33:revealing(2)




昏い瞳で俯いて、声がどんどん小さくなっていくさつきの様子を目の当たりにする。
こちらが促しても「もういい」とか「足して二で割ったらちょうど良い」とか……
そんな事しか言わなかった女が「怒ってもいいか」と口にした事に、
(やっと言ったか)
桐野は変に安心した。

傍からはさつきは無理に気持ちを押さえつけているようには見えなかったけれど、普通あんな目に遭って何も思わない筈がないのだ。
桐野はさつきが口を噤んでいる事については良くないとは思っていた。
だが嫌な思いをした本人があまり触れたがらない事を、嫌な思いをさせた側が口にするのもどうかとこれまで黙って様子を見ていたのだった。

それにあの日、雪緒の父は屋敷を去る際に改めて挨拶すると言って寄越していた。
その時に嫌でも応でも思い出さざるを得ない、触れざるを得ないだろうと桐野は踏んでいたから、わざわざ話を掘り返す必要がなかった事もある。


さつきがこの料理茶屋に来る事に気乗りしていないのは分かっていた。
それでも彼女は桐野とあちらの体面やこれからの付き合いを考えて付いてきてくれた。
そして内心どういう感情があったにせよ、ここに来るまでの人力車では笑っていてくれたのだ。

しかし到着して雪緒がいないと知ってから、さつきの表情は微妙に変化しながら硬くなる一方で。
少しずつ強張っていくさつきの顔を見ながら、桐野は彼女が怒りを消化していない事を改めて認識した。

さつきは怒りを納得して飲み込んだのではない。
鎮火せず燻らせたまま胸の奥に仕舞い込んでいただけだ。多分いつか消えるだろう、忘れるだろうと思って。

(いつもそうしていたのか)
元いた世界では忙し過ぎたようだと辺見からは聞いていたから、怒りを持続させる余裕もなかったのかもしれない。
しかしそれはそれで……
(不憫じゃな……)


移動してさつきの側に座り直せば、膳を正面に見ていた細い体がこちらを向いた。
桐野は自身の口元を軽くさすりながら彼女の顔を暫く見詰めていたが、
「あの……?」
無言に堪えられなかったか、さつきが小さく問うような形で首を傾げた。

「……怒るべき時は怒れ」
「え?」
「怒ってよか。当然じゃ。己を踏みつけにする人間を許す必要はない。そいに俺にも言いたい事が沢山(わっぜ)あっとじゃろうが」
「…………」
「遠慮はいらん。言うてみろ」
「…………」
「ここには誰もおらん」

そこまで言ってやっても言いあぐねている様子に桐野は静かに微笑った。
あまりにも予想通りで。

「汝は人が良過ぎる。あと……それは遠慮ではないな。我慢が板に付き過ぎちょる」

性格的なものもあるのだろうが、それだけだろうか。
(……男か)
そう言えば以前本人が「引っ掛かった男が悪かった」と言っていた事を思い出す。
(我慢する事を強いる付き合いだったんじゃろうな)
そう、なんとなく察してしまった。

「肝心な時に口を噤むな。思う事はもっと口にしていいんだぞ」
さつきの我慢は相手に嫌な思いをさせたくないという思い遣りと優しさから来ている事は分かる。
しかしそれは相手に都合良く利用される事が多かった事だろう。

「優しさと人の良さにつけ込まれて、汝、損な役割を押し付けられる事が多かったのではないか?」
現に桐野もそうだったではないか。
理不尽でも甘んじてくれるだろうとさつきに甘えた。

「争う事を恐れるな。自分を守る必要がある時は戦うべきじゃ」
「…………」
「俺にも言いたい事があっとじゃろう」

「……きぃさん、私、ずっと黙ってた訳じゃないよ。雪緒さんとも藤乃さんとも一度は話をしたの。自分たちのしている事がどう思われるかもっと考えろって」
「ああ」
「頭にきてたから、私も感情に任せてかなりきつい言い方をした。それで怖がらせたり、逆上させたりになっちゃって。風当たりは余計に強くなったけど……」

「それでも、不思議だけどあの人たちに対する恐怖はなかったの。鋏はさすがにびっくりしたけど、きぃさんたちがいる所で女ができる事なんて多寡が知れてるし。あのふたり見ながらこうなったら人間おしまいだなって……どこか冷静だった。私にとってはどうでもいい人たちだったから、こっちから関わる気持ちもなかったし」

しかし問題は書生たちだった。
さつきにとって彼女たちと彼らは別ものだった。
と言ってもさつきと書生たちはそんなに深い交流があった訳ではない。
廊下ですれ違う時に交わす挨拶や世話話が精々で……けれどそれは毎日の、笑いながらのやり取りだったのだ。
関係は良好な青少年たちだった。
それに桐野と彼らの関係もあり、さつきにとっては決して”どうでもいい”範疇にいる人たちではなかったのである。

それが。

「雪緒さんが来てからいきなり変わってしまって。面白いおもちゃ見つけたみたいに、笑いながら桶の水をぶちまけたり階段で足をかけたりするの。初めは恐々だったのに、その内段々目の色が変わってきて、躊躇がなくなってきて、……怖かった……」

桐野の眉根が寄る。
周囲から話は聞いていたが本人の口から聞くのは初めてだ。

「幸吉くんと志麻ちゃんがずっと味方をしてくれてたけど、あの子たちを巻き込んじゃったらって、特に志麻ちゃんに何かあったらどうしようって……」

真直ぐにこちらを見るさつきの瞳が潤んでいた。

「……もっと、早くに助けて欲しかった」
「ああ」
「もうこんな事に巻き込まないで」
「努力する」
「……普通そこは”分かった”でしょ?」

小さく笑ったさつきに桐野も微笑した。

「あのふたり呼ぶか?」
「え?」
「謝らせるか?」
「謝らせる……」

そう呟いたきりさつきは暫く黙り込んだのだけれど、結局「もういい」と言って頭を左右した。

「あ……”もういい”ってどうでもいいとかそういう事じゃなくて……きぃさんが聞いてくれたから少しすっきりしました。それにもう本当に会いたくない。会ったらきっと嫌な気分になります。それに口を開いたら罵ってしまいそうで」
「呼んで罵ってやってもよかぞ」

笑ってそう言ってやった。
桐野の言葉にぱっとさつきの驚き顔が上がる。
無論冗談であったけれど半ば本気でもあった。あれだけの事をされたさつきがそう望んでも桐野は驚かない。
けれど。

「いいです。そんな事したら自分を嫌いになりそう」

返ってきたのはやはり拒否の言葉で。


(芯の強い女じゃなあ)
つくづくそう思う。
気丈でもあるし、多くの人間がさつきに持つ印象は「しっかりした強い女」だろう。

しかし、と桐野は思うのだ。
桐野は風呂場でさつきの「強さ」の裏側にある表情を思いがけず見てしまった。
自分がした事に自信が持てなくて、しかも若干の嫌悪さえ滲ませて顔を歪めていた。
今思えばあの時半分泣いていたのは、裸体でいる羞恥よりそちらが原因だったのだろう。

気丈だとか強いだとか……
そんな事は周囲が勝手に思っているだけで、実は単なる強がりなのかもしれない。

(弱さを晒け出す事ができんのじゃな)

弱さを前面に出して男を頼る。
それは女のひとつの武器だろうに、さつきにはそれが上手く使えないのだ。
桐野は小さく笑った。
目の前に座るのは頼る事が下手で、甘える事が下手な女だった。

手を伸ばすと桐野は肩よりも少し高い位置に切り揃えられたさつきの髪に触れた。
さらりと流れる、相変わらず手触りの良い髪だった。

「お、お触り禁止ですよ?忘れました?」
少し困った顔でそう告げてきた様子に桐野はふっと笑う。

――かわいい。
(甘やかしてやりたい)

そう思う男は今までいなかったのか。
……いなかったのだろう。
分かりにくい弱さは理解されずに突き放されたか、理解された上で無視され利用されたか。
いずれにせよ人の良さから損をする事が多かったに違いない。

指が流れて頬へと触れる。指の背で軽くなぞり上げた。

(柔らかい)

唇で触れた事のある頬も風呂場で触れた体も柔らかかった。
手荒く扱えば心身共に壊れてしまいそうだ。

「きぃさん、あの、」
「ん?」

さつきは顔を真っ赤にして視線を逸らしていた。

(ほんのこて可愛かな)

「こ、困ります、こういうの本当に」

従弟と同じ歳の女だ。
かわいいというのは相応しい言葉ではないのかもしれないが。

「困る?」
「……だってきぃさん……私が強く断れないの知ってて逃げ道塞いじゃうし……ずるい……」
「ソーカ?」
「そうですよ」

赤い顔のままムッとして軽く睨みつけてくるが全然怖くない。
微笑しか零れなかった。
しかしさつきの言うように気がつけば彼女の逃げ道を塞いでいるのは確かだ。それも意識に。
(…………)
己はこの女を一体どうしたいのだろう。

桐野は下ろしかけた左手を持ち上げると再度頬に触れようとした。
が。

ぐ〜……
きゅるるる〜

「…………」
「…………」


revealing:暴露大会 2019720

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