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辺見の帰宅時間がいつもより遅く、「お先にどうぞ」と幸吉に勧められるままさつきは普段より少し早い時間に風呂を貰った。
夏が来るにはまだ間があるが、さすがに風呂上がりは暑く水を求めて廊下を歩く。
炊事場を覗くと夕食は終わったにも関わらず作業をしていた気配があったから、
「志麻ちゃん、いるの?」
と下働きの女の子の名を呼ぶも姿が見えない。桐野に呼ばれでもしたのか今は部屋の方に出ているらしい。

さつきは柄杓を手にすると、甕から水を掬い湯飲みに注いだ。
ごくごくと喉にそれを流し込み一息。
「よし」
着物を襷掛けにすると、出っぱなしになっていた調理道具を片付け始めたのだった。
完璧とまではいかないけれど段々着物にも慣れてきたな、なんて思いながら、膳が幾つか足りない事に気が付いて首を傾げる。
「お酒飲んでるのかな。めっずらしい」
桐野は屋敷では殆ど酒を嗜まない。
なので辺見が帰って来たかもしくは来客かと思い、さつきは片付けを続けた。

そうであったから、もしかしたら見知らぬ人と屋敷内で鉢合わせする可能性があるとは思っていたのだ。
思っては、いたのだが。
声を掛ける事もなく、急に炊事場に入ってきた見知らぬ男にさつきは悲鳴を上げそうになった。
咄嗟に無言で壁にへばりつく。
心臓がバクバクいっているのが自分でもよく分かった。
「………」
だが男はこちらには一向に気付かない様子で、ゆらゆらと水甕へと向かって行った。

(――こ、……怖っ!)

これはそっとここから出て行くべきなんだろうか。うん。出ていくべきだ。客人なのかもしれないがこんなの怖すぎる。
抜き足でゆっくりと歩を進め、炊事場を出ようとした時、

「別府さん!」
「ぎゃっ!」

いきなりの廊下の暗がりからの大声に思わず腰が抜けた。
「こ、幸吉くん……」
ははは、と引き攣った顔でやってきた幸吉に笑いかけると、幸吉も驚いたようだったが「大丈夫でっか」とすぐに手を貸してくれた。

「さつきさんも水いります?」
「私は飲んだところだからいいよ」
「ほな別府さんだけで……ああ、もうほら、あきまへんて。どんだけ飲んだんやこの人……」

珍しい幸吉のぼやきにさつきは吹き出した。
幸吉がこんな事を言うなんてそれなりに親しい人物なのだろう。この屋敷に結構やってくる人なのかもしれない。

「他人事やと思うてるでしょ、さつきさん」
「んふふ。でもこの人、随分飲んだみたいだね。ちょっと待ってて」

さつきは男の背中をさする幸吉を横目に湯飲みに水を汲んでやった。
アルコールを体外に出すなら水分摂取が一番だが、今の状態ではそれも難しそうだ。
見れば、けん、けんと偶に嘔吐く前のような咳をしている。

(水飲むよりお手洗いに連れて行った方がいいんじゃないかな)

それかゴミ袋だ。いやゴミ袋はないから洗面器か。
あまりにしんどいのなら吐かせた方がいいと思うが、女にそんな事をされるなんてこの時代の男性にとっては屈辱なのではないだろうか。桐野や辺見を見ていると余計にそう思う。

(現代の男は軟弱だからなあ……こっちとはエラい違う)

面子やプライドの問題はデリケートな上厄介だ。
それに初対面の男性で扱い兼ねるというのもある。
ただ酔っ払っているだけみたいだし、冷たいが幸吉に頼まれない限り手を出さない方がいいだろう。

「普段はこんな飲み方するお人やないんです。どうしたんかな」
「ふーん……楽しいお酒ではなかったみたいだね。ね、ここによく来る人なの?」
「よく来るも何も……さつきさん、会うた事なかった?別府晋介さん言うて、先生の従弟に当たる方でっせ」
「……いとこ?桐野さんの?」

言うや、覗き込むようにさつきが顔を傾けると別府の瞼が上がり、ふたりの視線が重なった。
ばちりと音がなった、気がした。
じっとこちらを見つめてくるから、さつきも目を逸らせない。
酔い潰れかけている割には意識はしっかりしているようで、目には清涼な力がある。
(似てる、のかな)
意識すると確かに桐野の面影が別府の顔にはあった。

「幸吉」

男に、はい、と答えた少年の返事にさつきも我に帰る。

「今度のはこの女これか」
「いいえ、ちゃいますよ」

言いながらウェッとえずく別府の背を幸吉がさする。

(ん?)
ふたりして静かに言葉の遣り取りを始めてしまったのだが、聞いていてさつきは少し距離を取った。
別府の話す独特の訛りがきつくて内容は理解できなかったが、どうも自分にとっては良くない話のようだ。
別府はさつきに良い印象を持ってはいない。
それ位は分かる。
私この人に何かしたかなと思ったが、会ったばかりでさすがにそれはない。それなら桐野関係か。
(と言っても住んでるだけで……あれ、もしかして住んでること自体が問題?)
それはさすがに困る。問題だと言われても……

と、そこまで思った所で、
「わっ!」
ガッと胸倉を掴まれてしまった。
驚いて相手の顔を見、その瞳にさつきを蔑む色があるのに瞠目する。

あにょにも辺見にも、上手く取り入ったな」
「え、え、何?」
「別府さん!」
「何が目的で転がり込んだ。金か……ゲホッ、ッ……後盾か」
「せやから(ちゃ)うって言うてんのに!」

幸吉の否定は果たして耳に入ったのかどうか、別府は言葉も返さず咳き込みとえずきを繰り返す。
胸倉は相変わらず掴まれたままだったが、その様子にさつきは引き攣った。
これはやばい。

「幸吉くん洗面器!たらい!早く!」
「……う、……ぇっ……」
「え、ヤダ、ちょっと待っ……」

幸吉が悲鳴を上げた。







ぱちりと目を開けると広がったのは見慣れぬ天井だった。
どこだと思い体を起こすと、その拍子で頭に鈍い痛みが走る。
(あぁそうか、昨日は飲んでそいで――)
飲んで、それで。

「……………………」

大きな溜息と共に別府は右手で顔を覆った。悲しい事に鮮明に記憶は残っている。
…………悪酒に呑まれた。何という失態か。
別府が沈んでいると、からりと襖が開いた。

「あ、おはようございます!」

下働きの志麻だった。
手にしている盆にはギヤマンの水差しが置かれていて、別府の傍に座ると志麻が杯へと水を注いでくれた。
どうぞと差し出されて受け取ると、別府は水を喉へと一気に流し込んだ。
志麻は賑やかで明るく物怖じせず、いつもニコニコとして働くので桐野も別府も可愛がっている娘だった。
今もまた笑いながら「二日酔いですね、大丈夫ですか?」なんて聞いてくる。
彼女に昨日の事を何か知っているかと聞いたが、ただ首を振るだけ。
どうやら昨日の失態を知るのは当事者のみのようで、それには少し胸を撫で下ろした。
あの醜態は幾ら何でも格好が悪過ぎる。


顔を洗い口を漱ぐと、朝食が運ばれた。

「兄は?」
「もうお済みですよ〜。別府さん、蜆のお味噌汁と梅干は二日酔いに聞くんですって。しんどくてもちゃんと食べて下さいね。あとお茶を沢山飲んだらいいそうですよ」

別府は感心した様子で相槌を打った。
十六、七の身空でよくそんな事を知っていると思ったのだ。

「違いますよ。昨日さつきさんに教えてもらったんです。別府さん明日きっと二日酔いだからって。お会いになったんですね」
「………ああ。……志麻、あの女大丈夫か」
「大丈夫ですよぅ。意地悪されてませんよ?」
「今はまだな。そいでどんな女じゃ」
「お姉ちゃん」

ん?と志麻を見遣る。

「あのね、お姉ちゃんみたいなんです」
「一緒に話したり出掛けたり。色んな事を知っていて教えてくれるけど、色んな事知らなくて。着物もひとりで着れなかったし、水の汲み方も火の着け方も知らなかったんですよ?でも賄いでご飯作ってくれたりするんですよね」
「手が荒れてるって薬塗ってくれたりもするし。……腕の怪我見て驚かれちゃいました」
「ひとりで出掛けるって言い出した時は、私怖くなって一緒に着いて行っちゃった。物の相場も何にも知らないんですよ?びっくりでしょ?今までどうしてたんでしょうね。でもそれから偶に一緒に散歩に行くんです」

言いたい事を並べていく志麻に、別府の頭には盛大に疑問符が浮いた。何を言っているのかさっぱり分からない。
しかし、えへっと笑う志麻の言葉には裏がないように思え更に不思議に思ったのだが。

「幸吉は?」
「幸吉さんも同じだと思いますよ」
「ソーカ」

益々よく分からない。



別府は昨日間近で見た女の顔を思い出した。
吐く寸前、別府はさつきの胸倉を離したのだ。
襟元が解放された瞬間、恐らく咄嗟だったのだろうが、さつきは自分の着物の裾を掴んで広げて―――
吐瀉物を受け止めた。
幸吉は悲鳴こそ上げたものの、そこはさすがでテキパキと後始末を始めたのだが、またすぐに驚声を上げた。

「大丈夫。今は幸吉くんしかいないでしょ」

汚れた着物を丸めて三和土に置くと、さつきは襦袢だけの姿で別府の背中をさすっていたのだった。
別府は腕を払って拒絶を示したのだが、

「だめ、いいからホラ、全部吐いて。その方が楽になる」

柔らかい声と柔らかい手つきに体が楽になり、そうなると眠気が強くなった。
それを揺すられて、幸吉に促されるままに水を飲み、

「幸吉くん、ここは片付けておくから後は任せていいかな。私がいない方がいいでしょう?」
「……。早よお風呂入ってきてくださいね」

立ち上がった辺りで意識が混濁して、その後の記憶がない。



「…………」
「別府さん?」

兄の趣味だろう、あれはそこそこ良い着物だった。
それを吐瀉物を受ける為に広げるとは。
普通はそんな事はしない。咄嗟に飛び退くだろう。しかも別府は初対面で暴言を吐いた人間だ。
幸吉の言葉を考えても、志麻の言葉を考えても、そして昨日の出来事を考えても、さつきという女はもしかしたら先入観で思うほど悪い人間ではないのかもしれない。

しかしそれを決めるのは実際に自分がさつきがどんな女なのかを知ってからだ。
それでもとりあえずは謝る必要がある。
注がれた茶を飲み干すと、別府は立ち上がった。


down:本日最高に落ち込んだ出来事
ごめんね別府くん……現代人夢主には襦袢=下着という感覚がないので恥ずかしいと思わない。え?この格好恥ずかしいの?そうなの?って感じ 11/1/31110120

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