Years After 1




「兼行くん、あの、……あ、お客様だったのね。ごめんなさい、失礼致しました」

突然部屋に顔を出した女性に竹下勇は目を丸くした。
同郷でかつ海軍の先輩である肝付兼行の私邸には今まで何度か訪れていたが、今顔を出した女性を見たのは初めてだ。
しかも、
(兼行くん)
築地にある兵学校を出ようとした間際に見つかり、俺も行くと一緒についてきた親友――財部彪、広瀬武夫も少し驚いた様子でいる。
「兼行くん」もそうだが、女性の恰好が自分たちの知るそれとは違い過ぎた。
(……ジャケットにズボン……)


肝付と一言二言交わし、三人に謝って出ていった女性をきょとんとして見送ればその様子に気付いた肝付が、
「俺の親戚だ」
そう説明してくれた。

「ご親戚……ですか」
財部の呟きに肝付が思わずといった風に笑う。
言葉の中にある微妙な含みを正確に拾われ、罰悪げに謝罪を口にした友人と竹下も似たような思いを抱いたのだった。恐らく広瀬も同じだろう。

「構わんよ。あの人が変わっているのは本当だ」
「はぁ……」
「あれを見て変わってないという人間がいたら会ってみたい」

肝付は言われ慣れているのか、いや自身も彼女は変わっていると思っているからだろう、特段気にする様子もなく笑っていた。
先輩の様子にいくらかホッとして、
「親戚とはどういった……」
広瀬が突っ込めば、親戚と言っても姻戚だがと前置きを入れて、肝付を海軍に入れてくれた恩人の妻だと口にした。

(恩人の奥さん)
(それにしては……)
(めちゃくちゃ若い)
(よな)
(うん)

肝付を海軍に。
と言う事は薩摩の人間、それも海軍にいるか海軍にいた人間だろうと竹下は思う。

(でも海軍にそんな先輩いたかな)
聞いた事がない。
広いようで狭い世界だ。まだ学生とはいえ同郷、同じ世界の先輩の話なら噂くらいなら聞いた事がありそうだが。

「いや陸軍でな、もう十四年程前になるか、辞めて鹿児島に帰った」
「十四年前ですか……明治六年に陸軍を辞めて……明治六年?」
「もしかして征韓論で帰った方ですか?」
「ああ。桐野利秋と言うのだが……さすがに知っているか」

あんぐりと口を開けて驚いている三人を目の前に肝付が苦笑している。



桐野利秋と言えば明治六年に官を擲って故郷に帰り、明治十年には薩摩の諸派を纏めて政府との関係を融和へと導いた要人のひとりとして半ば伝説になっている人物だった。
その後は表に出る事もなく、一般的には消息も不確かという事であったと思う。確か。

正直なところ書籍や逸話でしか触れられる人物でしかなかったので三人の中では、否、世間一般でももう歴史上の人物に仲間入りをしかけている。生きていたのか。
いや、それよりも……

そんな人の妻があれ?

「……今考えた事、桐野さんの前では顔にも出すなよ」

不意に掛けられた言葉に三人一様に口を噤んでしまった。

「言っておくが妾でもないぞ。そんな事口が裂けても言えん。あの人は桐野さんの正妻だ」
「正妻、ですか」
「それに桐野さんに妾はおらん」
「は、はあ……」

しかし妻だと言われても彼女に対する違和感は膨れ上がるばかりで。
洋装の市井の女性なんてまず知らない。見た事も聞いた事もない。そんな姿ができるのは外国人の妻子か、正真正銘の政府高官の妻子かせいぜいそれくらいだろう。しかも彼女は長い髪を纏める事もせず、その上スーツでまるで男の様相。
しかし彼女は一見して日本人であったし、桐野利秋はその政府高官たちと同世代の筈で……
(なら政府高官の子女ではないな。姉妹か?)
いや、それなら自分たちの母親かそれに近い世代、尚更純和風な女性だろう。

「鹿児島の方ですか……?」
財部の言葉に引き戻され、竹下はふと顔を上げた。

「いや違う。違うが……俺があの人と初めて会ったのは上野の桐野屋敷……今は岩崎邸になっている、あそこだ。当時は俺もあそこで世話になっていてな、久々に帰ったらあの人がいた。客人として部屋を与えられていたな」
「客人?」
「ああ、本人は居候だとか穀潰しだと笑っていたが」

だが住み込みの書生らが、もうひとり居着いていた女の色香に迷った揚句彼女に馬鹿な真似をして、桐野を酷く怒らせた事があった。
それまでの経緯から桐野屋敷は若い女に対する警戒が強かったのだが、当時客として滞在していた彼女だけはそこに驚くほど馴染んでいたのだった。
桐野は彼女の気性と分け隔てのなさを早くから気に入り、その上で一連の騒動を通して目にした思い遣りの深さを愛するようになっていた。

「久しぶりに会った第三者から見ても随分大事にしていたのが分かる程ではあったな」
「え、もしかしてそれって」
「ああ、惚れて相手を口説き落としたのは桐野さんの方だ」





中座して向かった手洗場から客間に戻る途中、かの女性と廊下でぱたりと会った。
「あら」
少し首を傾げて顔を綻ばせた目の前の女性が、自分たちの母親と言っても差し支えない程の年齢だとは広瀬にはとても思えない。


「ああ見えて俺より五つ六つ年上だ」
そう肝付に言われて広瀬も財部も竹下も、酷く驚いたのだ。

「それで兼行くんですか……」
ぼそりと落ちた竹下の独り言に肝付が苦笑した。
聞けば昔から「君」呼びのようで。

「まぁ年だけではないな。初めて会った時から俺よりもキャリアは上だったし英語もペラペラ。その上桐野さんや別府さんたちが感心するような言い方で書生を叱っていた」
それ故君呼びでも不思議と嫌な気分にはならないし、まあこの人にならと思うらしい。

……と、そう聞いたのはつい先ほどの事。


「失礼します」
その件の女性が柔らかい声掛けをしてすれ違おうとした時、
「あの!」
広瀬は思わず引き止めてしまった。

「失礼ながら……御夫君が桐野利秋先生と伺いました」
「え?ええ」
「もしかして、先生もこちらに……?」
広瀬がそう思ったのは彼女が手にしている盆に湯飲みふたつが乗っていたからだ。

「ええ、お邪魔させて頂いております」
にっこり笑いながらの返答に広瀬は内心のけ反ってしまった。

(やっぱり!)

「桐野の前で言うな」という肝付の言い方に、もしかしたらこの屋敷に桐野利秋本人がいるのではと思ったのだ。
正解だった。

「突然で大変不躾なのですが、ご挨拶させて頂けませんか」
「ん?挨拶……桐野とお知り合いの方ですか?」
「いえ、私の師が桐野先生と古い知り合いで……私は話だけしか知らないのですが」

ちらんと目の前の女性の様子を伺えば、
「そんなに畏まらなくてもいいですよ」
ころころと笑われてしまった。


「じゃあ三人とも兵学校に通ってるのね。前に来た時も生徒さんが来てたわ。海軍さんの家には海軍さんが集まるのかな?広瀬君も鹿児島?…………へえ竹下君がそうなの」

(よく笑う人だな……)

「一緒に行こうか」とすんなり案内に立ってくれた桐野の妻を見下ろしながら広瀬はそう思った。
朗らかで人当たりが良く、自分の義母や師・山縣小太郎の夫人と比べても受ける印象がまるで違う。
それに先ほど肝付が言っていた話とも中々繋がらなかった。

「中にどうぞ?」
進められるがままに室に入れば、よく日に焼けた男がこちらを振り向く。
(若い)
恐らく五十に手が届くか届かないかの年の筈だが、とてもそうは見えなかった。

「利秋さん、こちら兵学校の生徒さんで広瀬武夫くん。利秋さんの昔のお知り合いのお弟子さんで、是非挨拶をって仰って下さったの」
「知り合い?」
「山縣小太郎です」
「……山縣……」

記憶を辿って思い出そうとしている風の桐野に、
「戌辰の戦の際に共に会津の城を……」
「……ああ!あの山縣さんか。ご壮健か?」
「はい、今は海軍で奉職しております」
「そうか」

ふっと鷹揚に笑う様子は男から見ても惚れ惚れするもので、
(桐野先生が口説き落とした……?)
それが何となく俄には信じがたい。
少なくとも英語が話せるからとかそうした理由で人に惚れる人ではなさそうに思える。

そんな様子をニコニコしながら見つめていた桐野の妻は、
「お茶をどうぞ」
自分が飲むつもりで持って来たのだろうそれを広瀬に進めると軽い会釈を残して部屋を後にした。
その後をつい目で追ってしまう。

「さつきが気になるか」
「はっ、いえ……」
「嘘をつくな」

笑われた。

「あげなナリじゃっで仕方(しょん)なか」
言葉とは裏腹に桐野は笑っている。
「よくできた奥様だと伺いました」
「ん?兼行か?……まぁさつきは俺にはもったいないな」

微笑いながら恥ずかしげもなくそう言ってのけた《伝説上の人物》に広瀬は目を見張ってしまった。



Years After:本編から14年、明治20年のお話。
桐野先生48歳。memo&res(2019/11/19)にメモあり。20191119

wavebox(wavebox)