのだろうかと首を傾げた。
「うん。ほんと。女の人が貢ぐ為に横領っていうのも時々新聞で見るよ」
「んー……なんて言うかね、変な女に引っ掛らないか、私は君たちが心配だよ。雪緒さんの表面に……猫かぶりに簡単に騙されてるし」
「え……」
「ねこ……?」
「うん。やっぱり分かってなかったよね。その辺りは別府さんに聞いてみたらいいんじゃない?どうでした?”般若”から”涙浮かべたか弱い女”への瞬時切替えを目撃するという珍しい体験をしたご感想は」
「今後は余りお目にかかりたくはないな」
話を別府へと振れば苦笑いと共にそう返された。
「私もあそこまで強烈だったのは久々だったけど…………でも女ってね、誰だって多かれ少なかれそういう面はあるよ」
異性の前ではよく思われたいというか、可愛いと思われたいというか。
さつきはそれは普通の心理だと思うけれど、ただ限度があると思う。
「好きな人を手に入れたり恋敵を陥れたり……男を騙したりするのに、『可愛い・か弱い・守りってやりたくなる女』を装って近付くのは女の常套手段だって覚えておいても損はないよ」
「……ふっ」
ここで桐野が思わずといった風に噴き出したのを、さつきはジトっと見つめた。
「……桐野さん、笑ってらっしゃいますけど貴方が一番よくご存じなんじゃないんですか」
「フフ、そうじゃな」
今回の事は、若干大袈裟だが書生たちの”女の失敗”から始まった事だ。
しかしさつきは、「若い内に取り返しのつく程度の失敗が経験できて良かったね」、と落ち込む彼らを却って慰めてやった。多分いい教訓になるだろう。
「私から言いたい事はそれだけ。同じ失敗繰り返したらダメだよ?あと、もう少し人を見る目も養おうね」
「汝、あれで良かったのか」
書生たちが部屋を去った後、別府に暗に優し過ぎないかと言われて、さつきはそんな事ないですよと言い返した。
「自分たちがした事、もうよく分かってるみたいだし、これ以上言っても……それにきぃさんに怒られるって時点で私マジガクブル」
「なんじゃそれ」
辺見が笑う。
「きぃさん、私が口を出す事じゃないって分かってるんですけど、書生さんたち故郷に帰すとか、そんな事は…………」
「そうじゃな。如何するか。汝が望むならそうしてやってもよかぞ」
笑いながらの桐野の言葉に、さつきは酷くほっとした。
この様子だと桐野はそこまでの処分は考えていないようだった。
「差し出がましい口を利いてすいませんでした。でもあの子たちも、もう懲りたと思います」
さつきが彼らに望むのは、ここで今まで以上に学問に励む事だ。罰じゃない。
そもそも無関係だった彼らを巻き込んだ雪緒が悪いのだ。勿論それに乗せられた方にも非はあるけれど。
しかし女のいざこざに巻き込まれた揚句教育の場を奪われるなんて、幾らなんでもあんまりだ。
幸い彼らはそこまでの報いを受けなければならないような事まではさつきにしていないと思う。
それにさつきはこの世界の住人ではないのだ。
いない筈の人間、起る筈のなかった問題に巻き込まれて機会を潰すなんて、話がおかしい。
「ただ……また同じ事を繰り返したり、女にあそこまで言われて奮起できないようなら、それはもう男として見込みがないって事かとは、思いますけど」
言い切れば一瞬の沈黙が落ち、部屋に何人かの笑い声が爆ぜた。
「辛辣じゃな」
「別府さん。言ったじゃないですか、人は見かけによらないって。今回の事だって私ずっと黙ってたけど、バレた後にこってり絞られたの見て『自業自得だふふーんザマーミロ』位は思いました」
「…………」
「…………」
「…………」
「(あ、意外だったんだ)……私聖人君子じゃないし普通の人間ですよ?理不尽には腹も立ちます。それに”若いから”では済ませられない事だってある」
ついでに言えばさつきは自分を単なるお人好しでも良い人でも博愛主義者でもないと思っている。
普通の感覚を持ったどこにでもいる人間で、関わりのない、どうだっていい人に対しては大した関心は持てないのだ。
今までの事がその位の関係性の人間から為された行為だったら、書生たちの為にしたようなフォローをさつきはしない。黙って成り行きを見ているだけ。
ただ今回はその当事者がお世話になっている人々の後輩だった。
それにこの屋敷に居場所を与えられているという事は、桐野からそれなりに期待をかけられている青年たちに違いない。
それを放っておける訳がない。
「前から思うちょったが」
桐野の言葉にさつきは顔を上げた。
「汝は案外冷静に物事を見て冷静に判断するな。無駄に騒ぎ立てずに、まず状況を考える。それは癖か」
「へ?……いやいやいや、冷静だったら売り言葉に買い言葉にはなりませんって」
「…………」
「……あー……私人よりもちょっとドライなんですよ、多分」
「どらい?」
「冷たいって事です」
「そ、そんな事無いです!」
突然の志麻の声に驚く。
「冷たい人だったら私や幸吉さんの事気にかけたりしません!さつきさんはご自分の事軽く見過ぎです。それに今回の事だって無茶ばっかり!」
「ご、ごめん……」
その剣幕に思わず謝罪が唇から転がり落ちた。
「本当に心配しました。本当ですよ」
「……ごめんね志麻ちゃん」
さつきが困った風に眉を下げて謝れば、桐野が軽く笑い声を上げた。
「志麻は怒ると怖いぞ」
「先生も一回怒られた事ありますもんね」
え?
くすくす笑う幸吉に、別府辺見さつきの三人が一斉に信じられないようなものを見る目で志麻を見やった。
怒る?桐野を?
確かに物怖じしない子ではあったけれどまさかそこまで肝が据わっているとは。桐野に気に入られる筈だ。
「まあ志麻の言う通りじゃな。無理も、無茶もするな。心配するで」
「はい」
「書生らのこっじゃが、汝がヨカち言うなら説教だけで終わりじゃ。何より汝に言われた事があいつらには一番堪えたじゃろう」
ああいう風に丁寧に静かに諭されてしまえば、自分たちがどれだけの事をしていたのか十分に分かった筈。
同時に、行動には責任が伴うという事も。
「さつき、今回の事は本当に悪かった。改めて謝る。そいでありがとうな」
Don't judge a book by its cover.:人は見かけによりません
刀の鯉口を切って戻す行為は金打(きんちょう)と言って、武士同士で約束を交わす時にします。元々は「金(かね)を打つ」の文字通り、約束を交わす相手と刀身同士を打ち合わせて金の音を立てるものでしたが、江戸中期にはそれが簡略化されて個人個人が鯉口を切って戻すというものになりました。15/9/2013/10/04