04:understanding




池之端の屋敷に隣接して湯島天神がある。
そちらを参詣してから池之端仲町に出ると、こちらには随分人通りがあった。賑やかだ。
表通りには薬屋を始めとして文房具を扱う小間物屋等どちらかというと高級品を扱う商店が、裏通りには料亭や水茶屋(茶店)といった飲食店が立ち並んでいる。
幕府の時代から続くメインストリートのひとつだ。
幸吉は選んで人の少ない裏通りを歩いた。


屋敷を出てからも無意識なのかさつきは軽く幸吉の腕を取ってその隣を歩いていた。
男女が手を取って歩くなど御法度に近い。
だから不自然にならない程度にそっと手を引き抜くのだが、気が付くとまた腕を取られている。
……諦めた。

急に明るく話し出したり、かと思うといきなり黙り込んでしまったり、随分とさつきの表情は目まぐるしい。
さつきは辺見よりも少し年上と聞いたから、中年増ということになる。となると年相応の落ち着きがあるものだと幸吉は思うのだが、今の彼女にはそんな様子は全く見られなかった。
しかし幸吉はそんなさつきを変だとは不思議と思わなかったのだった。
変だというより戸惑っているのと、
(そりゃ怖いわなぁ)
不安なのだと幸吉の眼には映っている。

桐野と辺見にさつきが話した内容、それは幸吉も傍で聞いていたが彼女の世界はこことは本当に随分と違っているようだった。
……もし逆の立場だったら?
もし自分がさつきがいた世界にひとりで放り込まれていたら?

「これからどうしようとか、あんま心配せんでええと思うよ」

そんな言葉が出たのは、その「もし自分だったら」の仮定と、自分も桐野に拾われた過去があるからだ。

桐野はまだ十に満たない自分を京の焼け跡で拾ってくれた。
お前ひとり位養えると言って。
そのまま藩邸の長屋の狭い部屋に連れて帰って、飯を食わせて、自分の隣に布団を並べて寝させてくれた日の事を幸吉は忘れたことがない。
幸吉はその時からずっと桐野といるし、桐野がどんな人間かを見てきている。
だから桐野が大丈夫だと言えば、幸吉は大丈夫だと思うのだ。
そして、それが少しでもこの人に伝わればいいと思っている。


通りを抜けると不忍池が見える。
「わあ」
さつきが声を上げた。まだ蓮の花の時期までには間があるが、緑だけでも十分美しかった。
「きれい。ここはあまり変わらないんだね」
そんな声がぼそっと聞こえる。
「一緒でっか」
「うん。でもここだけ。周りにビルがないし。むこうの上野はもっとごみごみしてる」

ゆるゆると歩きながらふたりで色々な話をして、疲れたかなと思う頃に水茶屋で茶を頼んで休憩を取った。
店先の緋毛氈を敷いた床几に腰をかけると、さつきは馬や駕籠以外の移動する手段の話だとか、家族や学校の仕組みといった彼女の世界の話を幸吉に聞かせてくれた。
幸吉の年齢なら大多数が学校に通って学問をするらしい。
「ほんまに……えらい違うんですねえ」
衣食住といった基本的な生活にしてもそうだ。
和服を着る機会が殆どないとか、長期に亘って食べ物を保存できる箱があるとか。
火を起こさなくても調理ができるとか。西洋で起こっている事を瞬時に知ることができるとか。

「さつきさんのとこやったら、でけへん事ないんちゃいます?」
耳にした便利さに驚嘆して素直にそう感想を述べると、
「あはは。その便利さに慣れてるお陰で私はここで何にもできないよ」
笑ってそう答えたさつきに、幸吉も釣られて苦笑したのだが。
「本当にね」
「…………」
それはえらく自嘲の籠った呟きだった。

(んにゃ)、何もできんちゅう(こっ)はナカじゃろ」

突然頭上から降って来た声にびっくりしてふたり揃って視線を上げると、
「先生」
「桐野さん」
桐野の姿に驚いて。
「今お帰りどすか」
もうそんな時間かと。
主を見るなり腰を上げた幸吉に釣られたのか、さつきも立ち上がっていた。




「幸吉、馬連れて先に帰ってくれんか」
「はい」
「えっ」

いきなりの展開に、さつきの唇からは驚声が飛び出した。
……えっと、ふたりきりですか。
内心の動揺が伝わったのか、隣から視線を流してきた桐野に何でもないと軽く手を振る。
そんな様子を幸吉はにこにこしながら見ていたけれど、近くに係留している馬を桐野に指し示されると、すぐに会釈をしてこの場を去ってしまった。そしてそのまま馬を馭しながら屋敷へと帰っていく。

(あー幸吉くんホントに行っちゃったよ……)

「茶」と桐野が看板娘に声を掛け床几に座る傍らで、幸吉の後姿を恨みがましく見つめてしまう。
そして桐野へと視線を戻して、さつきは躊躇ってしまった。

(……隣に腰かけていいのかな……)

池之端の屋敷で思っていたアレだ。
ぼんやりと突っ立っているさつきを桐野が怪訝そうに見上げてくる。
「座らんのか」
「座ってもいいんですか」
「……おかしな奴じゃな」
緩く空気を震わせて笑う桐野を見て、さつきはすとんと座った。

「今日一日屋敷ん中見てでけん事ばかいじゃっち思うたんじゃろうが……まあ、昨日の今日じゃ、しょんなか」
それに住んでいた世界がこことは随分と違うという話を今朝したところではないか。
そう言うと桐野はひとくち口を付けた湯呑みを盆の上に置いた。

「っちゅうても不安か」
「不安……そうですね」

さつきは自活していた人間だ。
できる事は何でも自分でやってきたのに、それがここでは奪われた状態になっている。
どう振る舞えばいいのかとか、そんな些細な事までが全然分からないのだし。
当然不安だ。その上これからどうなるのか分からないという怖さもある。
桐野は頷いた。

「全く知らん場所で、帰り方も分からんのじゃしなあ。……あの客の食っちょるのうまそうじゃな。頼むか?」
いやこちらは真面目に話してんのに。
しかしあまりに雑な桐野の話の振り方につい笑ってしまって、
「いーえ、結構ですっ」
そう大きく答えた途端に桐野の口端が柔らかく上がる。さつきは思わず口を噤んでしまった。

「ん。陽気が一番じゃ。辺見が言うた通り来れたんなら帰れっじゃろ。そいに帰れんかったらここにおったらよか。嫌でなければな。(わい)の面倒くらい俺が見ちゃる」

どういう意味だそれはと思ったが、言葉通りの意味らしい。

「ここの暮らしに慣れる必要はあるじゃろうが、無理に合わせる必要はなかち俺は思う。慣れから出来っ事も出てくるじゃろう。屋敷なかではそげな事一切気にせんでよか。言葉も振る舞いも汝の普通でヨカ」

朝からそわそわしっぱなしで視線が泳いでいたのを桐野は気付いていたようだった。

「でも」
それでは周囲の人間がどう思うのだろう。
「気にするな」
「……」
「気にせんでよか」
「はぁ……」
「ま、今は気にするな遠慮するなっちゅうても難しか事も、分かるんじゃがな」

じゃらっと床几に勘定を置くと、「さて、帰るか」、桐野は立ち上がる。
先を行く桐野の後ろを歩きながら、幸吉の言葉がふっと頭を過ぎった。

『どうしようとか、あんま心配せんでええと思うよ』

(本当にそうなのかも)
そう思えば気持ちが少し楽になる。


「桐野さぁ」
「辺見」
「あれ、辺見さん?」

帰り道、屋敷の方向からやってきた男の姿にさつきと桐野は首を傾げた。
何故ここにいるのだろう。今日は近衛宿舎の方に帰るのだと思っていたのだけれど。

「今日からこちらに泊めてくいやんせ。篠原さぁには承諾ばもろうちょりもす」
「えっ」

辺見の思わぬ申し出にさつきは声を上げてしまった。
桐野と辺見がこちらを見下ろしてきたけれど、いやいや今日からって。「から」って、これから暫くあのお屋敷に逗留するという事では。

「あの、私ホントに大丈夫だから……辺見さん仕事で近衛の宿舎?寮?に住んでるんでしょう?駄目だよ」
「……(んにゃ)、なんちゅうか、こっちにおる方が面白そ……」
「は?」

なんて?
聞き返そうとした途端に桐野が笑い出した。

「く、はは、確かに。飯食っとって足が痺れて立てんくなるとかな」
「え?えええ!ちょっと!そこなの?面白いってそういうところなの!?」

そうなのだ。
さつきは机と椅子での生活が中心であったから、正座には慣れていない。
正座をする場面があっても、暫くすると崩さなければ立てなくなってしまう。
だから今日の朝は地獄だった。朝食の後は桐野と辺見が部屋を出てから給仕をしてくれた女の子に掴まってふらふらしながら立ち上がったのだ。暫く歩けなかったのは言うまでもない。
なんとか誤魔化せたと思っていたのだが、見て見ぬふりをしてくれていただけらしい。

「さつきが話ちょる事も面白かち俺は思うぞ」
「えええ……そんな取って付けたような……」

ケラケラと笑う辺見にさつきはバツの悪そうな表情を浮かべながらも、結局は苦笑いした。
笑う辺見が、この二日でさつきを拾った時に感じた違和感がどこから来るのかを感じ取り、こことさつきの世界では社会の在り方や価値観が大きく異なるらしい事、己が持つ女性観とさつきの姿が全く重ならない事を知り、そしてそんな見た事のない種類の人間をもう少し見てみたいと思っている事……など、全く気が付かないまま。

「……汝をここに連れてきた者の義務もあるでな」
「だからそれはいいって言ってるのに」
「まあ賑やかでよかじゃろ」
「桐野さんまで」

さつきがはああと大袈裟に肩を落すと桐野が更に笑った。
しかし辺見が居候を言い出し、それを桐野が認めた事にさつきは内心酷くほっとしたのだ。

さつきにとって辺見は、助けてくれた上に正気を疑う話に耳を傾け理解を示してくれた最初の人間だ。その上辺見は無遠慮なほど悪気なく、その上彼の陽性な気質も手伝って、打ち解けるのは信じられないくらい早かった。
多分さつきは彼と相性がいい。
職場の方は本当に大丈夫なのかと思う一方で、この理解者が近くにいてくれたら心細さが少し薄まる気がしてさつきの口元は軽く綻んだ。
緊張が僅かずつではあれ解けていくのを感じる。

「そう言えばなんで朝早く出掛けたのさ」
「…………」
「こら。答えなさいよー」

辺見を小突きながら文句を言ってさつきは笑った。
彼の性格もあり、また年が近くもあり、辺見には色々と軽口も言いやすい。
屋敷への途次という短時間でもどんどん言葉が崩れてきている。

「ふ、」
小さな笑声が耳に届いてふと後ろを振り返れば、付かず離れずの距離で歩いていた桐野もまたふたりの様子を笑いながら眺めていた。
(姉弟か幼馴染じゃな、こりゃ)
なんて思われているとは露知らず、「桐野さん」、と声を掛けるも返事がない。
どうしたのかなとさつきはハテナを浮かべたが、そんな様子を余所に桐野は桐野で思うところがあった。

辺見は上野にいる方が面白そうだと言い放ったが、その一方で変に関わってしまったこの奇妙な女が気がかりなところがあるのだろう。
さつきはさつきで、辺見の顔を見て、更に屋敷に逗留すると聞いて安堵の息を漏らした様子から、辺見を頼りに思っている事が容易に分かる。
雛の刷り込みのような気がしないでもないが、拾った者と拾われた者が揃ってそれが最良としたのなら、桐野はそれでいい。
それに屋敷にひとりふたり増えた所で何ら影響はない。
それより乱暴者で知られる辺見はそんな気遣いができるような男だったのかと、桐野は寧ろそちらにおかしみを感じていた。


「桐野さん」
もう一度名を呼んが、桐野からの反応はない。
何か考えているのか、本当に聞こえていない様子だ。
ただ突然桐野がふっと笑みを零したので、さつきは手を伸ばすとちょいとその袖を引っ張った。
目が合う。隣にいるさつきに今気付いたのか、桐野がぱちとひとつ瞬きをした。
「あの、どうかされました?」
「あ?いや、スマン」
本当に少し考え事をしていただけらしく、苦笑いが返ってきた。

辺見は桐野へ意識を向けたさつきに構わず先へと進んでしまっていたから、さつきはそのまま桐野の隣に並んだ。
ひとつだけ伝えたい事があってちらちらと隣の様子を伺っているとお前こそどうしたと笑いながら桐野が水を向けてくれて、さつきは思い切って口を開いた。

「桐野さん、私、卑屈にならない」
「ソーカ」
突然勢いのある宣言をしたさつきに桐野は目を丸くした後、口角を上げたが、
「……ように努力します……」
すぐに引っ付いた言葉に、くはと吹き出した。
「努力でのうて、なるな」
「はい」
吹き出して笑ってはいたけれど桐野の語気は思いの外強めで、これはかなり真面目に言われている。
そう察したさつきはすぐに返事をした。

「陽気が一番じゃ」
「……そうですね」

知らない事、できない事ばかりであるのは仕方ない。現代とここでは違う事ばかりなのだから。
でもそれを嘆いて卑屈になる前に、まずはこの環境に馴染む努力をするのが先だろう。
辺見みたいに助けてくれる人だっているのだし。
それに桐野が言ってくれたように慣れからできる事だって出てくる筈だ。
卑屈になんてなっている暇はきっとない。

さつきはうんとひとり頷くと、

「桐野さん、改めてこれからよろしくお願いします」

桐野を見上げて、にこりと笑った。



understanding:納得
ご都合展開です。090725090619

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