「広瀬!ずるいよ、俺だって会いたかった!」
「俺も会いたかった……」
帰途桐野に会ったと竹下財部に話した途端に非難を浴びてしまった。
自分が彼らと同じ立場ならやっぱり同じように不満を零しただろう。そう思う広瀬は、
「スマン、でも本当に偶然だったんだよ……」
そうとしか言えなかった。
兵学校の門限までにはまだ随分間がある。
自然と足が向いた銀座で三人、ぶらぶらしながら桐野の話や桐野から聞いた話を口にしてあれこれと感想を言い合っていたら、
「あ、あれ……さっきの」
財部が目敏く見つけた。
桐野利秋の奥さん。
「どうしたんだろう。手元の紙を見ながらキョロキョロしてるけど……」
迷ったのかなという竹下の一言に広瀬が、「さつきさん!」、声を上げた。
手を振れば振り向いた顔に笑みが刷かれる。
「広瀬くんさっきはありがとう。利秋さん楽しそうだったし、しっかりしてるって褒めてたよ。竹下くんも財部くんもさっきはお邪魔してごめんなさいね」
柔らかい微笑と共に掛けられた言葉に広瀬の頬が軽く紅潮する。
それを横目に財部と竹下が、
「あ、いえ……」
「俺たちも桐野先生にお会いしたかったです」
言い募った不満にさつきが、やだ利秋さん大人気、と声を上げて笑った。
「それはとにかく……迷われましたか?」
「そうなの」
ある雑誌社に行きたいのだが、最近移転してその引越し先がよく分からないという事らしい。
ここなんだけど分かる?と住所を認めたメモを見せられた三人は道案内を買って出た。
「雑誌社へは……」
「お仕事です」
仕事?と跳ね返ってきた言葉にさつきが笑う。
「こう見えて働いてるのよ私」
聞けば子供向きの物語の翻訳をしているのだという。
いつもは郵送でのやり取りで済むのだが、年に一度はどうしても対面で話がしたいと要望されて上京する事になっている。それで今肝付邸に泊めてもらっているのだと彼女は言った。
「本当はひとりでって思うんだけど、いつも利秋さんが一緒に来てくれて。過保護だなあって思うんだけど」
「…………」
「…………」
「…………」
「ふたりきりでいられる事あまりないから……それもいいかなって思うの」
そう言って笑う様子が酷く嬉しそうで三人は思わず赤面してしまう。
照れ隠しに「……そろそろ着きます」と竹下が掛けた言葉に、「今日はまだ時間ある?」と問われ首を傾げると、
「一緒に行かない?」
*
勉強になると思うよ。
そう言われて着いて来た雑誌社で三人は唖然としてしまった。
(英語ぺらっぺら)
(おお)
(凄いな)
目の前の女性は外国人の男相手に物怖じする事なく意見を述べ、また質問し、たまに冗談を差し挟んでは笑っている。
少し離れた場所に与えられた席からその様子を呆気に取られて見ていると、雑誌社の社員が凄いだろう?と笑いながら茶を注いでくれた。軽く頭を下げる。
「如月さん鹿児島の田舎の方で子供を教えてるんだろう?もったいない話だよなぁ」
(ん?如月?)
(旧姓か?)
「そうなんですか」
「なんだ君たち知らんのか」
少し意外な顔をされたのだけれど。
「あれだけ平気でしかも英語で外国人の相手できる人間なんて、男でもそうそういない。翻訳もこなれていて読み易いと評判がいいし……」
「そうなんですか」
「しかも官僚や軍人に妙に知人が多くてなあ、海軍なら今度大臣伝令使になった山本権兵衛って分かるか?あんなのも知り合いなんだよ……あの人脈は正直欲しいし、それに女だと珍しいからウチの目玉にもなる。政経部門が欲しがって何とか東京で仕事して欲しくて随分説得したし、強引に話を進めたんだがなぁ……」
「……どうなったんですか」
――あ、じゃあ他の方にお願いして下さい
住む家の手配や会社での籍など、容易に断れないような、普通なら断らないような環境を勝手に整えたのだ。
しかしそんな好条件をあっさり断られて、却って雑誌社側が慌ててしまったのだという。
「理由?ああ……旦那と一緒にいられなくなるのは嫌だってさ。じゃあその旦那もと誘ったが」
――無理ですね
笑って即答。
「…………」
「…………」
「…………」
後釜を見つけて誌面を埋めたもののどうにも上手くいかず、結局鹿児島でもいいからと頼む形でやってもらっていると男は溜息交じりに吐き出した。
「そこまでの価値があるのかねえ、その旦那サマ」
呆れたように肩を竦めた男はさつきの夫が誰なのかを知らなかった。
(そりゃ旧姓使うよなあ)
確かに黙っていた方がいいだろう。色んな意味で。
少し調べれば分かりそうなものだがと思ったけれど、彼女の知人たちもややこしくなりそうな事を思って口を噤んでいるのだろう。賢明だと思う。
「君ら、本当に彼女に上京するよう勧めてくれんか」
真顔でそんな事を言われ出した頃に向こうでの話し合いが終わり、ほっとしてこちらも解散かと思いきや、
「時間まだある?大丈夫ならお茶飲みに行こう」
誘われるまま甘味屋に入った。
好奇心から三人には目の前に座る女性に聞きたい事が山ほどあった。
桐野とどうやって出会って結婚したのか、英語はどこで、どうして翻訳を。
矢継ぎ早の三人の言葉にさつきが笑う。
「私ね、迷子になっていた所を辺見さん……知ってる?辺見十郎太さんに拾ってもらったの」
「迷子?」
「うん。辺見さんが桐野邸に連れて行ってくれてね、利秋さんがそのまま私の事預かってくれて。え?口説かれた?誰に聞いたの、そんな話」
兵学校の学生さんでも恋愛話に興味あるのとさつきがくすくす笑う。
「凄かったのよあの人。どうしようって思うぐらいグイグイ迫ってくるし、強引だし。そんな時に征韓論で薩摩に帰るってなってね、ついて行っちゃった。その時には私も大分絆されてたし……もう一緒にいるのが自然な感じだったかな」
「桐野先生に口説き落とされたって」
「本当だったんですね」
「……桐野先生がさつきさんは自分にはもったいないと言っておられました」
「え?」
三人の言葉にさつきは一瞬キョトンとしたが、
「でもあんな強引なの、相手に気がなかったら犯罪だよ……」
照れを誤魔化すように餡蜜を口に運ぶ姿は若い娘そのもので、三人は(この人本当に母親世代かよ)とドギマギしてしまう。
んんっと竹下はひとつ咳払いすると、おずおずと尋ねた。
「あの、強引ってどんな……」
*
「…………」
「…………」
「かわいい人だったな」
兵学校への帰り道、ぼそりと呟いた財部に竹下広瀬いずれもがああと返す。
「凄いな。桐野利秋が本気で奥さん口説いてた」
「うん」
「口説くというか既成事実の積み重ねじゃないの」
「……うん」
風呂に入ってきたり、屋敷にいる全員の前で抱きしめられたり。
聞けばこちらが赤面するような話ばかり。
桐野が目茶苦茶モテたという逸話は三人とも知っていて、黙っていても女は寄ってきただろうに屋敷にいる女にそこまでするというのは、一体どういうことだろう。
適当に近場で遊んでいたのか、本気で手にするつもりだったのか。
今がその結果なら答えは明らかだ。
「何かの物語みたいだな」
竹下がくすくす笑いながら言えば、
「気がなければ犯罪って言ってたけど、気が付いたら入籍してた、は確かにそうだな」
聞いていて一番驚いたのはそこだった。
「は?入籍?」
「気が付いたら結婚してた?」
「そうなの。びっくりしない?」
さつきは笑っていたけれど、三人ともがぱかりと口を開けて唖然としてしまったのだ。
「明治十年にね、あの人正式に陸軍を辞めたの。その時に色んな書類整理してて……」
偶然桐野の戸籍を目にしたのだ。
そうしたら。
「…………」
「如何した」
思わず黙り込んでしまったさつきに桐野が声を掛けた。
「……きぃさん、私『妻』になってるんだけど、私たちいつ結婚したの……?」
しかも明治六年だ。もう四年経ってる。
入籍の日付は征韓論で桐野が官を辞した時……官を辞すと言って上野の屋敷に帰って来た日、さつきが桐野について行くとはっきり告げた日だ。
あれは夜だった。
という事は桐野はさつきの答えを聞く前、帰邸前に籍を入れていたという事で。
「私が行かないって言ったらどうするつもりだったの?」
「攫って行ったな」
「私に拒否権は」
「あると思うか」
ですよねー。
「私がきぃさんのこと好きじゃなかったらどうするつもりだったの?」
「汝な俺に惚れちょったで問題なか」
「…………」
「それよりもうきぃさんは止めにせんか」
え、と顔を見ると柔らかい苦笑が返ってくる。
「汝も"きぃさん"じゃろうが」
さつきが桐野を名前で呼ぶようになったのはこの時からだ。
知らない内に入籍だなんて正直かなりヘビーだとしか思えないけれど、さつきは酷く嬉しかったらしい。
「それまで四年も五年も一緒に暮らしてたのに変に思うかも知れないけど、私が好きな人が、出会ってそんなに経ってない頃にそこまで私の事を好きになってくれたっていうのが本当に嬉しかったの」
今でも少し信じられない。
そう口にして照れたように笑う女性は本当に母親と同じ世代なのだろうか。
「……でもあの後桐野先生が現れたのは驚いた」
「うん」
話している内に少し上にずれたさつきの視線。
「汝はまだそげなこっ言うちょるんか」
背後からの呆れたような声音に振り返れば、
「桐野先生」
(えっ)
(桐野利秋!?)
広瀬の声に竹下と財部は背後に立つ男を二度見してしまった。
「さつきの守りバ頼んで悪かな」
「あ、」
「え、い、いえ……」
「先ほどはありがとうございました」
ふたりの肩に手を置いた桐野はゆったりと笑い、立ち上がった広瀬に簡単に返事をすると空いていた隣席の椅子に腰をかけた。
「ここで利秋さんに会うと思わなかった」
その男を見つめながら、両肘を机につき組んだ手の上に顎を乗せてさつきはニコニコしている。
桐野は知人を訪ねた帰りに土産でも買って行くかと立ち寄った銀座でさつきの姿を見つけたのだと口にした。
「皆さんお元気でした?」
「何故さつきを連れてこんかったかち言われたぞ」
「じゃあ私も明日お邪魔しようかな……」
微笑いながら二言三言言葉を交わす様子は夫婦というより、
(恋人……)
(恋人だな)
(うん)
結婚して十四年経っているらしいが一緒にいる事に新鮮さを失っていないように見える。
―― 言っておくが妾でもないぞ。そんな事口が裂けても言えん。
(そりゃあ……そうだろうな)
そう、三者三様に思ったのだ。
数時間前に聞いた肝付の言葉。それが嘘でも大袈裟でもない事が見ていてよく分かった。
「さて」
ふと漏らされたさつきの声にどうしたかと意識を戻すと、
「竹下君に財部君、利秋さんに聞きたい事とかあるんじゃないの?三対一なんてこんな機会滅多にないよー?」
結局桐野に「門限は大丈夫か」と苦笑されるまであれこれと思いつくまま話を聞いて、気が付けばもうかなりいい時間になっていたのだ。
言われるがままご馳走になって、店の前での別れ際には薩摩に寄る機会があれば訪ねてくるようにと約束させられて。
「君たちが艦隊勤務になる頃の艦長さんとか副長さん、薩摩の人だったら多分知り合いだと思うし」
その人たちに声かけてからなら問題ないだろうし、みんな誘っておいで。
ていうか艦長さんと一緒に来たらいいよ。
桐野と相談もせず、事も無げに言って寄越す様子に少し驚いて。
一時とは言え彼女の夫は薩摩の中心にいたひとり。顔も広いだろうし、その所在を知っていて屋敷を訪問する人間も多いのだろうけれど……
奥方はそういう所では出てこないのが普通なのだ。自分たちの母親世代――桐野の年代の奥方ならば尚更だろう。
肝付は彼女を「変わっている」と言っていたけれど、これは確かに変わっている。
しかし、
「”不思議と嫌な気分にはならない”」
「”まあこの人なら”」
財部と広瀬がなぞった肝付の言葉に、そうだねと竹下も笑った。
さつきから英語の話を聞いていた時に返ってきた言葉を思い出す。
「外国語はね、読み書きできて、外国人と話せるようになるのがゴールじゃないよ」
言葉はそれを使う国や地域の物の考え方や文化、人間性をダイレクトに知るツールになる。
どういう思考回路で、どう話を進めていこうとするのが西洋人なのかを知るよすがになる。
それが分かれば必要以上に西洋人を恐れる事も、ありがたがることもなくなる。
彼らも同じ人間、考え方が違うだけの、同じ人間だって分かるから。
「ほら、敵を知り己を知れば……って言うでしょ?あれだよ」
少なくとも餡蜜を食べながら女性がする話ではない。
それをさらりと口にして笑う様子に、三人ともが目を瞠ってしまった。
「だからね、三人とも頑張りなさい。そういうレベルに到達できるように。英語だけの話じゃないよ。今は分からなくても今習ってる学問はきっとこれから君たちの支えになる。学問に振り回されるんじゃなくて、学問を振り回すの。そういう風に勉強するのよ」
「だから、しんどくても頑張りなさい」
別れ際にもう一度同じことを言ってくれた女性の顔を思い出し、
「……また会いたいな」
竹下が小声で零した。
桐野にもさつきにも聞いてみたい事がまだ沢山ある。
「うん」
「そうだな」
「広瀬は手紙書く?」
住所を聞いていた友人に竹下が尋ねれば肯定が返ってくる。
「後で俺にも住所教えて」
「あー……俺も」
「後俺もう少し座学も頑張る」
「うん」
「竹下について来て良かった」
財部の独り言に、
「俺もついて来てくれて良かったと思う」
竹下も同調した。
ひとりだったら桐野ともさつきとも会えていなかった気がする。
「俺もそう思うけど……急いで帰らないと門限に間に合わないかも!」
「え?」
「うわ、本当だ」
門限の遅刻は連帯責任だ。自分たちが遅れると他の同期も懲罰を食らう。
急げ、と大股で歩き出した広瀬に財部と竹下も続いた。
Years After:14years after
気が付いたら入籍してた\(^o^)/ 20191122