「桐野さんキツいっす。無理っす。ちょっと近寄らないで」
さつきの物言いに幸吉は驚いて思わず押し黙ってしまったものの、やがて震える口元を押さえて顔を逸らし、ついには後ろを向いて笑い出した。
その様子に「風呂」とだけ言い置くと、桐野は言葉少なに部屋を出て言ってしまった。
「……怒っちゃった……?」
「ぷっ……あは、はっ、大丈夫、ちょっとびっくりしただけやと思います」
びっくりって。そんな風には見えなかった。
「先生もてはるから、女の人に近寄るななんて言われたん、きっと初めて」
あんな顔見たんも久しぶりや、と幸吉は目尻に溜まった雫を払う。
「きついって香水付け過ぎっちゅう事ですよね?きっと水浴びた後、香水瓶持って戻って来はりますよって、ここにおって下さいね」
「幸吉くん、そんな事まで分かるの」
「先生だけでっせ」
いや、それでもすごいと思うのだが。
それから部屋を出た幸吉が桐野と戻ってきたのは、本当にすぐ後だった。
幸吉の言葉通り桐野は手に瓶を持っていて、無言でそれをさつきに突き出してくる。
「石鹸のいいニオイがするのに」
苦笑してそれを受け取り蓋を引き抜くと、ツンとした刺激に襲われた。
「桐野さん、手……」
「ん」
差し出された掌を上に向け手首を露出させる。
(傷だらけ)
桐野の掌は刀を握る手らしく指の付け根の皮が厚く、そして大小の傷に覆われていた。
傷は治癒していても引き攣りがあったり盛り上がったりしていて、しかも左手は中指が途中からない。
斬り合いとか……かつてはしたのだろうか。
それでも何かを傷付け傷付けられる半面で、桐野は何かを守っていたに違いない。
今、さつきを庇護してくれているように。
「さつき」
「あっ……と、ごめんなさい」
促されるように名を呼ばれ、さつきは桐野の手首の内側に瓶の蓋の底を付けた。
付いた液体を人差指で軽く伸ばし、さらにそれで桐野の耳の後ろの付け根をなぞる。
ハイおしまい、と言うと「えらい簡単ですね」と幸吉。
あまりにあっけなかったからか桐野も同様の感想を持ったようだが、手首に移った香りを確認していた。
「すれ違った時に気が付く位の方がいいよ。手首とか耳の後ろは血管が通っているでしょ?香水は温まると香りが立つから、そこに少しだけ。後はハンカチに吹きかけたり、ミストの中をくぐったりだけど」
「ふーん……」
「幸吉くんには私の付けてあげるよ」
桐野らが退席している間に取りに行った化粧ポーチからミニボトルを出し、桐野と同じようにしてやると、
「さつきさん、手ぇ冷たい」
幸吉がくすぐったそうに笑う。
きゃあきゃあ言いながら笑い合うふたりは歳の離れた姉弟のようで、桐野も口角を上げていた。
と、その時。
「御前」
その声に振り向けば、志麻が部屋の入り口で立っている。
さつきは笑って、
「志麻ちゃんも……」
おいでと言い掛けて、口を噤んだ。
志麻の後ろに別府が立っていた。
さつきが従兄らといると知ると、別府は志麻に案内させて居間とは違う部屋に入った。
ここからならそれとなくその様子を窺える。
とはいえ桐野は流石に気が付き一度目が合ったが、従兄は揶揄うように軽く笑んだだけで特には何も。
幸吉とさつきは何も知らずに桐野を交えて話していたが、やがて桐野と幸吉が部屋を出て行き、その後さつきも退室したがすぐに戻ってきて縁側で過ごしていた。
「志麻」
「はい」
「いつもあげな感じか」
「いつもあげな感じですよ?」
別府の真似をしてくすくす笑う娘からはやはり悪感情は感じられない。笑いながら話していた幸吉からも、だ。
桐野は平静と変わらぬ態度だった。
ふむ、と別府は腕を組む。
今なら辺見も、恐らく泊ったのだろう河野主一郎もいない。部屋にはさつきひとりだ。
昨日の謝罪をしに行くのなら今がいい機会だったが、さつきがあのふたりに対してどういった態度を取るのか、それをもう少し知りたいという欲の方が大きくて、別府は席を立たなかった。
そして香水の付け方を説明している女を目の当たりにしたのだ。
さつきが桐野にも幸吉にも同じように接している様子を。
「別府さん、多分ねあの人大丈夫ですよ」
「志麻」
「御前がいてもいなくても振舞いは変わらないし、私みたいなのにも優しくしてくれる。身分とか、ないんですかね」
区別もしないみたいですし、とも志麻は付け加える。
御一新のお題目のひとつは四民平等であったが、その言葉本来の意味に内容は伴わなってはおらず、旧幕府時代よりの身分差への区別は依然として生きている。政府が成立してまだ六年、それも無理もない話であり、またそれが当たり前の社会なのだ。
「……変った女じゃな」
「お会いになられます?」
その声を引き金に別府は腰を上げた。
彼らが朝の挨拶を交わす様子を、さつきは桐野の後ろから眺めていた。
昨日はあの状態であったのだから、別府とは実質今が初対面だろう。そう思って挨拶をしようとしたら、先に桐野に紹介されてしまった。短い言葉で自己紹介をすると短い言葉が返ってくる。
昨日の事もある。
別府は顔を合わせ辛いだろうし、何より悪印象を持たれていたようであったからさつきだって顔を合わせ辛い。
そう思い、
「お邪魔するのもなんなので」
愛想笑いをひとつ落とし、引き止められる前にそそくさと居間を出たのだ。それなのに。
(―――それなのになぜ付いてくる……)
しかも気がついたら先導されていて、先程とは違う部屋の縁側に別府とふたりで腰を落ち着けていた。
何がどうしてこうなった。
正直訳が分からなかったが、別府に逆らえるような雰囲気でもない。
「あの……?」
さつきが声を掛けると、静かに視線がこちらに向けられたが、それもまたすぐに庭先へと移されてしまった。
「……すまんかった」
え、と小さく漏れた声に、「昨日の事じゃ」とまた短い返事が落ちる。
「あー……誰にでもある事ですから」
「否。ほんのこてすまんかった。……色々と。みっともない所ば見せた」
その別府の物言いにピンときた。
謝りたいのはどうやら着物を汚した事に対してだけではないらしい。
昨日の出来事を思い出す。別府が口にしていた事、幸吉と言い合っていた事……
詳細は分からなくても何とはなく想像はつく。
別府はさつきに、「どうやって取り入った」、そう聞いてきたのだ。
知らない間に従兄の家に素性の知れぬ女が住んでいたとなれば、不審に思うのは当たり前だろう。
しかし酔いの勢いがあったとはいえ、初対面の人間に向かってあそこまでするなんて、
(桐野さんの女関係で今までに酷い事があったんだろうな)
そう思わざるを得なかった。
それに、「桐野はもてる」、そう幸吉も言っていたではないか。
きっとさつきが来る前には屋敷に女がいたのだろう。そして面倒事を起こしたに違いない。
「そりゃ心配だよね……」
思った事がポロリと口から落ちた。
さつきから見た桐野は良くも悪くもおおらかで、そうした事について自分からどうこうするような人には見えなかった。
来る者拒まず去る者追わずと言うか、泰然としていると言うか。
女に騙されるような人には見えないが、周りの方が何か起こりはしないかとやきもきしていたのではないだろうか。
「心配?どういう事じゃ」
「え、いや……別府さんが心配してるのは桐野さんに変な虫が付かないかって事かな、と」
桐野さん、地位も名誉もお金もあるみたいだし、変なのに捕まったら大変ですよね。
男のきょとんとした表情に笑いが漏れかけたが慌てて引っ込める。
相手は真剣だ。これ以上事態をややこしくしたくない。
「ああ、そうじゃ」
「で、私は悪い虫じゃないかと」
「ああ」
「……なんと言いますか……まず私は桐野さんとそういう関係じゃないです。桐野さん帰って来ない日もあるし、私に手を出さなくても他に選り取り見取りでしょう?取り入るなんてとてもできませんって。それにここを追い出されたら私、行く所ないんですよ」
篠原の顔を思い出して、さつきは困ったように笑った。
あの時篠原が吐き出させてくれなければ、こんな風には言えなかっただろう。
「家族もいないし……帰る家もないし。なので出て行けと言われても困る。―――だから悪い虫じゃない、悪い事なんてするつもりもないって言いたいところですけど……」
「自分から言うと説得力ないな」
「はは……」
キツい事を言ってくれる。
「でも、実際ここに住まわせてもらうだけでありがたいんです。それ以上なんて」
それ以上なんて、望んでいない。
そこで言葉を切った女に、別府はそうかとだけ返すと黙り込んだ。
言葉でなら何とでも言える。
しかしここまで見聞きしてきた女の情報を総合すると、確かに今までの様な悪い虫ではなさそうに思えた。
だからかもしれない。少し話をしてみようという気になったのは。
「
「?はあ……」
「知らん内に関わった女が屋敷におっても特に気にせん。物がなくなったりしてもな」
「え?はあああ?」
「すっとそん内女は女房気取りで口ば出す、幸吉や志麻を気に入らんちゅうて手を上げる奴もおった」
「え、手……?」
「何故か分からんか。そうじゃな……志麻は汝を姉のごたる言うちょるし、幸吉とはいつもあげな感じか」
先程の事を尋ねれば考える様子もなく頷き返される。
別府はさつきは「区別もしないみたい」という志麻の言葉の意味をそこで理解したのだった。
「汝のようにふたりを見んからじゃ。立場が違う。区別して態度を変えるんが普通じゃ」
桐野の鷹揚さは彼の優しさでもあったが、それは多数に向けてのものであって特別なものではない。
それに気付くと、女たちは幸吉と志麻の存在に気付くのだ。
「特に志麻は
別府の言葉にさつきは同意した。
別府が言うのは顔の造作ではない。志麻の顔の作りは十人並みだろう。
しかし彼女は明るくて表裏がなく気立てがいい。その上いつもにこにこしている。好感を持てる。
だからかわいいのだ。
桐野は彼女をかわいがる。別府も気に入っている。さつきにもかわいがられているようだ。
そしてそれは桐野屋敷に来る客も同じで、志麻はよく小遣いや菓子の類を貰っていた。
特別扱いされない女がそれを面白くないと感じるのは、自分より”格下”がかわいがられることを面白くないと感じるのは、当然と言えば当然なのだ。それが区別されるべき同性であれば尚の事。
「ねえ、あの子所々変な怪我の跡があるんだけど……それは要するに、嫉妬の吐け口って事……?」
許せない。あんな良い子がどうして。
そう続いたさつきの声には怒りが揺れている。
なるほど、これなら幸吉も志麻も大丈夫だと思う筈だ。別府はそう思った。
「――別府さん、そんなのと一緒にされるなんて本当に心外だわ。私は絶対にそんな事しない。それに……桐野さんに頼り切って迷惑のかけ通しだけど、だからこそ人としての分別くらいはあるよ」
「そうじゃろうな」
「え?」
「確かに汝は”大丈夫”そうじゃ」
「昨日はほんのこて悪かこっした。兄がまた変なのに捕まったかち思うと……何じゃ、」
「腹が立った?」
「……ああ」
「完全に酒に呑まれて悪酔いしてましたもんね、もうあんな飲み方しないで下さいね。ちょっと怖かったです」
「……スマン……」
「ついでに言うとあの着物はご臨終しました」
「…………」
「なので一緒に買い物に行って下さいね」
「そいでヨカな?」
「そいでヨカですよ。それで許して差し上げます」
その遠慮のない言い方に片眉を上げてさつきを見れば、
「少し桐野さんと似てますね」
表情が重なって見えたらしい。さつきが声を上げて笑った。
melt:氷解しました
二日酔いの割には元気な別府 110320110125