システム部のサーバー関係のリースと保守で確認したい事があるんだけど、契約書の場所が分からなくて。探すの手伝ってくれない?
同期でもある経理の同僚に頼まれて、いい息抜きだなとさつきは席を立った。
倉庫のスチールラック、脚立に乗って上の方に保管してある該当ファイルをピックアップしては渡していく。
これで全部かと確認して脚立から降りようとした時、寂しくなるなあと零された言葉に首を傾げれば、
「だって如月ちゃん寿退社じゃない」
何という爆弾発言。
さつきは脚立から転がり落ちそうになったが、足元の彼女はそれに気付く事なく書類を確認している。
「式上げたら鹿児島か〜旦那さんの都合じゃ仕方ないけど、もう簡単にお茶しに行こって訳にもいかなくなるねえ」
「あ、うん、ソウダネ」
寿退社、式、鹿児島、旦那。
何を言われているのかよく分からないながらも曖昧に頷いて、ふと左手に視線を移すと見覚えのない指輪が薬指に嵌っていて二度見してしまう。
(何これ何これ、こ、婚約指輪!?)
驚いて顔を上げれば突然くるりと場面が変わった。
(えっ?ここ)
実家の台所、隣には食器を拭いている母の姿がある。
懐かしさと困惑で思わず視線を彷徨わせ、何が起こっているのかよく分からないままさつきは久し振りの母を凝視した。
「じゃあさつきは――さんと鹿児島に行く事になるのね」
「……ええっと、そうな……の?」
「ちょっとそんなので大丈夫なの?」
食器を洗いながら言葉の先を濁したさつきに隣に立つ母は笑った。
「ま、きっと大丈夫ね。良い人じゃない。挨拶もきっちりしてるしお陰でお父さんも上機嫌だし。……今だから言うけど前の子と別れた時はどうなるかと思ったのよ」
トラックの事故もあったし本当に心配したんだから、と言い終る傍から、
「お母さん、さつきもこちらに来なさい」
父の呼び声が聞こえてくる。
「ね、上機嫌でしょう。もう、お父さん飲み過ぎないでよー。――さん、付き合わなくていいのよ」
「片付けはいいから、早くおいで」という呼びかけと、洩れ聞こえてくる賑やかな笑い声に誘われて部屋に入った。
左手を出してという父の言葉のままに手を差し出せば、するっと指輪を外される。戸惑って父を見上げると、
「指輪でなくて、こっちだろう?」
代わりに掌に乗せられたのは見覚えのある櫛。
「えっ、えっ?」
「どこにいてもさつきが元気で、幸せでいてくれたら、それでいいよ」
「そうね、私もそう思うわ。――さん、さつきをよろしくお願いします。さつき、大切だと思う人から離れたらだめよ」
「こっちは大丈夫だし、そっちに行っても大丈夫だから、安心して行っておいで」
ついて行けない展開に櫛を胸元で握りしめた瞬間、今度は部屋がさあっと見知ったカフェの店内に様変わりした。
目の前には数人の親友、そして隣に座るのは――……こちらを見てきた彼は口元に弧を描いたけれど、顔は不鮮明でよく分からなかった。
困惑しながら彼らの間で世間話が進んでいるのを耳にしていたら、
「さつきの事大事にして下さい」
友人のひとりがそう言い出し、すると他の友人達も次々と同じ事を口にし出した。
「さつきを傷つける男は許しません」
「さつきを大事にしてくれる人じゃないと困ります」
「あなたは大丈夫ですか」
親かな?と思うような内容。
隣の――が気を悪くしていないか若干はらはらしながら聞いていたけれど、今までのさつきの恋愛の酷さを知っている友人だからこその心配だった。
思わず涙ぐんで俯けば、隣からそっと背中に手が添えられる。
彼は友人らに答えていたけれど、不思議とその内容も、声すらも不鮮明でさつきの耳には入ってこない。
しかし目の前の彼女たちには言葉が届いているようで、聞きながら相槌を打ち、やがてみんなが満足した笑顔を見せた。
「良かったね、さつき」
「あの人は大丈夫だと思うよ」
別れ際、さつきを取り囲んだ友人が口々にそう言った。
「ありがとう……もう行くね。――さん、外で待ってるし」
「さつき鞄は置いていって」
鞄?と聞き返そうとした途端、鞄の持ち手を肩から抜かれてしまった。
「あ、ちょっと」
手を伸ばそうとすると別の友人に制止されてしまう。
「だめ、鞄は置いていくの」
「え、なんで」
「置いていくのよ」
「彼について行きたいんだよね?なら持って行ってはダメ」
「うん、でも、」
「………は、あ……の…………りだから」
「え?なんて?」
ノイズがかった友人の声を聞き返したけれど。
「ほら、桐野さん待ってる」
「えっ?」
「大丈夫」
「大丈夫だから、さ、早く帰って」
帰って?
疑問を感じた途端にどんっと強い力で背中を押された。
押されたというより押し出された感覚に辛うじて顔だけ振り返ると、友人たちが笑顔で手を振っていた。
「――さつき!!」
突然の大音声に瞼を上げれば、血の気の引いた桐野の顔が目の前にあった。
「……きぃさん……?……」
情況を把握できなくてうろうろと視線を彷徨わせると、途端に抱きすくめられる。
力の強さが尋常ではなかった。
「****!***、******!!」
きつい薩摩の訛。
言っている言葉は分からなかったけれど、桐野が何を言っているかは痛いほど分かった。
ああ、そうだ。
馬の突進に動けなくなった子供を助けようと道路に走り込んだのだった。
ぼんやりと今置かれている状況を思い出す。
周囲で見ていた人々は、桐野は、どれほど肝が冷えただろう。
「あの子は、」
「大丈夫じゃ。今母親が様子ば見ちょる」
良かった。ホッと息を吐く。
「驚かせてごめんなさい……」
「あげな事もう二度とせんでくれ」
「旦那、旅籠に上がって!すぐに医者呼んでくるから!」
「スマン、頼む」
「何言ってんの……うちの子助けてくれた恩人だよ」
桐野の声、そして泣きながら周囲の人間に指示を出している女性の声が何となく遠くに聞こえる。
ボンヤリしている内に桐野に抱き上げられ屋内に入れば、女中だろうか、急いで出てきた女性に奥へと案内された。
「痛む所は」
「ないよ」
「腕は」
「?何も……」
恐らくほんの僅かの時間、一瞬だろう、意識を飛ばしていただけだ。
痛みもなく、どこかを怪我しているような感じもない。
しかし問答では納得できないのか、桐野は「触るぞ」と一言置いてさつきのジャケットを脱がせた。
掌を右の肩と腕に特に念入りに滑らせて、さつきの反応を見ている。
「痛くないか」
「うん」
「馬が汝が肩に掛けちょった鞄を蹴り上げた」
あの大音は人力車と馬車がぶつかった音だった。
驚いて馭者の手を離れてしまった馬車馬が暴走してきたのが、ちょうどあの時。
辻を曲がった先で急に飛び出してきたさつきに更に驚いた馬が本能的に避けようとしたのが幸いしたらしい。そのまま進めば子供とぶつかる進路が少し右に反れた。
馬は左前脚で、子供をかばってしゃがみ込んださつきが右肩に掛けていた鞄を下から上へと蹴り飛ばした。
上手い具合にそれだけがピンポイントで持って行かれたらしい。
桐野が右側ばかりを気にする理由が分かった、のだけれど。
「その鞄、馬が蹴った瞬間に消えた」
「消えた?」
「跡形なく、宙で消えた」
――だめ、鞄は置いていくの
――置いていくのよ
――彼について行きたいんだよね?なら持って行ってはダメ
――この鞄は、あなたの身代わりだから
「あ……」
目尻から頬へと雫が線を引いて落ちていく。
「さつき?おい」
さつきの正面に座った桐野が若干焦った様子で声を掛けてくる。
額を桐野の肩に預けるとボロボロと涙が零れた。
あの時馬に蹴られていたら、恐らく自分が現代に帰っていた。
「…………」
白昼夢の様な、幻覚の様な、……多分あれは、幸せな現代の現実、だった。
事故には遭ったようだけれどそれで死んだのではなく、また行方不明になったのでもなく、あの様子だと恐らく現代にも自分は存在している。明治にいる自分とはまた違う自分が。
何だかあっちとこっちの自分が入り混じっていたようだったけれど……、そう思えただけでも酷く安堵した。
家族にも友人にも、誰にも心配も迷惑もかけていないのだと思って。
自分がここにいても問題ないのだと思って。
(だから皆明治に来た私に安心して行っていい、早く帰れって言ってくれたんだね……)
「……きぃさん、私ね、さっき元の世界に戻ってた。たった一瞬だけど」
桐野が瞠目する。
「親も友達もきぃさんの事良い人だね、良かったね、この人は大丈夫だと思う、から、大丈夫だから、ここに帰れって」
「本当は私、今日元の世界に戻る筈だったんだと思う」
「でも、私の代わりに馬に蹴られた鞄が戻っちゃったみたい」
代わりが鞄って酷くない?
泣きながら笑うと桐野が静かに目元に唇を寄せた。
「帰れんくなって可哀相かち思う。が、悪い……俺はそれ以上に喜んじょる」
苦い表情でいる桐野の頬に触れる。
「両親に会えたし友達にも会えた……もうそれだけでいいよ……」
「……ああ」
「父は大丈夫だから行けって、友達なんて早く帰れって言うのよ?私追い出されてきちゃった」
戻った所だったのにね、と震える口元で小さく笑う。
「貴方の、傍にいてもいい……?」
言葉無くぐっと抱き寄せられ、唇が重なった。
離れがたくて、もう少し、もう少しとせがむように背中に手を回せば、そのまま先に進むような雰囲気になってきたが、
「お姉ちゃん……」
「「!」」
桐野共々びくっと体が跳ねたのは許して欲しい。
障子を少し開けて声を掛けてきたのはあの女の子、おなつだった。
(あ、危なかった……)
場所を完全に忘れていた。
顔を見合わせて、ふたりで苦笑いしてしまった。
the point of no return:もう戻れない。オペラ座の怪人の名曲。2019092120190612