44:moratorium




「ん、おいしい」
さつきが作った夕飯の汁物に志麻のお墨付きが出た。
「志麻ちゃんにそう言ってもらったら安心するわー」
「えー?」

台所で女ふたり、きゃらきゃら笑いながら食事の支度をするのはもう随分前からの日常になっていた。
全く客人と女中の様子ではなく、ありゃ姉妹じゃなあ、いつだか別府がそう言っていたけれど、屋敷にいる誰もがそう感じているようだった。
さつきと一緒にいられることを桐野の次に喜んだのは志麻だったかもしれない。

「最近は温かいものがおいしいねえ」
「もう十一月も目の前ですし」

水の冷たさは身に染みるし、朝は起きるのが辛くなってくる。
現代に比べてまともな暖房器具がないであろう明治の冬には恐怖しかない。

「私冷え性なんだよね……寒いと寝れない……」
小さく零した愚痴に志麻はきょとんとして笑った。
「でも御前、温かそうじゃないですか」
「んんんんん!?」

ナチュラルに吐かれた言葉に思わず顔が半笑いに引き攣った。

(いや、確かにそうなんだけど……そうなんだけど……)

桐野とは志麻たち屋敷内の人間が想像しているだろうところまでは進んでいない。
多分誰も信じてくれないだろうし、第三者だったら自分だって信じない。
でも本当に一緒に寝ているだけだ。

暗黙の了解というか……ふたりとも自制が効いていると言えばそうなのだろう。
これだけ近い距離にいて、我慢している。お互いが。
とは言えさつきが現代へ帰らなかった段階で「桐野といる事」が桐野の中に残る事になるとさつきは思っていたのだ。
それが……

(やっぱり征韓論がどうなるか引っかかってるんだろうな)

そうは思うが、もう十月も終わりに近づいてきている。
あと二ヶ月で明治六年は終わる。

……。
…………。
征韓論て明治六年だったよね?

何だか記憶が疑わしくなってきた。
征韓論は明治六年だったと思うけれど、西郷隆盛や桐野らが帰鹿したのが明治六年内だったかどうかまではさつきは知らない。

「どうかしました?」
掛けられた声になんでもないと首を振り、ふと志麻の顔に視線を留めた。
確か志麻には病気の父親がいた筈だ。まだ幼い妹弟も。
この子が突然解雇となったらどうなるのだろう。

「志麻ちゃん、お父さんは……ご家族は元気?」
「元気ですよ〜。父も御前に紹介して頂いたお医者様のお陰ですっかり良くなりましたし。今は働いてます」
「そっか」
聞いてホッとした。
いきなり路頭に迷うという事にはならなさそうだ。

「……さつきさん、寂しいですよね」
しかしさつきの心情など知りようもない志麻は違う風に取ったようで、口調のトーンが落ちている。
無用な心配をさせてしまったと悪く思いながら、「大丈夫よ、ありがと」、さつきは志麻に笑顔を向けた。

「志麻ちゃんはどうやってこのお屋敷に来たの?」
聞けば前の御店の主人の紹介だった。志麻にはきっとここが合うと連れて来てくれたのだという。
みんなそんな感じなのだろうか。

「働き口は私みたいな紹介もありますけど、口入屋に頼むこともありますよ」
聞き慣れない単語だったが、仕事の紹介を頼む所ですと言われ、そういう所もあるのかと相槌を打った。

桐野が鹿児島に帰るのなら、志麻の次の勤め先を探してやらないといけないだろう。
志麻には家族がいる。家族を置いて桐野については行けないだろうから。
それに……
志麻だけじゃない。他にも数人女中がいるし、書生だっている。
彼等の行先は見つけてやらないといけない筈だ。
この屋敷の中だけでも桐野の肩に多くの人生が乗っていることを改めて実感する。

「これでも……」
「ん?」
「これでも最初はどうなる事かと思ったんですよ?最初は鬼の棲家に放り込まれたみたいで怖かったし」

志麻の口ぶりに思わず笑ってしまう。
鬼の棲家って。

「色々ありましたけど……私、ここに来られて本当に良かった。さつきさんにも会えたし」
そういって笑う様子に不覚にもキュンときてしまった。
「私も志麻ちゃんに会えて良かった」
志麻と幸吉がいなかったら雪緒との騒動は乗り切れなかった。
それだけじゃない。
明治に来て以降、年下の彼等の親身親切がどれだけさつきの支えになっていたか。
「会えて良かったって、心から思ってるよ」
微笑と共に告げると志麻の視線がすいと外される。
おやと思っていたら、

「さつきさん、あの、一回、一回だけ」
「ん?」

「……お姉ちゃん……」

蚊の鳴くような声で呼ばれた途端、「ぎゅってしてもいい?」、さつきの口からはそんな言葉が零れていた。
「え、わ、」
返事を聞く前にぎゅうぎゅうと目の前の志麻を腕の中に閉じ込める。

「やっばいすっごい嬉しいこんなかわいい妹どこ探してもいない」
「………」
「ホントもう……大好き志麻ちゃん」
「わ、私も……」

「……」
「……」

どちらともなく吹き出して、大きな声で笑ってしまった。





「上機嫌じゃな」
そろそろ寝る準備でもと、寝具を引き出していると桐野に声を掛けられた。
「志麻も随分と機嫌が良さそうじゃったな」

嬉しい事でもあったかと目を細める桐野にさつきは笑い返した。
幸せだと思う。周囲の人に恵まれていて。
そして自分と同じ様に自分の回りにいる人も幸せであればと思う。

桐野の手を引いて布団の上に座らせると、
「はい、寝ましょう」
「まだ早いぞ」
桐野は苦笑したけれど、
「いいからいいから。ボンヤリする時間ってね、案外大事なんです。きぃさん少し疲れた顔してますよ」

今日はもうごろごろしながらボンヤリしましょう。
そう言い、枕を手元に寄せようとして、
(やっぱり膝枕なの)
膝に乗る重みに笑ってしまう。

桐野の手を取りツボを押していく。
さつきは目を閉じてされるがままになっている男の顔を見つめた。
一緒にいて緊張が解けるというのなら、少しでも休んでほしい。せめてこの空間にいる時だけでも。
少し疲労の陰が見える様子にそう思う。

(アロマとか緩いBGMでもあればいいんだけど)
気分も変わるだろうしと思ったところで、薄暗いヒーリングルームで俯せでマッサージを受けている桐野の姿を想像し、笑いそうになった。なんか違う。

(BGMかあ……)
明治に来た当初はウォークマンも使えたし、庭の草引きをしながらよく歌っていた事を思い出す。
そこでひとり泣いていたのを見つけてくれたのは篠原だった。
あの時歌っていたのは何だっただろう。
少し考えて、ああ、あれだと細い声で口遊む。

―― 君の休まる場所に戻っておいで
―― 変わらない笑顔で、明日も恙無く過ごせるように

そんな歌詞の歌。
帰れない事が不安で泣いたあの時と、桐野の癒しの場になれたらと思う今では、同じ歌に抱く想いがまるで違っていた。
片手で桐野の頭を撫で、襖の模様を眺めながらゆるゆると歌っていると、下からの視線を感じて口を噤む。

「どうしました?」
「……汝の手は優しかな」
「?」
「落ち着く」
「私もきぃさんの傍は落ち着きますよ」
口元だけで笑った桐野は、空いた手を持ちあげるとさつきの頬に軽く触れた。
「寝るか」

突然体を起こした桐野に驚きのけぞって、さつきはころんと後ろに倒れ込んだ。
「ちょ、もう、きぃさん何すんですか」
そのままのしかかってくる桐野に、ぱしぱし胸元を叩きながら笑えば桐野も声を上げて笑う。

「今晩も寒かな。一緒に寝てくれるか」
「それ毎晩聞いてきますけど、断れるんですか?」
「ふふ」
「きぃさんが寝てくれっていうから、仕方なくですよ?」

分かってます?と続けようとした口はそのまま塞がれ、さつきは桐野の背中に両腕を回した。
それでもやっぱりキスまでだ。

(いいんだけどな……)
手を出されるのを待っているというのも何とも言えない気分で、横に転がった桐野を眉を下げて見つめる。
桐野はまださつきに選択肢を残してくれていて、
(優しさ、なんだろうな)
そうは思うのだが、さつきからするともう選ぶものなどない状態なのに。

「……我慢の鬼かな?」
「あまり男を揶揄うと痛い目に遭うぞ」
「やだこわーい」
「汝は……」 


そんな筈はないと分かっていたのに、なんとなくこんなぬるま湯のような時が続くのだと思っていた。
次の日にいきなり状況が変わるだなんて、思っていなかったのだ。




moratorium:モラトリアム期間 
#は中孝介の「家路」。2019100420190617

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