辺見からの使いを名乗る男が息急き切って屋敷に来たのは昼過ぎの事だった。
幸吉と共に玄関先で対応したさつきには彼の早口の薩摩弁は分からなかったが、大体予想していた事、幸吉の顔色の変っていく様子に、その時が来た事を理解した。
「……さつきさん、大丈夫でっか」
「あ、うん、大丈夫。ちょっとびっくりしただけ」
まさか今日って思わなくてと続けた言葉を、「え?」と聞き返されたけれど。
「ごめん、何でもない。きぃさんも陸軍辞めて薩摩に帰るって……みんなに知らせないといけないけど、きぃさんの帰り待つべき?」
本来なら桐野から伝えるべき事だろうけれど、周知しておいた方が桐野帰宅後の話の通りが良い。
どうせすぐに分かる事だ。
「さつきさんに任せます」
「ん、分かった。幸吉君は何か後始末とか……やらないといけない事があるんだよね?こっちは任せて、いいから行っておいで」
ぺこりと頭を下げると、幸吉は屋敷の奥へと走り去っていった。
いち早く桐野の動向を知らせてくれた辺見の気遣いは、本当にありがたかった。
桐野から聞かされる前に自分が何をすべきか考える時間がある。
きっと幸吉も同じだろう。
は、と息を吐いて、吸って。台所へと足を向け、奥で水を汲んでいた志麻に声を掛ける。
どうしました、と手を拭きながらこちらに来た志麻を上り框に座らせると、
「志麻ちゃん、よく聞いて」
さつきはその前にしゃがみ込んだ。
「きぃさんが陸軍辞めて薩摩に帰る事になった」
大きく見開かれた双眸に、嘘じゃない、と頷く。
「私も詳しくは知らないけど、きぃさんここのところずっと政治向きの話で動いてたみたい。西郷先生側に立って」
「西郷先生……」
「先生、政治での喧嘩で敗けちゃってもう政府辞めるって。それできぃさんも一緒に」
「さつきさん、……さつきさんは?」
「私はきぃさんについてく」
ぎゅうっと志麻の眉が寄せられる。
「今生の別れじゃないよ」
さつきは笑ったけれど、薩摩なんて遠過ぎます、と泣き出しそうな声で反論されてしまい、さつきは無言で志麻の震える背中をさすってやった。
「昨日言ったことはホントよ。どこにいても志麻ちゃんは私の大切な友達で、妹」
「それは私だって同じです……」
いびつな笑顔を向けた志麻に笑いかけながら、さつきはその頭を撫でてやる。
「大丈夫、大丈夫」
「うん……うん、大丈夫」
志麻は思い切ったようにぐいと手甲で頬を拭うと、にっかりと笑った。
本当に強くてかわいい子だ。
「やらないといけない事、ありますよね」
さつきはひとつ頷く。
「みんなにはまず私から話すから、女中さんたちを居間に呼んできてくれる?書生ちゃんたちは私が呼びに行く」
「はい」
ボンヤリしている暇はない。
夕方、玄関口のざわめきに桐野の帰宅を知る。
桐野を取り巻いて口々に情況を聞いている書生たちを肝付が窘め、ぞろぞろと一群が居間へと流れていく。
そこで話をするようだった。
その様子を見て、一応とお茶の準備をしていた志麻をさつきは止めた。
今は邪魔しない方がいい気がする。
「それより、ちょっと来てもらってもいい?」
志麻を連れて自室へと向かうと、さつきは自分のキャリーバッグを開けた。
携帯用のアクセサリーケースからネックレスとピアスを取り出して志麻の掌に乗せてやれば、
「きれい」
その唇から溜息と共に言葉が滑り落ちる。
「ダイヤモンドよ」
だいや……?と繰り返されて、
「ダイヤモンド。ここでは金剛石って言うんだよね?」
「えっ」
わたわたとこちらに向かって手を差し出してくる様子につい笑ってしまった。
返そうとする手を両手で包んでそっとダイヤを握らせると、志麻は戸惑っていたけれど。
「志麻ちゃんに持っていて欲しいの。お守りだと思って持っていて欲しい」
「……」
「それでね、何か困った事があったらお金に変えなさい」
驚いた顔でこちらを見てくる志麻に、だからお守り、とさつきは笑う。
宝石類は舶来物なので非常に高価だと桐野から寝物語で聞いていた。
「でも、でも」
「あなたに持っていて欲しいの」
「………」
ね?と首を傾げれば、志麻は困ったように笑って承諾してくれた。
「じゃあ……その代わりさつきさん、ひとつだけお願いしてもいい?」
帰宅するなり書生らに取り囲まれた。
見兼ねた肝付が青年らを桐野から引き離し、幸吉に言いつけて居間に誘導させる。
帽子を手挟み首元をくつろげると、桐野は傍に残った肝付の顔を正面から見つめた。
「官を辞める。ただ汝は残れ」
「はい」
「勉強を怠るな。軍人としての本分を尽くせよ」
言葉なく頷いた青年の背中を、桐野はどんと叩いた。
「書生と女衆に話ばして、行先を見つけてやらんとな」
「桐野さぁ、そん事ですが……」
そこで肝付が続けた話に桐野は目を瞠ってしまった。
聞けば日中に第一報を聞いたさつきが彼等を集めて状況の説明をしたのだという。
桐野が陸軍を辞めた事、薩摩に帰る事……ただ内情には何一つ触れず、口にしたのは事実のみ。
本当に近い将来、彼らの居場所がなくなる事を告げた。
話は薄々聞いていてもいきなり居場所がなくなるだなんて、彼らにも寝耳に水だったに違いない。
「騒いだか」
「騒ぎが起こる前にさつきさんが纏めました」
「ほぉ」
「いきなりこんな事言われて不安しかないと思う。でも、今できる最善の事をしよう」
そう言って、さつきは書生たちには自分を書生として受け入れてくれそうな、また受け入れてもらいたい先達の名前と自分の売り込み文を書かせ、女中たちにも同様の事をさせた。
「書けたら見せて」
文字が読めない所は口で説明させ、言葉が不足している所は助言して書き足させる傍らさつきが別紙に箇条書きで要点を書き落としていく。
「お給金の事とかはごめんなさい、私には分からない。でも行先の希望くらいは、みんな言いたいでしょ。桐野さんの勝手で放り出されるんだから」
居間に集められた大人数に漂っていた悲壮感が、その一言で爆笑に変わった。
「これです」
桐野に渡してと頼まれていたようで、肝付が紙の束を渡してきた。
さっと目を通せば、各々の筆跡の一枚目にさつきが認めた要点があり、書き主の簡単な来歴とどういう所に行きたいのかが、一目で分かる様になっている。
またさつきから見た彼ら彼女らの性格の美点等も書かれていて、桐野が一言添えればこれだけで立派な推薦状になる代物だった。
「さつきは……否、まず書生と女中か」
「はい」
向かった居間には書生が、その後ろには女中が既に集まっている。
彼等の顔を見渡して口にした、
「俺の勝手で放り出すことになってスマン」
その一言目に全員がどっと笑った。
sudden change:急転 2019101120190618