06:salvation




――君の休まる場所に戻っておいで
――変わらない笑顔で明日も恙無く過ごせるように

そう歌う(ことば)はものの見事にさつき自身に跳ね返ってきた。

(戻ってこいって言われても、なぁ……)
ここは自分が居る場所ではないという事を付きつけられているようで、歌いながら我ながら気持ちが盛大に沈んだ。
その通りだ。その通りじゃないか。
ここは自分の居るべき場所ではないというのは間違っていない。
でも。

さつきは明治六年の東京にどうやって来たのかも分からないし、どうやって帰ればいいのかも分からない。
桐野や辺見は「なるようになる」と言ってくれたけれど、そしてさつき本人もそう割り切ることで決着したのだけれども。

現代むこうの家族とか、友人とか、仕事とかはどうなっているのだろう。
職場の方はドッペルゲンガーでも出勤していなければ、もう随分無断欠勤してるんじゃないか。
行方不明だと捜索願いが出されているかもしれない。
(あれ?というか、さ)
新宿で事故に遭ったその後、”むこう”のさつきの肉体そのものは一体どうなったのだろう。
……捜索願い?
トラックが突っ込んできたんだ。もしかしたら死んでいるんじゃないだろうか。

すっと血の気が下りた。
そうじゃないと思いたいがそれを否定する要素もない。
(お父さんとお母さん……どうしてんだろう)
家を出てひとりで暮らしているくせに、こんな時ばかりは正月以来会っていない家族が酷く恋しくなった。
現金だなとふっと笑うも心配どころの話ではなくて、もしかしたら泣いているんじゃないだろうか。
そう思うと堪らなくなった。ぎゅっと目を瞑る。

笑顔で恙無く過ごせますように、だなんて。
どうして自分がそんな歌を歌えるんだろう。

(あー……ヤだな。ちょっと涙零れそう)
辺見や桐野は、ここの人たちは、訳の分からない怪しいばかりの自分を拾ってくれて。
大丈夫だと慰めてくれて。住む所を、居場所を与えてくれて。
なんて優しいんだろうと思うし、不満なんて何もない。
そんなに良くして貰っていて、彼らの前で泣き事とかそれでも不安なんだとか。
……寂しくなっただとか。

そんなこと言っちゃだめだと思うし、知られちゃいけないと思う。彼らに対して失礼だろう。
大丈夫、だいじょうぶ。色々思い出して、ちょっと不安定になっただけだ。
そう思うのに遣り場のない気持ちに肩が震えて視界がぼやけた。
(……いい年してカッコ悪いなあ)
したーっと滴が頬を伝って、したんと落ちて。一度涙腺が緩むと後はだあだあと流れた。
(いいよもう、誰もいないし。泣いたらきっとスッキリする)
なんて案外冷静に思いながら、草を抜いた地面がじゅんじゅんと濃い茶色に変るのをぼんやり見つめていた。

……のだけれども。

「おい」

声と共に肩に手を掛けられ、さつきはびくりとして頭上を振り仰いだ。
突然の事で顔を拭う暇もない。
逆光で顔がよく分からなかったのだけれども、軍服を着ていたから邸の主だろうと思い、
「な、……んでもないです、桐」
野さん、と続けようとして息を飲み込んだ。

だれ、この人。

ただ相手もぎょっとして手を引いた。
それはそうだろう。

さつきの双眸からは壊れた水道のように水分が流れっぱなしだし、ウォータープルーフのアイラインじゃないから涙の通り道はどす黒いに違いない。
その上汗ですっかり落ちていて化粧っ気もあったもんじゃない。
不可抗力とはいえ初対面の人間に見せる顔でない事は確かで、むしろさつきとしては「女としてどうだろう」な域に入ってしまっている。

「―― ぅ ― 〜〜っ……」
(ああもう、なんてタイミングの悪い)

恥ずかしくなり顔を伏せると、さつきは強引に腕で目元と頬を擦った。
本当にそれだけだったのだが、相手は何か勘違いしたらしく酷く焦った空気だけが伝わってきた。



声を掛けた事で女は一層酷く泣いてしまった(ように見えた)。
そんなつもりはなかったのに、遠目には自分が泣かせたとしか思えない状態で篠原は酷く困ってしまったのだった。

こんな時女の涙を止める方法を篠原はひとつしか知らない。口を塞げばいい。
一番簡単で手っ取り早い方法だが、桐野と辺見の関係者だ、篠原が思う方法はそれはそれで問題だろう。
面倒になりそのまま立ち去りたくなったのだが、篠原は仕方ないとばかりにさつきの側に腰を下ろした。

このまま放っておく事もできないだろう。泣かせてしまったのだし。
かといって篠原は声を掛ける事もせず、ただ黙って側に座るだけだ。 
こんな状態で見知らぬ者が掛ける言葉などないだろうし、それに放っておけばいずれ泣き止むだろう。
(ゆすら梅か)
ふと灌木が赤い実を付けているのに気が付いて、篠原は(もうそんな時期か)と思い、無意識に手を伸ばして実をちぎり口に放り込んだ。

「それ、食べられるの」

すると意外にも隣から声が上がった。視線を流すとぱちりと目が合う。
「甘いぞ」
幾つかを篠原が差し出すと、彼女はそれを躊躇いもなく口にして。
「……すっぱいよ」
泣いていた顔がへらっと笑った。



「桐野さんのお知り合いの方ですか」
さつきが尋ねると相手が肯首した。
「如月さつきと言います」
ここで御厄介になっています、よろしくお願いしますと頭を下げると、
「篠原国幹」
短く姓名を告げられた。

「……篠原さん、ですか」
(篠原……聞いたことあるような、ないような……桐野さんの知り合いって事は偉い人、かな)
首を捻るもやっぱり思い出せない。
篠原は時々ゆすら梅をちぎっては口に運び、またさつきにも渡すものだから、さつきもそれを口に運んでいた。
ふたりして一体何をやってるんだろう。
変な絵面だと思うが、篠原が黙っているからさつきも口を噤んだままだ。
「あ、これはおいしい」
当たりを引いたと思いきや「もう大丈夫か」と声が耳に飛び込んでくる。

「大丈夫……?あ、あー……篠原さん、すいませんみっともない所をお見せしてしまって。と言うか不運でしたね……」
篠原は意味が分からないという風に首を傾げている。
「私、いつもはもう少しきれいなんですよ。……多分」
「多分?」
「……多分」

照れが出てさつきはすいと視線を逸らしたが、髪の間から見える耳が少し赤くなっているのはばれていたのだろう、篠原が声を上げて笑った。

「ちょっと篠原さん酷い、私だって恥ずかしいのに!こういう時は『そんな事はない』とか言うもんでしょー」
「そんな事はない」
「え、なんで棒読み?なんで標準語?イントネーション違うじゃん!」
「ふふ、ははは」

笑ったまま相手にしない篠原に「酷い」を連呼しながら、さつきも終いに笑い出してしまったのだが、
「そん方がヨカ」
突然の発言の意味が分からず、さつきは少し高い位置にある篠原の顔を見つめた。

「女は笑っちょる方がよか。そん方が可愛むぞか」
「むぞ……?え?」
「ああ、そいはよか。それより何ぞ困っちょる事でんあっとな」

上手くはぐらかされたような気がしたが、それよりも先程の状態を見られていた事を今更ながらに思い出し、さつきは少し瞼を伏せた。

「桐野や辺見には話せん事か」
篠原にそう言われてひくりと睫毛が震える。
「だって私の思ってる事聞いたら、篠原さん、絶対面倒くさい女だと思う」
「そいでもこげな所でひとりで泣くよりずっとマシじゃろ」

「……ふたりともきっと帰れるから大丈夫だって。得体が知れない居候に遠慮するなって、いつまでもここにいていいって。そう言ってくれてすごく嬉しかった」
そうだ。初日に何事もないようにそう言い放った桐野たちを見てネガティブになるのが馬鹿らしいと感じたのに。
それで納得したのに。
「でも、それでも怖いの。だってここには私の知ってる人、誰もいない。私を知ってる人もいない」
「家族は」
さつきは首を左右した。

「誰にも、もう二度と会えないかもしれないって思うと、こ、こわくて……でもそんな事相談できる人いない。話をできる人だっていない。寂しいよ。私これからどうなるの?どうすればいいの?分からないよ……」



篠原は辺見がさつきを『違う東京から来た』女だと説明した理由を、ここで初めて理解した。
望んで『東京ここ』に来たのではない事は、さつきの様子から瞭然だった。
恐らく関係する係累を始め何もかもから突然引き離されて、訳も分からぬままここに辿り着いたのだろう。
それを助けた辺見や桐野には非常に感謝していて、それなのに尚怖いなんて言葉を吐いて困らせたくないとか、失礼だとか……
思っているのはそんな辺りかと篠原は見当をつけた。

何の後ろ盾もない人間が陸軍少将に拾われて養われる等、普通なら、そう、普通ならこの上ない幸運だろう。
経済的にも桐野の世間的な地位を考えても。拾われたのが女であるのなら尚の事。
けれど目の前にいる女にはそんな打算はなく、正負の感情が綯交ぜになった葛藤だけを抱えていた。

篠原は持ち上げた右手でさつきの頬に触れると零れ掛けた雫を拭ってやった。
さつきは何かを言おうと口を開いたが、その唇はただわななくだけで声は紡がれなかった。

(馬鹿な女じゃ)

現状への感謝と、自分の世界を思っての孤独からくる恐怖や寂寥は、全く別のものだろうに。
誰がさつきの立場でも、きっと同じ事を思う。それを一体誰が咎められるというのだろう。
それが分からないんなんて、本当に馬鹿な女だ。
うっく、と息を飲み込んで閉瞳したさつきを見て、ふっと篠原は微笑った。

「面倒な女じゃなんて思わんぞ。誰にでん事情ちゅうもんがあっじゃろうが。誰も咎めん」
「そいにここにおる誰かに話せんのなら俺が聞いちゃる」

己が随分と酔狂な事を言っている自覚はあったが、それもまた良いかと。篠原はそう思った。
さつきの葛藤は、これ以上甘えられないと思う心の頑なさからきているものだ。
もっと気楽に、もう少し図々しくなればずっと楽になれるのに。

それでも篠原は、さつきの周りを煩わせたくないと思うその強がりが決して嫌いではない。
馬鹿な女?
いや、馬鹿なところがかわいい女というのが正確だろう。
こちらからの提案に、だって、でも、と口籠るさつきに続きを許さず、篠原は言葉を被せる。
「ひとりで暗か顔ばしちょっより、そん方が余程よか」

笑みを深くした途端、軽い衝撃と共にさつきがぶつかって来た。
腕を回してぎゅうぎゅうと締めつけて来る女に思わず苦笑が漏れる。
胸元からは何やらぐすぐすと聞こえていたが、落ち着けという風に柔らかく背中を軽く叩いていたらそれはその内寝息に変わってしまった。

「…………」

おい、嘘だろう。
警戒心の薄さに驚きながら篠原はさつきを抱えると木陰へと移動してその体を横たえた。
ジャケットを脱いでその腹の辺りに掛けてやり、改めて女の顔を見つめる。
恐らく随分と張りつめた気持ちでいたのだろう。
最初に見た顔色は酷いものだったが、篠原に吐き出して楽になったのか、今は随分と柔らかな雰囲気になっている。
()れた……)
この女に声を掛けてからまだ大した時間は経っていないというのに、高低の激しい気持ちにあてられ少し疲れてしまった。

小さく息を吐くと、篠原も己の四肢を木陰に投げ出した。
(辺見の事ば笑えんな)
そんな事を思いながら。



salvation:救い
#は中孝介『家路』 110122

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