申し訳なさそうに頭を下げた書生に一言礼を述べると、桐野は書生部屋を後にした。
辺見と同じく桐野もさつきが突然現れたという近辺の様子を定期的に見に行かせていた。
以前は幸吉を遣っていたが、あの騒動以後それを知った書生たちが自発的にその役を買って出るようになっていた。
しかし何が分かるでもなく、何の変化があるでもなく……
辺見からも時々聞いてはいたのだが、やはり何があるでもないらしい。
さつきを見つけた時の話も聞いたが、突然宙から落ちてきたという事でもあるし。
彼女自身も新宿に足を運ぶ他、神隠しにあった時の状況や身の回りに変わった事がないかを確認し、また神隠しや類似の事が起きていないかについても調べていると寝物語に話していたが、やはり変わった事はないようだった。
幸吉や志麻など屋敷の者たち、辺見や別府と笑いながら話しているさつきを見ていると、桐野は知らず溜息をついてしまう。
ここにいる寂しさとか怖さ。
以前さつきはそう口にしていたが、そうした感情は普段の彼女からは少しも感じられなかった。いや、見せなかっただけなのだろうが……
しかしここがさつきにとってそう感じる場所であるのなら、やはり帰してやるのが一番だと桐野は思う。
その方法が見つかれば、であるが。
朝鮮への使節派遣を巡る廟議の揺れは、派遣を強く推し進めようとする西郷隆盛に付く自身の進退に関わる。
この議如何がさつきとの関係の決め時になるという、そんな予感が桐野にはあった。
いずれはどうするか選ばなければ。
特に説明もせず独言のようにさつきに告げたが、恐らくそれは遠くない未来だ。
できる事ならその時までにさつきには幾つかの選択肢を用意してやりたいが……少し難しいのかもしれない。
(選択肢、な)
桐野がさつきを抱かない理由はそれもあった。
さつきは桐野の意図のある触れ方に拒否を示さない。
彼女が桐野と共にいるのは屋敷に居場所を作っている桐野への見返りや義務感からではなく、彼女の心が桐野に寄り添っているからだ。
好意がある事は互いによく分かっている。情人に近い関係であるとも思う。
その上で閨で毎晩のように腕の中に閉じ込めて寝て、さつきを抱いてしまうのは簡単だったが桐野はそうはしなかった。
今の状態で一線を越えるのは、何故かまずい気がしている。
確証はない。単なる直観だ。
己とさつきが、特にさつきが望んだ結果として体を繋げてしまえば、彼女が元の世界に帰るという選択肢が消滅してしまうような気がしている。
その思量が桐野の欲を抑えていた。
ただ「あなたを失いたくない」と濡れた瞳で訴えられた時は、言いようのない愛おしさが湧きあがり衝動に身を任せてしまいそうになったが……
寸でで踏み止まった己は本当によく耐えたと思う。
それに同じ布団にくるまるさつきの柔らかな雰囲気と温かな体は酷く気の休まるもので、今暫くこのぬるま湯に似た心地良さの中にいたいという気持ちは強い。それを失いたくないと思う気持ちも。
一個の男としての桐野はさつきを手放したくない。
来た時同様にいきなり姿を消すのか、元の世界にもう二度と帰れないのか、残るか帰るか選べるのか、果たして選択の猶予はあるのか。
何もかもが不透明なままだ。
しかし何かあった時、身動きが取りやすいようできるだけ身軽な状態にしておいてやりたいと思う。
さつきの為だけではない、己の為にも。
いずれにせよ選択を迫られた時、さつきはどうするのだろう。
今応えなくていい、いずれどうするか選ばないといけない時が来る。
桐野は確かにそう言った。
(あれってどういう意味だったのかな……)
選ぶ……何を選ぶ、のだろう。
天秤の片方は間違いなく桐野で、桐野を取るという事……それは即ち”明治に残る”という事だ。
それならもう片方の天秤は”現代に帰る”という事になる。
しかし。
(……帰れるの?)
桐野が確実に何かを選ばなければならない口ぶりで話していたのが気になる。
もしかして現代に帰る方法が分かったのだろうか。
(でも、)
桐野が幸吉や書生を使って帰る方法を探してくれている事を、さつきは知っている。
寝る前にその話になった事も一度や二度ではなく、何かあれば彼はきっと教えてくれる。さつきの知る桐野はそういう所で嘘をついたり隠し事をする人ではなかった。
だから、もしかしたら桐野は自分とは違う選択肢を想定しているのかもしれない。
「違う選択肢、か」
さつきは櫛を胸元から取り出すと天井にかざした。
(プロポーズ……)
まさか櫛にそんな意味があるとは思わなかった。
(別府さん、”お守りみたいなもん”ってなんなのよー)
思わず毒づいてしまうが、櫛の話をした時は別府だって驚いていた。
恋人にもなっていない女にいきなりエンゲージリングはないだろう。
そういう意味では別府の言う通り確かにお守りであったのだろうが……
櫛について聞いた時「それは求婚だ」とストレートに言ってくれなかったのは、それが別府が伝えるべき事ではなかったからだ。
――俺の傍におってくれ。汝を手放しがたい
ふと熱の籠った桐野の言葉を思い出し、
「……傍に、か……ああ、そっか……」
思い至った。
桐野にとっての選択肢は現代に帰る帰らないではなく、櫛を――求婚を受けるか受けないか……桐野の傍にいるかいないか、なのだ。
ふうと息をひとつ落とす。
(征韓論の決着の時が選択のリミットなのかな)
何となくそう思った。多分桐野も同じだろう。
今の段階でどこまで征韓論が進んでいるのか、彼らがどこまで彼ら自身の進退について考えているのかは分からない。けれどさつきは桐野達が近い将来鹿児島に帰る事を知っている。
桐野について鹿児島に行くか。
それとも東京に残るか。
現代に戻る方法が分からないままなら、選択肢はこのふたつになる筈だ。
唇から溜息が落ちた。
「……お酒でも飲もう……」
今の状態であれこれ考えていても仕方ない気がする。
alternative:選択肢、いくつか 2019083120190609