あの頃を思うと桐野はよく江藤から聞いた言葉を思い出した。
――守られたいのではなく守りたい
本当にそうだ。
さつきはさつきのやり方で、桐野とその周囲を守ろうとしていた。
「私贅沢したいとは思ってない。きぃさんの今までのお給金もあるし、私も英語で現金収入あるし、生活費はどうとでもなるよ。だから上野のお屋敷の売却費は触らないでおこう?」
「東京に残った子通じて翻訳しないかって話が来てるんだけど、受けていいかな」
そうさつきが言い出した頃には医学校兼病院から月給が払われるようにもなっていた。
だから残っている纏まった金は、もっと必要な時、必要な場面で使えとそう言われた。
動きたい時に資金がないのが一番まずい、貧すれば鈍するよ、と。
桐野は帰郷後も政府が払い続けていた陸軍少将の給与を返納していたし、維新の功績で与えられた賞典禄も明治七年六月の私学校設立の為に手放していた。
開墾もすぐに成果が出る訳ではなく、その状態で開墾に関わる若者らを預かってもいたのだ。
さつきにとって最初の一、二年は様々な意味で苦しい時期であった筈だ。
それなのに。
「ここで喚いてないで、東京がどうなってるか見ておいで」
「行って頭を冷やしてきて。どれだけ自分が時代遅れか分かるから」
「帰ってきたら報告書を桐野さんに出しなさい」
寄れば政府への不平不満と大言壮語を口にする若者らに、現実を見てこいと旅費を叩きつけて有無を言わさず送り出したり。
彼らが読んでいた新聞の偏りを指摘して、複数の新聞を取り寄せて読み比べをさせたり。
外の世界に興味を持ったり学ぶことに積極的な者には本を与え、また医学校から借りてきて。
費用はさつきの自腹だった。
その当時、彼女は自分の報酬の殆どを預かっている若者に費やしていた。
「そこまでさつきさんがする必要あるんでっか」
幸吉に聞かれた時、
「そうだね……でも、今あの子たちの教育費を惜しんじゃいけない気がする」
「あの子たち視野は狭いし外の世界知らないのに、調子のいい強い事ばかり言って得意になって……怖いよ、この雰囲気が凄く怖い」
「こういう空気、勢いがつくと簡単に暴発するって。とても抑えられるようなものじゃなくなってたって江藤さんが言ってた。だから少しでも変えたいの」
「あの子たちが何か起こして、きぃさんが責任取らなきゃいけないような事にだけはしたくない」
「まあ、きぃさんなら大丈夫だと思うし、私がこんな事考えてるって分かったら怒られそうだけど」
だからきぃさんには黙っててね、と笑い、
「……でも何があるか分かんないし、できる事はしておきたい」
「外の世界を知ればあの子たちも少しは変わるだろうし、世界の中心は薩摩じゃないって分かると思う。私はその後押しがしたいって思ってる」
そう続けて答えたさつきに幸吉が驚いていた。
「じゃ、じゃあ今までの……先生の為……?」
「ついて来たのに私、家事にしろ何にしろ満足に出来る事がないからねえ……足引っ張ってばっかで。せめてできる事できぃさんの事助けたいんけど」
どこまで役に立ててるんだか。
「な、何言うてんの、そんなんできる人他にいると思てるのん!?」
「……んーどうだろう……ごめんね、幸吉くん」
思春期の君に、もっと潤いのある生活をさせてあげたいのに。
「……私の事はええんです……」
「良くない。私幸吉くんの事も大切なんだよ」
「でもさぁ……ご城下見てたらもっと怖くなるの。幸吉くんも分かるでしょ?目を三角にして、意見が違う人吊るし上げて押さえつけて……私学校の子たちがやってる事は無茶苦茶だよ。元々ああいう学校じゃなかった筈なのに」
「…………」
「あっちなんだよ、本当にどうにかしなきゃいけないのは……でも私じゃどうしようも」
「先生に言うてみる?」
「何か方法考えてみる……ああ、でも方法って言ったって」
盗み聞いた訳ではない。後に幸吉から聞かされた訳でもない。
それは本当に偶々聞こえただけの会話だったのだが。
――君の身を案じていた
――薩摩が佐賀の二の舞にならないか、酷く心配している
――守られたいのではなく守りたい
さつきと従僕の会話にふと江藤の言葉を思い出し、桐野もまた衝撃を受けたのだった。
(……帰郷した時は守ってやらねばと思うたんじゃが)
事実、桐野はさつきを守っていたけれど。
その一方で桐野自身も意識しないままにさつきに守られてもいたし、支えられてもいた。
桐野を好きで幸せにしたい。
その一心でただ桐野の為だけにさつきはここまでの事をしていた。
(ああ、これは本当に先に置いては逝けん)
らしくもなく、心が震えたのだ。
私学校については確かにさつきでは関われないし関わるべきでもない。関わらせるつもりもなかった。
ここから先は己の領分だ。
桐野は開墾地を吉田に置くのと同時に私学校とは距離を置いていて、直接的な関係を持ってはいない。
たださつきと同様に、少し離れた所から見ていて生徒の振る舞いに眉を顰める事が多くなっていたのは確かだ。
(関わり方を考え直すべきかもしれんな)
それに私学校と生徒の在り方の方向性を見直す時に差し掛かっているのかもしれない。
そう決めた後は早かった。
私学校の主幹である篠原国幹と村田新八、主な関係者に桐野が見る現状の問題を伝えると、意外にもすんなりと受け入れられたのだった。彼らもまた生徒を持て余すところがあったらしい。
これからどうしていくかについては、私学校党に与しなかった桐野の親友も喜んで参画してくれた。
驚く事に大の反西郷党であった旧藩主系の要人までが知恵を貸してくれたのだが、これには情報共有をし、路線棚卸に賛同もし後押ししてくれた西郷隆盛も驚いていた。
それだけで私学校の生徒がどれほど粗暴であったのか、思うと頭が痛くなったけれど、
「雰囲気が凄く怖い」
このさつきの言葉の意味は痛いほどよく分かった。
参集した要人たちが意見を交えて判明したのは、私学校の事だけではなく、針を刺せば弾け飛びそうな不満や鬱憤がどこにもかしこにも溜まっていた事だった。
このまま放置していたらどうなっていたのか。
それは全員が各々の立場で感じた事だったのだろう。
「とにかく一旦穏やかに纏めた方がいい」
犬猿の仲であった各派の、それが一致した意見となった。
「きーさん、ご城下の雰囲気最近何だか変わったねー」
「ソーカ?」
「殺伐とした感じ薄くなったかな?前は若い子たち殺気立ってて凄く怖かったかったんだけど……何かあったの?あといつ行っても辺見さんいなくて寂しい。どうしてるのかな」
辺見は自分が手を上げて先導して私学校党生徒の説得に当たり、難しい所には西郷に助力を請うて燻る不満を丁寧につぶしていた。
その間幾つかの士族の反乱が起こり、その度に薩摩の不穏が唱えられたけれど……
その頃にはもう薩摩の空気は随分と落ち着いたものになっていた。
そうした落ち着きは政府への対応にも反映されていった。
だんだんと当たりが柔らかになる様を政府高官は訝しんだけれど、国家の出先機関である鹿児島県庁と警察から問題ない旨、私学校党の路線変換の経緯を知らされ、政府は対立ではなく融和へと舵を切った。
元は同胞なのだ。
それに薩摩はいまだに国内最強と言われる軍事力を擁する、半ば独立国でもある。
争わないに越した事はない。
ただ数年に亘り国家権力を鹿児島県が――県政を牛耳っていた私学校党が――無視してきた事は事実で、その責任は誰かが取らされることになった。
「じゃあ六年に辞職して帰ってきた人たちはもう公職には就けないってことなのね。それで西郷先生ときぃさん、篠原さん村田さんは隠居して表に出てこない事」
ひとつ頷く。
「………あの、なんか……私が言うのも何なんだけどさ……優しすぎない?政府的にはそれでいいの?」
桐野は笑ってしまった。
後ろで控えていた幸吉も釣られて吹き出していたが、さつきが微妙な表情になるのは無理もなかった。
実際にはお咎めなしに近い寛容な処分であったからだ。
政府が考える最悪の結果になる前に、薩摩が自ら内部抑制を掛けた事が最大の評価点だった。
維新の功臣も多く、中でも維新最大の功労者である西郷を一際愛していた聖上が丸く収めるようにと口添えをしてくれたとも後々に伝え聞いた。
それに西郷や桐野らが帰国後も払われていた給与を全額返納していた事が政府側の心証を良くしていたらしい。
「ただ一度上京する。そいでこってり絞られてくる」
「絞られるの?」
「……気が重か」
「あっは、あはは」
桐野の前ににじり寄り、桐野の両手を取ってさつきは笑っていたけれど、それを額に当てるとやがて赤い唇からは嗚咽が漏れて、すぐに静かに泣き出した。
「……よかった……それだけで済んでよかった……っ……」
「……ああ」
「私はもう……あなたなしで生きていくのは無理です……」
桐野だってさつきがいない生活などもう考えられなくなっていた。
隣を歩く女をちらりと見ると、重なった瞳がゆるりと細まった。
本人曰く、保つ努力はしている、そうだが、残念ながら耳に近い頬の部分にうっすらと小さなシミが浮いてきている。指摘すると気にしそうなので言わないが。
ただ同世代の女と比較すると、さつきは遥かに若々しかったし美しかった。
年齢を告げると大体において酷く驚かれる。
取り立てて美人という訳ではなく本当に至って普通の顔立ちなのだが、明治十一年頃からだろうか、さつきに会う人間会う人間が、
「きれいになったか?」
そんな事を言うようになった。
よく顔を合わせる辺見や別府でさえ言い出すようになっていたので、驚いた覚えがある。
「そりゃあまあ……あ、あ、愛されてますから……?」
「なんじゃそりゃ」
「聞いといて呆れないでよ辺見さん……何の心配もしないで怖い事もなくて、ただ好きなだけでいいっていうのが、その、初めてで、なんか知らない内に籍まで入ってたし、」
「お、おう」
「……幸せなの……」
さっきまで笑って照れていたのに、突然ぽろぽろ泣き出した女に辺見は相当ぎょっとしたらしい。
焦った辺見に大きな声で呼ばれ、何事かと足を運んだ桐野も流石にぎょっとしてしまった。
姿を見るなり泣きながら抱きつかれたら誰でもそうなるだろう。
「大好き」
室に小さく響いた音に辺見が無言で笑って席を外したけれど、さつきと話していた事は帰り間際に教えてくれた。
――きぃさんの事、私が幸せにしてあげる
そう宣言されたのはもうかなり昔の事だ。
あの時桐野は大きく出たなと笑ったけれど、それは本当に実現されてしまった。
そしてさつきも、桐野の隣にいて同じように感じている、らしい。
同じ気持ちでいられる事、その事自体が得難い幸せだと思えた。
こんな事、さつきを得る前には思いもしなかったのに。
こちらを見て顔を赤くして、裏返った声で話していたさつきの姿がおかしくて笑った昔が懐かしい。あれは初めて会った時の事だった。
その女がここまで大切な存在になるとは思わなかった。
ここまで己とその周囲を変えてしまうとは、本当に思わなかった。
「利秋さんどうしたの?」
呼び方がきぃさんから利秋さんに変わってからもう随分経つなと思いながら、桐野は絡んだ腕を外すとさつきの手を取った。
「やだ、恋人繋ぎ……」
「嫌か?」
恋人繋ぎとは一体何かと思いながら問えばきれいに破顔された。喜んでいる。
どうせ暗くて見えないのだ。これぐらいは良いだろう。
そう思ったところで、
「ねえねえ東京で稚児趣味って流行ってるらしいよ。薩摩趣味って言うんでしょ?私たちそれに見えるんじゃない?」
私今日スーツだしさ、知らない人が見たらきっと凄く妙だよね。
真顔でそんな事を言うさつきに、桐野は勢いよく吹き出した。
今も昔も、苦しい時でもそうではない時でも、さつきがいて笑わなかった事はないと思う。
「そ、そんなに笑わなくても」
「汝とおるとほんのこて退屈せんな」
「どういう意味ですか」
くすくす笑いながら、ふたまわり程小さな手を握りしめると柔らかく握り返された。
「遠回りして帰るか」
「……うん」
隣に浮かぶ笑顔を見て、いつも何度でも思うのは江藤が伝えてくれた言葉だった。
「君は果報者だな」
(江藤、確かに俺は果報者じゃ)
おしまい
Butterfly Effect 3:バタフライ・エフェクト。ほんの僅かな動きが後に大きな影響を及ぼす事。
稚児趣味(男色)は明治20〜30年の時期に東京で大流行しました。(memo&res20191227)
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