忙しくなるという桐野の言葉に嘘はなく、それから彼は帰る時間が遅くなったり、また帰ってこない日もあった。
食事を共にする頻度も減り、帰ってきた時桐野が纏っている空気が時に酷くピリついている。
(難しい事があるのかな……)
桐野が何も言わないから、聞かなかったけれど。
帰ってきた桐野を志麻と一緒に迎えに出た時、さつきの姿を認めた彼の雰囲気がふっと柔らかにほどける。
そんな表情の変化を見せられる度に胸が小さく鳴く意味を、さつきはさすがに自覚せざるを得なかった。
シフトチェンジしかかってる。
前はそう思ったけれど、今では既に”しかかっている”ではなくなってしまっていた。
内心で小さく笑ってしまう。
(ああもう、仕方ないなぁこれ)
なるようになる、なるようになれ、だ。
辺見が言ってくれたように、少しだけ我儘に、やりたい事をさせてもらおう。
そうは思うのだけれど。
「幸吉くん、志麻ちゃん、ちょっといいかな」
やりたい様にするにしても筋は通すべきだ。
特にこのふたりにはとさつきは桐野がいない日中、自身が考えている事を告げた。
大人びてしっかりしていても、さつきから見ればふたりは随分年下の、まだ子供だ。
それに雪緒との事、以前聞かされたこの屋敷の女性絡みの事件を思うと、どう思われるかと心配はあったのだけれど。
「「やっと……!」」
(や、やっと?)
一拍置いて顔を見合わせたふたりが、きらきらした瞳でこちらを見てくるのにはややたじろいでしまった。
彼らが想像しているのとは、多分、ちょっと違うのだけれど。
「あのね、お付き合いとか、そういうのじゃないからね?分かってる?」
そう言い添えても幸吉も志麻も笑うばかりで。
まあ……そう反応されても仕方ないなとは、思うのだけれど。
「少し傍にいてあげたいの。きぃさんにはまだ何も言ってないんだけど……」
「大丈夫!先生絶対喜びはります!」
「辺見さんにも別府さんにも何も言ってなくて、」
「あ、それは大丈夫ですよ〜」
おふたりとも分かってらっしゃいますから。
志麻がさらっと継いだ言葉に思わず絶句する。
そりゃあ確かにあのふたりには最近の桐野との関係と自分の気持ちの変化はバレバレと言うか…………
気付いているだろうなとは、思っていたけれども。
「…………」
「え?」
「さつきさん?」
「……ちょ、ごめん、凄く恥ずかしい……」
あまりに事情が筒抜け過ぎて。
十代ふたりの笑顔に背中を押されて桐野の室に向かったのはその夜の事だった。
「……如何した」
返事と共に障子を開ければ姿を認めた桐野が目を丸くして見てきて、さつきは眉尻を下げて笑った。
遅い時間だ。非常識なのは重々分かっているのだけれど……
ここで寝ろって言ったのは桐野なのに。
「今日からこちらにお布団敷かせてもらいますね」
「…………」
「きぃさん、あの、」
はあと深く溜息を吐く割には困ったように桐野は笑っている。
「知らんぞ……」
どうなっても、という呟きは夜のしじまに消えていった。
「「さつき」」
「やだ、止めて止めて何も聞かないでお願い」
廊下の壁に追い詰められるようにして男ふたりに囲まれたさつきは、思わず耳を両手で塞いでしまった。
「…………」
「…………」
「…………」
止んだ呼びかけに、ちろん、と目の前にいる別府と辺見を上目遣いで見上げれば、別府はにこにこ、辺見はにやにやと笑っている。
ばれてる。完全に。
いや、ばれないとはさすがに思っていなかったけれども。
「で?」
「は?」
「進展は?」
――女子かっ!という叫びは喉元で辛うじて飲み下す。
「……進展って……ないよ?第一そんなんじゃないし……え、何その目」
「そげな事なかじゃろ」
「嘘バ吐くな」
揶揄われるように言われて「嘘じゃない」と言い募れば、ふたりは目を剥いた。
「でも、そんなに驚かれても……本当に何もないし」
そうなのだ。
布団を隣に並べて寝ているけれど何がある訳でもない。キスすらしてない。
膝枕して話を聞いて聞かれて、笑って。
灯りを落としても眠たくなるまで話したり、手元のランプで本を読んだり。修学旅行か。
「めちゃめちゃ清い関係ですよ……そんな目で見ないでよ……」
一様に信じられないという眼差しで見つめてくるふたりにさつきは苦笑してしまう。
「隣で寝て、話……ほんのこてな?そいだけか?」
「それだけです」
「桐野さぁ、凄かな……」
正直に言えば同じ布団で朝を迎える日も多い……というか殆どなのだけれど、口に出すと面倒くさそうなのでそこは黙っておいた。
手は出されていないから、嘘はついていない。
ただ辺見が小声で呟いた通り、さつきも凄いなとは思うのだ。
今までの経緯で今の状況だ。桐野と男女関係になってしまっても、さつきには否やも後悔もない。
と言うより最早そうなってもいいと思っている。
そんな中で遊んで帰ってきている様子もなく、かといってこちらに手を出す素振りすらないのはかなりの意志の強さだなとさつきですら思う。
彼が手を出さないのはさつきが置かれている境遇の事もあるのだろうけれど、それを理解した上で、
(多分、大事にしてくれてる)
桐野は自分勝手にさつきを暴かない。
大切にされていると感じられる事、しかもその奥に優しさがあると感じられる事はさつきの心を温かくする。
「前にも聞いたが……嫌じゃらせんか?無理ばしちょらんな?」
別府の問いかけにさつきはしっかりと頷いた。
「うん。大丈夫。それに私……きぃさんの事好きよ。だから少しでも助けになる事があるなら、私にできる事があるなら、してあげたいの」
「ソーカ」
「……そいは”汝が考えて出した結論”じゃな」
辺見の言葉にも、うん、と頷けば、
「汝はほんのこてよか女じゃな」
静かに笑って頭をかき混ぜてきた。
「あ、でも……最近の忙しさって何なのかな?」
忙しいというより慌ただしいって感じだけど、と繋げると、男ふたりは顔を見合わせた。
「汝、知らんのか」
雷に打たれる。
別府が口にした内容を受け止めた時のさつきの心情は正しくそうだった。
(そうだよ、どうして忘れてたんだろう)
そう思いながら気持ちばかりが焦る気がして、胸がざわつくのを止められない。
室で共に過ごす桐野にもいつものような軽口がきけずに黙り込んでしまう事が多くて、
「如何した。何かあったか?」
柔らかな声音で尋ねられてしまった。
「そうですねえ……」
曖昧に答えながら、膝に乗る桐野の頭をそっと撫でたが、
(このまま時間が経てば、四年後の戦争でこの人は死んでしまう)
そう思った瞬間、体が固まった。桐野に触れる手が震える。
「おい」
様子の変化を察した桐野は、身を起こすとさつきの顔を覗き込んだ。
「泣くような事でんあったか」
すっと目を細めて目元に触れてくる手に頬を摺り寄せれば、桐野が小さく口端を上げる。
「きぃさん朝鮮に行くの……?」
「ん?ああ……」
軽く返事を濁されたけれど、桐野はさつきの言葉をどう捉えたのか大様に笑った。
「汝はここに居ったらヨカ。心配するな」
違う、そうじゃない。
そんなことを心配してるんじゃない。
しかしその理由を口にできる訳もなく、さつきはただ首を左右した。
やはり今は征韓論争の最中だ。
明治六年、征韓論で敗れた西郷隆盛と多数の薩摩系の将校が下野した事くらいはさつきだって知っている。
その日が近付いている事。
桐野はその、薩摩系将校のトップクラスの人物である事。
そして明治十年の西南戦争のトップクラスの指導者でもあった筈。
「……きぃさん……」
眩暈を感じながら目の前にいる男をかき抱けば、驚かれはしたものの桐野の腕がゆっくりと背中に回った。軽く手が弾む。
その手から伝わる温かさに本格的に泣きたくなった。
「あなたを失いたくない」
体が離れたと思いきや、ぐっと近付いてきた桐野の顏に双眸を閉じる。
今度は触れるだけではなく奪われるような口付けだった。
「ん、っ……んん、」
掛かってくる体重を受け止めきれずにいると、背を掬うようにして抱き上げられる。
隣室に伸べられていた布団に寝かされると同時に桐野が覆い被さってきた。
しかし。
「…………」
コツと額と額が当たり、はあ、と大きく息を吐くと桐野はさつきの隣に転がった。
「……今のは汝が悪い」
バツ悪そうに継がれた言葉に思わず小さく笑えば桐野はややむっとしたので、更に笑みが深くなってしまう。
「朝鮮行きは何とも言えんが……話ば聞いて不安になったか」
不安と言うより怖くなったのだ。
「怖い?」
鸚鵡返しに聞かれて肯首する。
「きぃさんは軍人として行くんでしょう?それは、きっと戦争になるってことだよね?」
「…………」
「私のいた所では何十年か前に大きな戦争があってね、全世界で五、六千万人位の人が死んだの。私の国では三百十万人が犠牲になった」
桐野の目が見開かれた。確かに桁違いの人数だ。
戦争の話は夏をピークに沢山聞いてきた。写真だって物によっては映像だって見ている。
勝ち目のない地獄のような戦場で食糧も兵器も持たされず戦った兵士たち、四方の逃げ場を塞がれて頭から焼夷弾を浴びせられた市民たち。外国では民族単位の大虐殺だってあった。
どれもこれも耳を塞ぎたくなるような話ばかりだ。
「戦争が実際はどんなものなのか、私は何も知らないよ?……でも戦争が何もかもを奪ってく事だけは知ってる」
「ああ」
「戦争は、怖いよ」
勿論明治の軍事技術では、先の大戦の様な戦争にならないのは分かっている。
それに桐野達は朝鮮には行かない……否、行けない事だって知っている。
そして数年後に起こる筈の西南戦争で貴方達の命が奪われてしまうのだとは、口が裂けても言えないけれど、
「戦争で大切な人達が、いなくなって、しまうのが、怖い」
こう思う気持ちは、誰でもどこでもいつの時代でも普遍的なものだと思う。
ほろほろと目尻から流れ落ちる滴を桐野が親指で拭う。
「そうか」
静かな声に頷いて目の前の男に縋り付けば、額に唇が落ちてくる。
「大丈夫じゃ。今まで何度か戦場に出たが帰って来た。そいに朝鮮で戦争になったとしても死ぬつもりはなか。死なんように努める」
「…………」
「前に渡した櫛に意味があるんは分かったか」
突然の話題転換に着いて行けずに黙り込んだが、返事を促されさつきは頷いた。
「でも、詳しくは……」
何か微妙な意味がある事には気付いていた。けれどそれだけだ。
周囲に聞いても誤魔化されるばかりで、結局誰も教えてはくれなかった。
「あれは、櫛は語呂合わせじゃ。これから”苦”と”死”を共にしてくれっちゅう」
「え?」
桐野の思わぬ言葉に涙が止まってしまった。
「さつき、俺の傍にいてくれ。汝を手放しがたい」
櫛って、櫛を渡すって、
(―――プロポーズだったの……)
渡したいものがあるから部屋に来いだなんて、酷く無造作に渡してきたのに。
じわじわと顏が朱に染まっていく。
その様子に桐野はうっすらと笑うと、軽くリップノイズを立てながら目尻、頬、口端へと唇を落としていった。
「さつき」
「……っ……」
耳元で吐息のように囁かれ、反射的に桐野の体にしがみついた。
「きぃさんはやっぱり意地悪です」
「ふふ、ああ……そうじゃな。汝を逃がす気がなかでな」
「……私……応えられないよ……」
「分かっちょる、今応えんでヨカ。じゃっで我慢しちょる」
我慢……
「しちょらんち思うちょったか」
「…………」
ぴくりと桐野の片眉が上がるも、あてつけのように体を摺り寄せれば、それも苦笑に変わった。
「いずれ如何すっか選ばんとならん時が来る」
「……ん……」
多分その時はそう遠い将来ではない。
change:気持ちの変化、状況の変化
夢主は西南戦争を桐野は朝鮮行きを想定しているので若干行き違いが起きてます。2019082420190601