「私たちも行こうか」
兵学校へ帰って行った三人の姿を笑って見送って、ああと答えると自然な動作で腕がするりと組まれる。
視線を落とせば、顔を覗き込むようにしてこちらの反応を見ていたさつきの唇が三日月を描いた。
「少し歩くか」
さつきが言い出す前に桐野が言ってやれば、隣を歩く顔が喜色に覆われた。
腕を絡ませて歩くなんて、顔を知られそれなりの立場がある薩摩では難しい。
それはさつきもよく分かっていて、薩摩を離れた地、雑踏や夜道を歩く時だけの要求だった。
彼女が元いた世界では男女が腕を組んで歩くのは当たり前の事だったのだろう。
そう思うと桐野は決まって上野に屋敷を構えていた頃、ただ一度だけ手を繋いで帰った時の事を思い出す。
些細な望みを叶えた事をさつきはとても喜んでいた。
ひとりで上京すると言うさつきを桐野は今まで一度も許した事はなく、必ず同行した。
薩摩にいてはできない事をできるだけ叶えてやる為で、過保護だなんだと口では文句を言う癖に、一緒に行くと言うと嬉しそうに笑うさつきを見るのは桐野の楽しみのひとつになっていた。
明治六年に薩摩に帰ってからの生活はさつきにとっては不自由なものだっただろう。
桐野はそう思う。
帰鹿後は市中から離れた田舎に拠点を置き、官を辞めた薩南の健児を纏めて指導する事が急務で中々席が温まる暇がなかったし、さつきを連れて帰ったものの、桐野の立場上祝言のような祝事が許される雰囲気でもなかった。
「仕方なかとは言え女からすっと、なあ……」
可哀そうだ。
話している時に何かの拍子でそう零された別府の言葉は、そのまま己の言葉でもあったのだが。
たださつきはこうなることを想像していたのか、意に介する様子がなかったのが驚きだった。
悪いと謝った時、さつきには謝らないでと逆に驚かれ、
「そう思ってくれてるのが嬉しい」
「一緒にいられるならそれでいい」
ただ笑うばかりで。
「そんな事より今はさ、薩摩にとって何が一番いいのかをみんなで考えないといけない時なんでしょ?」
真顔でそう重ねられた時、この女に惚れたのは間違いではなかったと心から思った。
東京から連れて帰ったさつきは、帰国当初周囲からは距離を置かれていた。
それは国元の女とは明らかに違う容姿であったり服装であったり言葉のせいで。
さつきの話し方は山の手言葉に近かった為、御一新で落ちぶれ身売りした旗本だか御家人だかの娘を桐野が落籍せたのだろうと噂されていたのだった。
「きぃさん私ヤバイみんなが話してる事全然分かんない大体分かってたけどこれは想像以上ここ外国?陸の孤島?私漂流したのかな?」
「……」
「みんなばーっと話して返事待ってるんだけど分かんなくて首傾げるばっかりで返事がないって何か言う前にどっか行っちゃうし私すっごく感じ悪くない?」
「お、おお……?」
「京都生まれの幸吉くん君はどうして分かるのかな!?」
「えっ、こっち来た、なんで今こっち来たん関係あらへんことない?」
「そんなこと言うのはこの口か」
笑って幸吉の頬を引っ張っていたけれど。
さつきが薩摩弁を解さないのをいい事に、面と向かって悪口を叩く人間はいたのだった。
ただ言葉は分からなくても、悪い事を言われている事位は表情や話し方、態度で分かる。
桐野の目の届かない所で、どうせ体を売る女だろうなんて酷い言葉を口にする輩もいて。
「さつき」
「平気平気、気にしないで」
平気な訳がない。
それにこういう時のさつきの”平気”や”大丈夫”が全く信用できない事は、雪緒の件を通してよく分かっていた。
さつきは苦笑していたけれど、あの時の二の舞をするつもりはない。
本腰入れて早い内に締めるか。
事態が好転したのは、そう思い対応しようとした矢先のことだった。
市街地の遠方に開墾地を求め、吉田村に旧知の山下孫兵衛を頼った際、桐野は挨拶にさつきを伴った。
「ねえきぃさん、あそこのお嫁さん、赤ちゃん連れてうちに遊びにおいでって呼んであげられないかな」
青い顔で泣き止まない乳飲み子を抱き、屋敷の軒先をうろうろしていた若い女。
山下家の嫁を指してさつきがそう言い出したのは、その帰りの事だった。
「あの子、夜泣きできっと寝てない。その上家の事もしてるんだよね?赤ちゃん泣くたびに疲れた顔でおろおろして見てられない。私分からない事が多いから、それを教えて欲しいとか何とか言って……お願いできないかな」
そして家に来させた女にさつきがした事は、彼女から子供を取り上げて寝かせる事だった。
「寝て」と言われた女は驚いて簡単には頷かなかったけれど、最終的には小さく礼を口にして諦めたように横になっていた。
子供を抱いて上野の屋敷とは比べ物にならないほど粗末な家を出る。
泣き声が届かない所までぶらぶらと、開墾予定地を見に出掛けると言った桐野の後をついてきた。
「少しお母さん休ませてあげようね、お利口さん」
ぐずる小さな背をさする様子に違和感がなくて思わず視線を流せば、
「……産んだことないよ?」
きっぱりと言われてしまった。
「親戚の赤ちゃん預かったりもしてたからねー。こっちだとお嫁さん逃げ場がなさそうだし……嫁ぎ先だと気を遣ってしんどそうだね。あの子ちょっとノイローゼっぽいよ」
よく分からない単語を聞き返せば、
「んー……何て言うの?心が凄く弱ってるって言うか。神経衰弱?少し休まないと身がもたないよ」
お母さんも人間だもんねえと泣き疲れて寝入ってしまった赤子に頬ずりして、赤ちゃんの匂いがすると笑っていた。
二時間ほどして帰ると、女の顔色と表情は桐野の目から見ても明らかに違っていた。
その日は一緒に食事をして、甘いものを食べさせて帰したのだが。
「二、三日に一回でいいからおいで。いいね?」
さつきが言い含めてから女を受け入れる事何度か、その内ふらりと家に顔を出した山下翁に桐野は丁寧な礼を述べられた。
曰く、嫁の様子が随分と変わった。
それに合わせて家の雰囲気全体が明るいものになったらしい。
どうしたのかと聞き出せば、桐野宅を訪れている間は寝て、さつきと話をして、余裕があれば一緒に食事を作って。
言葉は分からないだろうにじっと話を聞いてくれる年上らしいさつきが姉のように思えて来て、訪問するたびに疲れていた気持ちがふっと緩まる。
「しんどかったら休んだらいいし、もっと適当でいいよ……あ、これお家の方には内緒の方がいいのかな?」
と笑って、
「誰かに助けてって言っていいんだよ。私は経験ないけどさ、赤ちゃん、かわいいけど大変な時だってきっとあるよねえ」
背中をさすりながら掛けてくれた言葉に涙が零れた。
迷惑じゃないからいつでもおいで、嫌なら話さなくてもいい、寝るだけでもいいから。
そうも言われて塞ぎ込んでいた気持ちが少し軽くなったのだと。
そう思ってさつきを見ると、周囲からは江戸者だ遊女だと言われて余所者扱いされていたけれど、……
それは違うように思えた。
訪ねてくる桐野の知人との接し方を見ても、異国の書物を読んでいたり、赤ん坊をあやすのに異国の言葉で子守歌を歌っている所を見ても。
桐野不在時の訪問者の中には、男となら誰とでも寝るのかなんて、方言が分からないと知っていて酷く下卑た事を面と向かって言うような人もいた。女でも心無い言葉を吐く人がいた。
でもそんな事、言っていい人じゃなかったのだ。
いや、そんなの誰に対しても口にしていい言葉ではないけれど。
心を抉るような言葉にさつきの顔は若干引き攣っていたから、言われた事は通じていたのだろう。
ただ分からないフリをしていただけで。
そう思うと途端に猛烈な羞恥心がわいた。
身請けされた女だろうと身体を値踏みするような視線の中にいた彼女は、どう思っていたのだろう。
見ていると思っていたけれど、こちらが見られてもいる事を忘れている。
ここにはこの程度の人間しかいないのかと、逆に思われていたのではないかと思って。
(やはり慕われやすい)
話を聞きながら睫を伏せると、桐野は緩く口の端を上げた。
その様子に首を傾げた山下翁に軽く謝すると、さつきは少し変わってはいるが噂されているような女ではない事、そして己の方があの気性に惚れて、何もかもを捨てさせて連れて来たのだと口にした。
聞いた翁は何か思う所があるような顔をして、さつきの事は少しこちらに預けていて欲しい、そう言い置いて帰っていったのだった。
Years Memory:思い出の記
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