旅籠の主人と女将には泊まってくれと重ねて懇願されたけれど、それは丁重に断った。
今日はできれば慣れた所で休みたい。
呼んでくれた医者にも特に問題なしと太鼓判を押され、夕飯だけを御馳走になり上野の屋敷へと帰る事になった。
「何かあったら力になるから、遠慮なく言って」
「祝言の時は呼んでね」
女将には特に力を込めて言われ、おなつからはこっそりと耳打ちされて、おませな子だなあと思いながらも手を振って宿を出たのだった。
帰って早々辺見と幸吉、志麻には今日あった事を伝えた。
そして恐らくさつきはもう元いた世界には帰れないだろうという事も。
皆一様に驚き、悲しんでもくれ、……
「さつきさんと一緒にいられるの嬉しい、嬉しいけど」
志麻が泣き出してしまった。
確かに喜ぶべきか悲しむべきか、複雑な所なのは分かる。
辺見も幸吉も微妙な表情をしていた。
「ありがとう、志麻ちゃん。大丈夫だから……明日からもよろしくね」
笑って言えば、こくこくと頷かれたけれど、
「本当に無茶するの止めて下さい……」
併せて泣かれてしまい、
「暴れ馬の前に飛び出すなんぞ無茶苦茶じゃ」
「ほんまですよ」
辺見と幸吉にも同様に諭されてしまった。
これで別府に話が伝わったら一体何を言われる事だろう。今から頭が痛い。
次第に心配と説教と愚痴が入り混じり始めた彼らの話に、さつきは傍に座る桐野に視線を流したけれど、ただ苦笑が返って来るだけで。
ちゃんと聞いておけとでも言う様に顎をしゃくられてしまった。お小言はこちらの若者チームに任せるつもりらしい。
その様子にさつきも釣られるように苦笑しながらそっと睫毛を伏せた。
打算や下心、利害損得関係なく彼らがさつき自身をただ純粋に心配してくれている事、大切に思っていると伝えてくれる事がとても嬉しかった。
ストレートな優しさに包まれるのは少し気恥ずかしかったけれど、酷く心地が良くて小さく笑うと、
「さつきさん、ちゃんと聞いてます?」
ジト目で窘めてくる志麻に桐野が思わずといった風に吹き出した。
書生たちにも告げてくる。
伝えておかねば明日も出掛ける書生が出るだろうから。
そう口にして立ち上がった桐野について行こうとして制止された。
「もう時間が遅い」
さつきからは明日でいい。
礼だけ言えばいい様に俺から言っておく。
そう薩音で告げると先に風呂にでも入れと言いおいて桐野は居間を後にした。
幸吉と志麻もそれに続き、さつきも一旦部屋に戻ろうと腰を浮かしかけた時、
「さつき、待て。ここに座れ」
辺見が目の前の座布団を指差した。
話しにくい内容なのだろうか。
辺見が少し考え込む様子を見せたのでさつきも彼を急かさずに待ったのだけれど、暫くの沈黙の後辺見が言い放った言葉は、
「すまん。こげな時にどんな言葉を掛けて良いか、俺には分からん」
相変わらずの直球だった。
「帰れたかもしれんに、汝、元ん所に親御も友も……全部置いて……」
「簡単に良かった、とは、言えん」
だが真剣に心配してくれている。
この話で一番に親身になって考えてくれるのは、……
新宿でさつきを拾って桐野邸に連れてきてくれて以降、一番に親身になって考えてくれていたのは、きっと辺見だ。
辺見は優しい。
いつだって本当に優しかった。
その優しさにこれまでどれだけ助けられてきたか。
さつきは目の前に座る男に胸の奥が温かくなるのを感じざるを得なかった。
「手、握ってもいい?」
返事を聞く前にさつきは辺見の手を両手で包み込んだ。
「さっきは話さなかったけど私ね、ほんの一瞬元の世界に戻れたの」
「本当か」
驚く辺見にさつきは点頭する。
「そこで両親にも友達にも会えた。それに仕事も問題ないみたいで……大丈夫だから明治に帰れって、大事な人から離れるな、きぃさんが待ってるでしょって背中押されて」
「……じゃあ汝、」
「帰ってきちゃった」
心の底から『元の世界に帰りたい』とだけ思っていたら、明治に残るという選択肢はそもそも無かったのだろう。
現代に『帰りたい』ではなく『戻らなければ』と思い始めていた時点で、さつきの中で桐野を想う比重が大きくなり過ぎていた。
帰れとみんなにしつこく言われたのは多分それがあったからだ。
さつきはそう思う。
「……汝は馬鹿じゃ」
「うん」
「戻れたのに。二度と会えんかもしれんのに……桐野さぁを選ぶんじゃな」
「これで良かったのか分かんないし、本当は怖い、けど……向こうでみんなハンコ押したみたいに大丈夫っていうの。良かったね、大丈夫、だから早く帰れって」
「………………」
「だからここに帰ってきたの間違ってないって、大丈夫だって、信じる」
ぎゅっと眉を寄せた辺見は少し俯くと、長く長く息を吐き出した。
「汝が困った時は助けてやる」
「私も辺見さんが困った時は助けてあげる」
辺見は目をぱちくりとさせたけれど、やがて弾けるように笑った。
さつきの両手の上に空いている手を弾ませると、
「もう行け。長く引き止めた」
俺も部屋に戻る。そう言って立ち上がろうとした辺見の腕をさつきはぐっと引っ張った。
軽くよろけた辺見にぎゅうと抱きつくと、その頬に軽く口付けた。
「おいっ」
がばっと両手で体を引き離され、
「あはは、そんなびっくりしないで。……ね、辺見さん、」
珍しく顔を赤くしている辺見にさつきは大きく笑った。
「私、辺見さんの事好きよ。きぃさんとは少し違うけど……あのままお別れにならなくて良かったって思ってる」
「…………」
「いつも……、いつも優しくしてくれてありがとう」
言葉と共にぽろりと片方の目から涙が転がり落ちた。
辺見は口をへの字にしたまま、ごしごしとさつきの目元をこすってくる。傷だらけでかさついた無骨な指だった。
「痛いよ」
くすくす笑えば「今のは」と聞き辛そうに確認されて。
「大好き、ありがとうって」
「そうか」
うん、と言う前に辺見の唇が頬に触れた。
「………………」
「桐野さぁには言うなよ」
真っ赤じゃな、悪戯が成功した子供のように笑う辺見の肩にさつきは拳をぶつけた。
under the rose:内緒話。ひめごと、みたいな。 2019092720190613