冷めた汁物を取り替えるよう頼んでいる桐野を横目にさつきは打ちひしがれていた。
(穴があったら入りたい……)
ただあの雰囲気をぶち壊したのは我ながらサムズアップしたい気分だ。
桐野は吹き出して大笑いした後、
「腹が減ったな」
さつきの頭を軽く叩いてそれ以上は触れては来なかった。
少し俯いて両手で乱れた髪を整える。
(あ、危ないわー……あんな空気に持ち込まれて一体どうやったらはっきり断れるの辺見さん)
ふたりきりの空間で、しかもあんな雰囲気で迫られてさらっと流すなんてできるのか。
寧ろこちらが流される。
さつきではずるいというのが精一杯だった。
それにあんな態度を取られたら、この人は自分の事が好きなんじゃないかと思う。そう思うのが普通だ。多分。
別府は女が了見違いを起こすと言っていたけれど、今となっては無理もないと思うし勘違いするなという方が難しい。
さつきはそう思う。
それに……
さつきと桐野の間には宙ぶらりんになったままの事がある。
辺見に言われた「引き受け先」の事もある。
忘れようとしていた、髪を切られた後に桐野にされた事言われた事も思い出してしまった。
(………………)
ずっと「揶揄われている」と、頭からそう思っていたから他の可能性なんて考えなかったのだ。
けれどそれは実際には違っているらしいというのが、僅かな期間で段々と明確になってきて。
思い返せば思い返す程「揶揄って遊んでいる」とは言えない事ばっかりで。
揶揄うどころか普通に考えれば積極的過ぎるほどのアプローチだと思う。
勘違いで済まされない状況の積み重ねがさつきにこう思わせた。
(ものすごく、ものすごく今更だけどこの人……)
本当に私の事好きなんじゃないの?
「さつき?待たんでよか。食わんのか」
かけられた声に体がビクリと跳ね、上座に座り直した桐野を見て音がするかの勢いで顔が赤くなった。
(ひ〜!何意識してるの!?)
その様子に目を丸くした桐野が「どうした」と言いかけて、ふと言葉を切る。
(ちょっと、ちょっと待って、お願い何も聞かないで……!)
「……さつき、汝な」
「失礼いたします」
女中さんナイスタイミング。
部屋に来た女中に桐野が耳打ちした為、彼女はそのまま給仕をする為に室に残った。
空気の読めるベテランのようで桐野とさつきの関係を聞いてくる事もなく、今日の料理の話、旬の物の話など当たり障りなくさつきに合わせた会話を振るプロの気遣いを見せてくれた。
何事もなく和やかに食事も済み、女中が御膳を運び出すのと同時にさつきは桐野に一言入れて席を立った。
手水場で落ち着いて、ひとつ溜息。
(助かった……)
桐野の言った通り食事は本当に美味しかったし、女中を挟んでなら妙な話にならない安心感がある。
これだけなら普通に楽しい席だ。
(……あー……でも、あんな分かりやすく反応して絶対気付いてたよね……)
その証拠に何か言おうとしてたし。
そう思ってさつきは少し肩を落とした。
帰りが思いやられる。
行きと同じくふたり掛けの人力車を使う事になるだろうから、さっきのように迫られたら逃げ場がない。
今思っている事とか感じた事とか、上手い具合に全部聞き出されてしまいそうで。
(怖いなあ、きぃさん……)
それでなくてもさっきからこれは何なのかと思うような雰囲気なのだ。
狙ってやっているのではなく、自然の流れでやってのけるから尚更性質が悪い。
ただ二回とも絶妙のタイミングで空気が壊れたから良かったものの、それがなかったらどうなっていた事か。
気がついたら同じ布団で朝、とか。
(……ははは……ありそうで怖い)
渇いた笑いしか出なかった。
(ちょっと帰り辛いな)
部屋にはもう女中はいないだろうし、桐野とふたりきりかと思うと少し足取りが重くなる。
そんな気持ちから廊下で顔を会わせた女将とちょっぴり話し込んだりはしたものの、戻らない訳にもいかなくて。
流されないぞと決意して部屋に足を向け、廊下を曲がった所で女性が立っているのが見えた。
彼女がいるのは自分が戻ろうとしている部屋の前……
見るからに玄人の綺麗どころだったが、さつきは首を傾げてしまった。
桐野だけならとにかく今日はさつきもいる。しかも男女関係に巻き込んだ被害者への謝罪の場だ。一応。
常識的に考えてそんな場に芸者を呼ぶとはさすがに思えない。
(部屋間違えてるんじゃないかな)
きっとそうだ。そう思いさつきは「あの」と声をかけた。
「部屋をお間違えではないですか?」
「え?」
いきなり話しかけたからか少し驚いた顔で、しかし彼女はさつきの容姿をじろじろと改めている。
(気分悪いなー……)
不愉快だけれど髪の色や短かさを考えたら珍しいのは分かるから仕方ない。
それは納得するのだが……どいてくれないと部屋に入れない。
避けて下さいと口を開こうとして、遮られた。
「間違っていないわ。桐野様がいらっしゃるお部屋でしょう、ここ」
確かにそうだ。
それに中からは桐野の話し声が聞こえていて、恐らく雪緒の父が同坐しているのだろう。
というか。
(……め……めんどくさっ……!)
ブルータスお前もかとでも言いたくなる。心底関わりたくない。
「すいませんがどいて下さい入れません」
さらっと言った。
相手の空気がムッとしたものに変わるが、一向に場所を譲る気配もないので無視して襖に手をかけようとしたら、ぱしりと弾かれてしまった。唖然として顔を上げる。
「失礼な人ですね」
「なんですって」
「私はこちらに招かれている主賓のお供で来ました。その部屋に戻ろうとしただけ。それをどうして邪魔されないといけないの?なんで手を出されないといけないの?」
「なっ……」
「……お願いですから桐野さんの評判落とすような事をしないで」
「…………」
「会いたいならこんな所でこそこそ伺ってないで入ればいいじゃないですか」
無言の返事に息を吐き、中に一声かけてもう帰らせてもらおう、そう思った時すっと襖が開いた。
「……さつき」
桐野に手を取られ部屋に入るのと引き換えに、顔を真っ赤にした雪緒の父が深々と頭を下げ芸者を引きずるようにして出て行った。
廊下の向こうから聞こえる怒鳴り声にギュッと身を竦める。
雪緒の父からすれば謝罪の場でまた同じ事が起こり面目丸潰れだろう。
気持ちは分かるが……
(やだ……)
こんな揉め事には慣れていない。
しかも原因が自分にあると思うとどうしようもなく心が荒涼とする。
なぜ望んでもいないのに巻き込まれて、こんな事ばかりが起こるのだろう。
「大丈夫か」
桐野に抱え込まれるようにして座ると、湯飲みが渡された。
湯気の温かさに少しホッとはしたものの、
「きぃさん、もういい?」
「ん?」
「……帰りたい」
口端を上げたつもりだったけれど、多分上手く笑えなかった。
目を細めると待っていろと薩音で告げ部屋を出ようとした桐野の着物の裾をさつきは軽く掴んだ。
「私も挨拶に、」
「否、待っちょれ」
柔らかく頭を撫でられさつきは口を噤んだ。
桐野と入れ代わりにやってきたのは店の女将で、彼女は来るなり土下座をする形で平謝りに謝ってきたのだった。
ぎょっとするさつきを余所に告げる口上を聞けば、ここは純粋に食事を楽しむ場で芸者を揚げて騒ぐような店ではないらしい。上がり込んだ芸者に気付く事なく客と悶着まで起こさせてしまったのは、確かに店の落ち度だろう。
でも。
(これお店のせい……?)
違うと思う。
さっきの様子からするに雪緒の父は女将にも苦情を入れるだろう。
ああ、と思う。
つい十分程前まではこの女将とも一緒に笑っていたというのに。
どうしてこんな事になるのだろう。
(なんだかもう、)
本当に疲れた……
しかし。
「私、最近間が悪いみたいで、だから気にしないで下さい」
そう告げてさつきは軽く笑った。
「お料理本当に美味しかったです。また桐野さんに連れてきてもらいたいです」
そう続ければ、さつきが怒っていないと気が付いた女将は酷く喜んだ。
再来云々よりさつきが今日の件についての不問を口添えしてくれそうな気配に気が付いた事もあるだろう。
雪緒の父は恐らくここの上客だ。とばっちりで彼を逃す事は避けたかっだろうから。
そのうち戻ってきた桐野も女将から丁寧な謝罪を受けた。
その後を引き取ってさつきが取り成そうとすれば、
「分かっちょる」
店にはとばっちりで原因は桐野にある事、雪緒の父にはその点をしっかり含ませておいた事。
「じゃっで心配せんでよか」
それは女将に向けた言葉だったのか、さつきに向けた言葉だったのか。とにかく女ふたりは一様にホッとした。
「帰るか」
その一言に立ち上がる。
back and forth:感情があっちこっちを行ったり来たり 2019072615126