36:cross the line




それは軽く触れるだけだったけれど曖昧にしておきたかった境界をあっさり踏み越えられてしまった気がして、瞳からはぽろりと雫が零れた。

「……泣く程嫌か」

そう声をかけられても、ぽろぽろと落ちる涙が止められなかった。
風呂から逃がしてくれなかったり首や目元を嘗められたり、髪に触れられたり膝枕を強要されたり。
揚句の果てにキスまでされて。
今まで桐野からされてきた事はセクハラの域なんかとっくに通り越してる。
なのに。

「こんな事されても嫌じゃなかった自分が嫌……」

桐野に対する気持ちが、桐野を利用できるからなのか、桐野への同情から来ているのか、それとも純粋な好意から来ているのか、それすらよく分からないのに。
拒否すべき時にはっきりと拒みもしないで、簡単に桐野を受け入れてしまう自分が酷く軽薄な女のように思えて。

桐野は少し驚いた顔をしたが、
「汝なそげん事言うてよかな。都合良く取るぞ」
柔らかく笑うと俯くさつきの頭を軽く撫でたのだった。

「きぃさんは意地悪です」
「ん?」
「どうしようって思う事ばっかりしてきて」
「うん」
「押しが強いから私負けちゃうし」
桐野は吹き出しそうになったがそれは辛うじて我慢。

「いつも?他のヒトにもそうしてるの?」
「そう見えるか?」
さつきは頭を左右した。

「きぃさんの事ちょっと好きになりかけてるのは認めます」
「ちょっと?」
「……ちょっとです」
そう返事をすれば桐野が笑う。
「でも本当に好きかどうかも分からない。それに好きになっても私ここにいられないかもしれないのに」
声まで湿ってきた。



「さつき」

少し強めの語気で呼べばさつきは桐野を正面に見る。
考え過ぎて身動きが取れなくなるのはこの女の欠点だと思いながら桐野は言葉を継いだ。

「汝にゃ他人を思い遣る優しさと分別がある。俺も屋敷の者も、全員がそれに助けられた。気付いちょるか?」

桐野の負担にならないように身を引いて、幸吉と志麻が巻き込まれないようにと矢面に立ち、辺見が板挟みにならないように理不尽にも口を噤んで。
雪緒に対してもそうだ。争う形にならないように彼女を立てる姿勢を取り、あんなに酷い事をした書生たちに対してさえ教育の場が奪われないかと懸念して桐野に口添えをした。

それに桐野は屋敷に来てからのさつきをずっと見てきたのだ。
今までの屋敷での振る舞いと自分たちへの態度を見れば、彼女がどういう人間かは大体分かる。
あんな騒動があったから余計にそれが浮き彫りになっただけで、多分遅かれ早かれ同じ結論に辿り着いただろうと桐野は思う。

「近くにおるから都合良く錯覚しちょる?そげん事じゃなか」
「…………」
「汝が誤魔化すで……否、俺もやや強引じゃったな。そげん困らせるつもりはなかったんじゃが、汝が可愛かち思うてな、つい」
親指でさつきの目尻を軽く拭いながら、桐野は笑った。

「もっと心ば緩めろ。周りの事ばかい考えて息ができんくなるほど己を追い詰めるな。他人に無理に合わせ過ぎる必要はなか。それは協調でのうて心ば殺すのと同じじゃ」

人の言葉を容れるばかりでなく、自分が思う事も口にして偶には意見を通さなければ……
我が儘が通り過ぎると付け上がる人間は多い。
それにそれが普通になってしまえばまともな付き合いなんかできなくなってしまう。

「良かれと思うてもその程度が過ぎれば汝の負担になる。そいに相手もだめにする」

揺れる瞳が少し見開かれたので、思い当たる事があるだろうと尋ねれば、目の前の女は躊躇いながらも肯首した。
桐野が指摘したのはさつきの優しさ――長所の裏にある欠点だ。

「汝はもっと適当でヨカ。程々で、な。肩の力を抜いて気楽に行け」
「…………」
「汝がひとりで全部背負い込む必要はなか」

人間関係も、仕事の事も。

そう付け加えれば、さつきはハッと表情を変えた。
「元おった世界でもそうだったのだろう?」
それは今の反応を見れば明白で、桐野はああやはりと思ってしまう。

さつきは器用なように見えて本当は不器用なのだ、きっと。
うまく立ち回れずに自分を犠牲にして解決してしまう。
桐野が想像したように今まで損ばかりしてきたに違いない。

(ここにいる困窮や寂しさ、怖さを埋めようと、か……)

さつきにとってここにいる事は基本的には困窮、寂しい、怖い、事なのだ。
誰ひとり知る人間がいない、金がない、帰る家がない、帰り方も分からない。
桐野が住む世界は彼女にとってはそういう世界だったと改めて認識する。
そんな状況、女でなくても心細いに決まっている。
さつきは今まで不安を訴える事はなかったけれど、黙っている事自体が相当な心の負荷であっただろう。

そんな状態なのに知らない世界に来てまで人を思い遣りすぎて貧乏くじばかり引いて。
泣き言も言えず、人に甘える事もできず。
(…………)
どうしようもなく甘やかしてやりたいような気持になるのは、桐野がさつきを女として見ているからだ。
それは間違いない。
しかしそれ以上に、今はここまでひとりで踏み堪えてきた年下の人間を労わってやりたいと思う気持ちの方が強かった。
”男”としてと言うよりも”人”として。

「――― さつき、よう気張ったな」
ここに来てからも、それまでも。

それは簡素であったけれど心からの言葉で。
かけてやった途端にさつきの目尻からは何かが壊れたかのようにぼろぼろと涙が流れ落ちる。
手を伸ばして引き寄せれば簡単に腕の中に納まり、子供をあやすようにやんわりと背を撫でてやれば、さつきは桐野の肩口に額を当て、着物の衿を掴んでしがみつくように嗚咽した。

辺見はさつきが「神様が骨休めしろとここに連れてきた」と言っていたけれど、それは間違っていないように桐野には感じられた。
ただ、それは骨休みというより、労わられたり、認められたり、慈しまれたり……
誰かから大切にされる為にここに来たのではないか。男女間の問題ではなく、人として。
誰かから大切にされる事、されている事を知る為に来たのではないか。
そう思った。

「ご、ごめ……、ごめん、なさい、止まらない」
「ああ、よかよか。好きなだけ泣け。誰もおらんで」
そう言ってやれば。
「きぃさんはずるい……どうしてそういう事言うの?」
どうしてって。
「お願いだからこれ以上優しくしないで、帰りたくなくなっちゃう」

ふっと口元だけで笑ったつもりが、距離が近過ぎた。
どんと胸倉を叩かれたが、口をへの字にして泣きながらの赤い目元で上目遣いで睨まれても。

(ああくそ)
本当にかわいい。

むらむらとくるのをはぐらかし、桐野はぐしゃぐしゃと勢いよくさつきの髪を撫でまわすと、
「大丈夫じゃ」
言い切った。
さつきは黙ったまま見上げてくる。

「帰ってもな、否、ここでもどこにおっても汝はそんままで大丈夫じゃ。どこにおっても通用する」
「…………」
「ただ汝にゃあと少し時には譲らん勇気、必要な時には戦う勇気がいる。もう分かっちょるじゃろう?」
「うん」
「よし。そいでヨカ」

さつきは暫く縋り付いたままぐすぐすと鼻を鳴らしていた。
頃合いを見計らって落ち着いたかと声をかければ、
「もう少しこのまま……」
思いもよらず甘えてきて驚いたが、
「ごめ」
「謝るな」
謝ろうとするのを遮れば、そっと背中に両腕を回された。

「きぃさんみたいな人から頑張ってるって言われて嬉しかったのかな。なんかつかえが取れたっていうか……栓が抜けちゃったみたい」
さつきはぎゅうっと強く抱きつくと少し間をおいて体を離した。

「……ありがとう」
「ああ」
「なんか……なんだろ、凄く心があったかいの。わーって叫びたくなるみたいな」
「そうか」
言葉や声が丸くなり、その上子供のような親愛の表し方だったが、それだけさつきの素の部分が表に出ている様な気がした。

「俺相手で気が楽になるならいつでも来い」
己が言われた言葉をそのまま返してやれば泣きはらした顔のままさつきはくすくすと笑った。
「年上の男手玉に取って遊ぶのも面白いと思うぞ」
「えー?」

更にコロコロと笑い出したさつきの目元に懐から取り出した懐紙を当ててやる。
じゅんじゅんと湿っていくそれを見ながら、栓が抜けたというよりは堰が決壊したかのようだと桐野は思った。

「なら……帰り、手を繋いでもらえますか?」
「手?」

男女が手を携えて歩く習慣はさすがにない。
突然の申し出に聞き返せば、やっぱりダメかという諦めがさつきの顔にはありありと浮かんでいて、桐野は即座に応諾した。
目の前にいる女はありがとうと小さく言ってほっとしたように笑う。

本当に些細で細やかな事を喜ぶ様子に、桐野は何とも言えない気持ちになった。



帰路のさつきは今までになく饒舌だった。
元の世界でどんな風に生活していたのかとか家族の事とか、意外な事に別れた男の話もした。
付き合った数は少ないが期間が長く、そうなる程男がだらしなく、付き合い方が粗略になっていったとさつきは言った。桐野が予想した通りだった。

桐野の事は来て間もない時から頼りになる人間だとは思っていたらしい。
桐野だけでなく辺見の事も別府の事も。

「あと篠原さんは……ここに来たばかりの時に私を救ってくれました」
「救う?」
「多分篠原さんはそんな風には思ってなさそうだけど……」
ふと我に返って元の世界を思い起こした時、偶々側にいてくれたのが篠原で、怖い寂しいとさつきが誰にも言えなかった事を吐き出させてくれた。
「辺見さんはね、この前きぃさんと同じ事言ってくれたよ。もっと気楽に、考え過ぎるなって」

明確な返答や同意が欲しい訳ではなく、ただ聞いてほしいだけのようで間断なくといっていいほどの話ぶりだった。
全くもって女のお喋りだったが、日常に嬉しかった事驚いた事、話したい事が山ほどあるようで、桐野は苦笑すると同時に確かに今までこういう機会はなかったと思った。

繋がる手は思いの外小さくひんやりとしていて酷く頼りない。
屋敷の長屋門を潜り玄関で幸吉と志麻が待っているのを認めるや、するりと抜けてしまったそれに桐野はさつきは神隠しでまた突然いなくなるのではという思いが漠然と湧き上がった。

「さつき」

思わず声をかければ、さつきは軽く首を傾げた。

「いや……後で俺の部屋に来い」
「…………」
「渡したい物があるだけじゃ」
「え〜?ホントですか?」
「ああ」

さつきの随分と柔らかで気安い対応に幸吉と志麻が目を見張ったのが分かる。
「じゃあ後で伺いますね」
と今日の礼を告げて志麻と奥に入った様子を見ていた。


「……先生」

妙に冷たい従僕の言葉に振り返る。
「さつきさんに何したんですか」
ひくりと片眉を上げれば、

「あんな泣き腫らした顔して……今日はそんな席やなかった筈ですやろ」
「そうじゃな」
「それに先生……口のはたに紅ついてます」
「幸吉」
「へえ」
「さつきが欲しい」
「知ってま」

何を今更と呆れた口調に「ソーカ」とだけ零すと桐野は苦笑した。


cross the line:領海侵犯 20190809140918

wavebox(wavebox)