「悪いが、あまりぐずぐずしとられん」
明日の未明に屋敷を出るからそのつもりでいてくれ。
そう宣言した桐野にさつき、志麻、肝付が頷く。
本当はその日の内に屋敷を出ようと考えていたらしい。
しかし思いの外書生や女中との話が長引いたので予定を繰り延べたようだった。
……そうではあったのだけれど。
さつきは昨日までと同じように桐野の居室で、昨日までと同じように他愛ない話をしていた。
やっぱり膝枕で、明日早暁にこの屋敷を離れてしまうという実感がいまいち湧かない。
そんな事を頭の片隅で考えていると会話が途切れ、どうしたのかなと思っていると、
「さつき、俺に言いたい事はなかか」
突然の問いだった。
「言いたい事?」
「あるじゃろうが」
「んー……好きですよ?」
首を傾げながら笑って言えば、桐野が身を起こす。
「急な事で悪い」
(なんだそんな事か)
……とは、流石に言えなかったけれど。
「男の人が進退を賭けているのに、そんな事で謝らないで下さい」
それとも謝らないといけないような事したんですか?
そんな事ないでしょう、そう続けてさつきは微笑んだ。
「それより志麻ちゃんや……女中さん、書生の子たちの事を気にしてあげてほしいの」
立つ鳥跡を濁さずだ。
桐野の評判が悪くならないようにしてほしいし、どうせなら気持ちよく別れた方が良い。
桐野は暫く黙っていたけれど、やがて長く息を吐いた。
「……汝のそげん所には救われる。書生も女中も同じじゃろうなあ」
囁きのような言葉を拾いきれなくて聞き直したけれど、桐野はただ笑うだけだった。
「汝のお陰で女中も書生も笑うちょった。俺によか所紹介しろち。希望書はなんじゃあれ、全員高望みしすぎじゃろ」
汝が唆したんか、と片眉を上げて言われて、さつきは声を出して笑ってしまった。
桐野も口の端を上げて笑う。
「今日は本当に助かった。兼行と幸吉が感心しちょったぞ」
「きぃさんは?”助かった”、だけ?他には何も思わなかった?」
「ん?」
「……東京に残るかって聞くくらいですもんね。残るって言ったら置いて行ったの?」
ふいっと視線を逸らし、
「きぃさんが傍にいてくれって言ったのに」
わざとらしく拗ねて見せた途端、酷く嬉しげに破顔して近付いてきた桐野に瞳を閉じる。
何度か角度を変えて唇が重なり、
「確かめるか。俺がどう思うちょるか」
耳元で囁かれ反射的に桐野の着物を握り締めた。
「……一緒に寝てくれるか」
「断れる?」
「はは、無理じゃなあ」
笑いながら即答され、夜具に押し倒されるようにして寝かされる。
首筋、頬、目蓋と唇が滑り耳朶を食まれると微かに声が漏れた。
「抱くぞ」
そこは断言するんだ。
「”抱いていいか”じゃないんですか」
片手で器用に帯を解き、寝巻きを割くように肌の上を這う桐野の手がくすぐったい。
体を捩りながらくすくすと笑えば、ぱちりと視線が重なり目の前の双眸がゆったりと細まる。
「抱いていいか」
「棒読み!」
けらけら笑う口はすぐに塞がれてしまった。
残された七日は新宿のあの旅籠に泊まった。
桐野は日中は出払っていた事が多かったけれど、特にする事もないさつきは旅籠の娘や一緒に玉川上水に行った子供たちの相手をしたり、顔を見せに来る幸吉や志麻の相手をした。
辺見と別府は帰国する前に顔を見せに寄ってくれ、篠原国幹を頂点とする薩摩の近衛兵が雪崩を打つようしてに辞めたと教えられた。
「気を付けて帰って。またすぐに会えるよね」
笑って別れたけれど、さつきとしては複雑な気持ちになるのを禁じ得ない。
(大挙して鹿児島に帰るって、やっぱり戦争に繋がるのかな)
上水の土手で遊ぶ子供達をぼんやりと見守りながら、桐野不在の時に考えるのはこの事ばかりだった。
多分歴史の流れ通りに進んでいる……のだろうとは、思うのだけれど。
迂闊にも桐野と引き返せない仲になってから確かめた事があった。
国許に奥方がいるのでは、自分は愛人になるのでは、と慄いて。
桐野は結婚していなかった。
この時代、桐野の年齢、地位の男性に妻がいないのはかなり珍しいのではないだろうか。
こっそり幸吉にも確認したが、桐野には婚姻歴がなかった。
かなり遊びはしていたようだけれど、特定の座だけはぽっかりと空いていたらしい。
「先生、さつきさん来るの待ってたんちゃいます?」
なーんて、幸吉は笑っていたけれど。
何となく、違和感。
併せて幸吉に聞いたけれど、桐野にはそれまで決まった恋人もいなかった。
「それは幸吉くんが知らないだけでは」
ぼそっと最後の抵抗かの如く言ってみたけれど、それはないとはっきりと言い切られてしまった。
そう言えば先日来てくれた別府も似たような事を言っていた。
女性関係のみ、すぱんとそこだけ抜き取られたような不自然さが桐野にはある。
流石に”史実”上の桐野が結婚していたかどうかまではさつきは知らないけれど……していたと考える方が普通だろう。
(ひょっとして歴史が部分的に変わってる、とか)
ふと現代での別れ際、父が言ってくれた言葉が甦る。
――こっちは大丈夫だし、そっちに行っても大丈夫だから、安心して行っておいで
そっちに行っても大丈夫だから、安心して。
あの言葉、<さつきが明治に行っても現代の方は問題ないから大丈夫>と捉えたけれど、あれは……
(現代の方は大丈夫だし、明治に行っても私には問題ないから大丈夫、って意味じゃない?)
桐野に妻がいたり、明治に残っても数年で死に別れになるという話だったら、親も友人も強引に帰れと言わなかった気がする。
「あー……そっか……」
”大丈夫”なんだ、多分。
奥さんの事も、戦争の事も。
そう思うと何かがストンと収まる所に落ちた気がした。
(パラレルワールドってやつかな……)
非現実的だと思うけれど、自分がここにいる事自体がファンタジーなのだ。
何があっても驚かない。
さつきはジャケットのポケットに入れっぱなしにしていた小石を取り出すと掌の上で転がした。
暫くそれを見つめていたけれど、
(バイバイ)
口の中でそう呟いて、スナップをきかせて草むらへと投げ入れた。
恐らく自分はもうこの世界の異物ではなくなっている。
「おねえちゃーん!お迎えが来たよー!」
女の子が大声を上げて手を振り、それを合図に子供たちがわらわらと迎えに来てくれたらしい桐野に走り寄っていく。
桐野の後ろには幸吉と志麻の姿も見えていて、ふたりも一緒に来てくれたようだった。
ぱたぱたと草を払いながら立ち上がり、自分もそちらへと向かった。
「何を捨てた」
「石投げただけだよ」
遠くから見ていたらしい。
隣を歩く桐野に問われさつきは軽く答えたのだけれど、
「それだけでんなかろう」
桐野にじっと瞳の奥を覗かれると誤魔化すことは難しかった。
こういう時の勘は鋭いから参ってしまう。
「不安、かな」
「不安?」
「……うん」
「………」
分からない?と聞こうとして口を噤んだ。
桐野には分かる筈のない不安だし、抑々到底話せる内容ではない。
(………)
桐野の視線は変わらずこちらに注がれていて、逃がしてくれる気のなさそうな様子にどうしようかと思ったけれど。
不安抜きの、今思っている気持ちだけを桐野に伝えようと思った。
「要するにね」
「ん?」
「これからもきぃさんと一緒にいたいって事」
歩く桐野の前に回ってその両手を取った。
大きな声だったから子供たちも振り返ったし、周囲の通行人もちらちらとこちらを振り返っている。
「あー手繋いでる!」
「ホントだ!」
子供らが周りで騒ぎ立てる中、目を丸くしてこちらを見てくる桐野にさつきは笑った。
「きぃさんの事、私が幸せにしてあげる」
「大きく出たな」
くっとおかしそうに笑った桐野が軽く腕を引いたので、さつきはつんのめって目の前の男に抱きつくような恰好になってしまった。
「何するの」
見上げて笑いながら文句を言っていたら、
「あ、落ちた」
「お姉ちゃん落ちたよ」
弾みでジャケットから落ちた櫛を子供が拾ってくれた。
女の子たちが集まって、拾ってくれた子の手元を目をキラキラさせながら見ている。
「はい」
どうぞと延ばされた手にありがとうと受け取ろうとしたけれど……
櫛は桐野の手に収まってしまった。
正面に向き直られて、何だか改まった雰囲気に体が固まってしまう。
「さつき」
「は、はい」
「受け取ってくれるか」
櫛と共に差し出された言葉。
喜んで、と答える前に子供達とこちらの様子を固唾を飲んで注視していた通行人たちの黄色い声に包まれた。
おしまい!
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break through:ブレイクスルー
201910252019/6/24