待たせていた人力車に乗り込みそのまま屋敷に帰るのかと思いきや、降ろされたのは古い赤暖簾の前だった。
そんなに遅い時間ではなかったからまだ結構な数の客がいて、桐野は彼らと一言二言交わしながら進むと奥まった個室にもなる座敷席にさつきを座らせた。
(居酒屋かな?)
ごちゃごちゃしていて騒がしい。
さっきとはすごい落差だなぁとぼんやりしていたら、
「こげな店は好かんか」
そう尋ねられてさつきは首を左右した。
そんな事はない。元の世界では仕事で帰りが遅くなった時に先輩や同僚とよくお世話になったのだ。
さっきの料理茶屋よりも寧ろこっちの方が落ち着く気がする。
「そうか」
桐野はここによく来るのか、店の人ともあちらこちらにいる他の客とも軽口を交わしながら笑っていた。
さつきも話しかけられ、その内あれが美味いこれが美味いと遠くの席からも皿ごと持ってきて勧められ、気が付いたら酒まで注がれている状態で、
「それくらいで止めてくれ」
断る前に注がれてしまうさつきを見兼ねて桐野が杯を取り上げて空にした。
騒がしく遠慮のない雰囲気と賑やかな周囲に流されて声を上げて笑えば、
「漸く笑うたな」
「え?」
さつきは思わず隣にある男の顔を見上げた。
「無理強いして連れてきたのに嫌な思いをさせて済まなかった」
桐野はさつきをあんな状態のまま帰すのが嫌でここに立ち寄ってくれたようだった。
聞けば先程、雪緒の父は平謝りに謝ってきたらしい。
さっきの芸者の事もあるし、その前は隣室に控えていたからさつきが桐野にした話も聞いていたとの事。
先方の態度についてさつきがどう感じていたかも全部。
「そうですか」
何となく想像がつく。
男ばかりの屋敷でひとりでいても平気な"そういう"女だろうから、高級感に酔わせて美味い飯でも食わせ軽く謝ればそれで済むと思っていたのだろう。
「……もうそういうの疲れた……」
「ああ。再度何かさせてくれち言われたが……もう仕事以外で関わる気はないと断った」
「え……そんな事言って良かったんですか」
「良かったも何も元々それだけじゃ」
仕事での繋がりなら尚更大丈夫なのかと思いきや、
「心配するな、大丈夫じゃっで」
そもそも今回の一連の事は完全に向こうに非がある。それに事を大きくしたくないという思いは向こうの方が大きいだろう。
そう言って小さく溜息を吐いた桐野にさつきは少し驚いてしまった。
珍しい。
(……きぃさんも疲れたのかな)
それはそうだろう。
望んだ訳でもない面倒事が次々に起こっているのだから。
それに自分が関わっていると思うとなんとも言えない気持ちになる。
ただその事に触れるのはもう止め、「どうぞ」と柔らかく微笑んでさつきは酒を勧めた。
桐野は今日も助けてくれたし、気遣かってこの店にも寄ってくれた。
それで十分だ。十分過ぎるほどだと思う。
しんどいとか疲れたとか顔や言葉に出さないようにしないと、余計に気を遣わせてしまう。
「ありがとうございました」
「ん?……変な事ば言う奴じゃなぁ」
「色々ありましたけどご飯美味しかったし……きぃさんも助けてくれたし。それに……」
言いたい事を言っていいんだとか、気持ちを聞いてくれたり改めてくれる事はきちんとした存在として認められているようで嬉しい。
「………………」
桐野は暫く口を閉ざすと、がしがしと頭を掻いた。
それは屋敷でのさつきの立場を考えれば当たり前の事だろう。
さつきの幸せや満足の閾値は低過ぎるのでは?
桐野がそんな事を思っているとは、さつきは露知らぬまま。
「……計算高いっちゅう言葉を知っちょるか」
「し、知ってます」
「じゃっどん汝は計算高い女でんなかな」
「…………」
くすくす笑いながら桐野は言う。
「じゃっで屋敷に帰って汝の顔ば見っとホッとする。汝の態度や言葉にゃ打算がなかでな」
「幸吉も志麻もよう笑うようになった。辺見は賑やかじゃな。……まともな女がひとりおるだけであげに屋敷の様子が変わるとは思うちょらんかった」
さつきは曖昧に笑った。
褒められているのは分かるが、なんとも返事をし辛い。
「……女は怖か」
この言葉は桐野の口から聞くにはあまりに意外で思わず目を丸くしたのだけれど。
「その場その場で笑いながら軽く話をするだけじゃぞ。そいが何故あげん豹変する」
「…………」
「知らん内に屋敷にまで上がり込み勝手な要求ば突き付けて、揚句志麻と幸吉に折檻じゃ。俺にゃ心底理解できん。あいつら同じ人間か?」
さつきは首を横に振った。
「……単なる恥知らずです」
「…………」
「だから彼女持ちの男に言い寄って奪う為に子供も作れるんです。恋と戦争はどんな手を使ってもいいって言うけど……そんな事ないですよね?」
きれい事ばかりじゃないのは分かるけれど、我が事ばかりで思い遣りのない行動を取れば傷付く人が少なからずいる。
桐野だって被害者だ。
それもさつきに愚痴るほど積み重なっている。
「きぃさん」
「ん?」
「今回の話はもうこれでおしまいにしましょう?」
干された杯に酒を注ぐ。
「……お疲れ様でした」
飲み干さず縁を嘗める程度で杯を置いた桐野の手を「いいですか?」と告げて取ると、さつきは自分の両手で桐野の右手を包み込んだ。
温めるように軽く擦った後、桐野の掌を指先で強く圧迫する。
「痛い?」
「少しな」
ぎゅっぎゅっと力を加えながら掌から腕へと移動して、
「疲れに効くツボ……気休めだと思うけど」
反対側の手にも同じように触れた。
「人の上に立つ人は責任も重いし、滅多な事も言えないし。お屋敷でも弱い姿を見せられないのは分かります。でも今だけでも少し気持ちを緩めて下さい」
「…………」
「……疲れましたね……」
「あぁ。疲れたな」
ぽつぽつと他の客は帰りはじめていて、少し奥まった座敷の近くにはもう誰もいない。
静かになってきたなと思っていたら、
「少しいいか」
薩音で突然そう問われ首を傾げる。
「膝枕」
膝枕……
「……何もしない?」
思わず口にすれば桐野は否定したけれど、
「なんかイマイチ信用できないんですよねえ」
その言い方に桐野は笑い出した。
「ソーカ」
「そーですよ。きぃさん私を困らせてばかりじゃないですか。気がつけば丸め込まれてるし」
「……そげなつもりはないんじゃが」
「それ本気で言ってます?」
さつきの返事を待たずに桐野はその膝の上に頭を置いた。
この人のマイペースは今に始まった話ではないが、さつきは苦笑してしまう。
拒否する隙も与えないし、やっぱり丸め込まれてる気がする。
(でも咎める気にはなれないんだよね、不思議と)
そうなのだ。
本気で咎めだてする気も起きないし本気になって怒った事もないのは……辺見が言ったような居候の遠慮も、多分ある。
でもそれ以上に桐野が相手ならそんなに悪い気がしないからだ。
それは純粋に人としての好意というよりは、もう少し微妙なものかもしれない。
(……でもそれってさ)
何かあれば割と簡単に異性への好意にシフトチェンジしてしまう類のものだとさつきは思う。
(てゆーか、半ばシフトチェンジしかかってる気がするけど……)
それまでの積み重ねがあるとはいえ、このたった数時間で。
……なんというか、困る。
相手と自分の心の内が段々とはっきりしてきて、凄く戸惑ってしまう。
(きぃさん、ホントになんで私なんだろう)
そう思った所にふっとある考えが過って、さつきは内心で小さく息を吐いた。
(微妙だなあ……)
本当に微妙に揺れている。
自分の気持ちも、今までの桐野に対する態度も。
それは恋人の領域だろうと思う所まで踏み込んで来る桐野を許し過ぎている。
行き過ぎた接触を咎めないのは脈があると取られても仕方ない。
今だって膝枕と言われての返事は「何もしない?」だった。そこはまず拒否から入ろうよとひとりで突っ込んでしまう。
「何もしない?」なんて満更でもないと言っているのと同じだ。
――中途半端に女の人煽るような事言っちゃだめですよ。気があるんじゃないかって誤解するから
――切るつもりなら早い段階ではっきりさせないと後が面倒です。覚えがありません?
いつか桐野にかけた言葉、あれがブーメランになって今自分に突き刺さっている。
ただ自分と桐野にとっての”早い段階”が本当に分からなくて、事ここに至っている訳だけれど。
そんなに鈍いつもりはなかったんだけどと思いながら、さつきは桐野を見詰めた。
(膝枕かあ)
本当はこういう事をしてくれる人、甘えさせてくれる人が身近にいるのが一番なのだ。
しかし巻き込まれていざこざを身をもって体験してしまった後では、それも難しいのだろうとすんなりとさつきは納得した。
あれでは下手に声もかけられない。
いつか桐野は面倒だと言っていたけれど本当にそうなのだろう。
(気の毒だな)
こんな些細な事も簡単にできないなんて。
好意云々を措いた所でさつきはそうも思うのだ。
桐野の態度を許してしまうのは好意なのか、同情なのか。それとも他の感情なのか。
どうなのだろう。
ただ伸ばされた手を無下に撥ね退けられないのは確かだった。
向こうから見られない程度に、もう少し閉鎖的な空間になるようにとさつきは開け放しになっていた座敷の障子を閉めた。
特に深い意味はなく桐野が人目を気にせず済むようにという配慮からだったが、なんだかんだ言いながら結局は受け入れるさつきを桐野はどう思ったのか、
「嫌がらんな」
「嫌だって言ったらきぃさん止めます?」
問われてさつきは曖昧に笑った。
「別に……嫌じゃないんですよ。誰にでもこんな事するって思われたら困るんですけど」
「ああ」
「振るい落としたりしませんから、もう目を閉じて下さい」
そう言って桐野の双瞼に手を翳す。
(”気があるんじゃないかって誤解する”……ホントそう)
こういう自分の言葉や態度が曖昧で余計にダメなんだと若干複雑な気持ちにはなる。
しかし今まで桐野がしてくれた事を思うと、自分の前で緊張を解いて疲れを見せる人を突き放す程冷淡にもなれなかった。
「……汝とおると調子が狂う」
唐突に、だが静かにかけられた声に、え、と問い返す。
「汝にゃ話すつもりのない事ば話したり、するつもりのない事したり、そげな事ばかいじゃ。汝は刺々もぎすぎすもしちょらん。変な警戒もいらん。落ち着くから気が緩む」
さつきは黙って聞いていたが、桐野が求めるものは何となく分かる気がした。
ただそれを求める相手は本当に自分なのかと思うのだ。
だからやんわりと話をずらして、ぼやかす。
「それは私がぼんやりしてるから気が楽って事ですか……」
「そうかもな」
「……頭ぶつけたいんですか?口も閉じて下さい」
「ふ、はは」
目元に置いた手を握ってきたから、ぺしっと左手で弾いてやった。
「こら、変な事しないって約束だったでしょ?」
「そうじゃったな」
「ちょっとなんで棒読みなんですか」
笑いながらいつもの調子に戻ってきた掛け合いに少しホッとする。
「きぃさんも笑ってる方がいいですよ。私相手で気が抜けるっていうなら」
「なら今度は耳掃除でもしてくれ」
「鼓膜が破れたらごめんね」
爆笑された。
「汝をいつか手放さんとならんのが惜しい」
「でもいつ帰れるか……帰れるのかも分かりませんし。もしずっとここにいる事になったら私、」
「心配せんでよかち言うたろうが」
「面倒見てくれるって一生になっちゃいますよ?それじゃ私きぃさんの小姑になっちゃいますね」
「汝な大体分かっちょってそげな事言うんか」
空気を変えようとしても桐野はそれを許してくれないらしい。
これ以上曖昧なまま誤魔化すのはさすがに無理っぽいと観念せざるを得なかった。
「私、思うんです」
好きな人も簡単に作れない不自由さが桐野にそう思わせてるんじゃないかって。
手近かで面倒を起こさない後腐れのない便利さをそう錯覚しているだけじゃないかって。
「違いますか?」
むくりと起き上がると桐野はさつきに相対して座った。
顔に僅かに怒りが浮いている。
「でも私もきっと同じ」
「何?」
「……心が動かない訳じゃないんです」
辺見に拾われてからこの方、ずっとここの人に助けられてきた。
右も左も分からない所に投げ出され、混乱していた時にみんなが見返りも求めず親切にしてくれて、優しくしてくれて。
辛い時とかしんどい時にそういう風にされるのは酷く心に響く。
その上桐野は屋敷の人間全員の前で居場所を作ってやりたいとまで言ってくれた。
「嬉しかったの、あんな風に思ってくれてる事。そんな風に守ってくれる人、頼らせてくれる人、今までいなかった」
前付き合っていた人もその前の人も別れ際は酷かった。
だからそれとは随分違う桐野を見て、しかもそんな男が自分に気がありそうだと感じて何も思わない筈がない。
でもさつきは思うのだ。
……こんな特殊な環境だからそう思うんじゃないの?
「手近かで気良く面倒を見てくれる人を利用できるから心が動くんじゃないかって」
「…………」
「きぃさんの心知って私、ここにいる困窮とか寂しさとか怖さをきぃさんで埋めようとしてるんじゃないかって」
気持ちの上でも、物理的にも。
「さつき」
目の前に座りなおした桐野は穏やかに笑いながら、
「やっと俺を男として認識したな」
さつきの頬に触れた。
触れられた場所から桐野の体温が伝わるかのように朱に染まる。
「料理屋でもしかしてとは思うたんじゃが、合うちょったか」
そんな事言われても返事のしようがなかった。
「汝な驚く程馬鹿正直じゃなぁ。俺の気持ちに気がついて真面目に返さんとならんち思うたんじゃろう」
さつきが言った事は普通なら誤魔化したい所だろうに。
「今までもそうじゃったな。汝は真っ直ぐに物を見て真摯に向かってくる。俺は汝のそげな所が、」
「………………」
「………………」
途中で途切れた言葉は続かず、桐野の掌に片頬を包まれるや唇が重なった。
back and forth(2):感情があっちこっちを行ったり来たり 2019080215126