犬も食わない 5



このままでは本当に逃げられる。
直感でそう思い、止めてと言われはしたものの、秋山はそのままさつきを抱きしめた。

「…秋山さん、本当にもう止めて」
「『秋山さん』は止めろ。お前に言われるとぞっとする」
「こういう中途半端で生殺し的なのが一番嫌なの。迷惑なら迷惑って言ってよ。そしたら明日から元通りにするから」
「違う、さつき、ちゃんと聞いてくれ。俺はお前をどうでもいいなんて思っていない」
「だから…もういいって…」

彼女の手は自分の背に回される事もなく、所在なさげに足の横にぶら下がっている。
……焦る。
相手からの手応えがない事がこんなに怖いものだとは思わなかった。
それに自分が聞いていなかったくせに相手に向かって「ちゃんと聞いてくれ」はないだろう。
麻布の下宿に帰った時、広瀬はさつきは今日の事を「前から何度も言っていた」と言っていた。
(何度も…)
彼女も自分からの生返事にこんな感情を抱いていたのか。

「迷惑なんて思ってない。面倒だから断らなかったなんてそんなことは絶対ない。俺はお前が好きだ」
「……によ…」
「ぅおっ」
聞き取れなくて体を離せば、どんっと突き飛ばされた。

「今更何よ!じゃあせめて一緒に居る時位私の話聞いてよ!私仕事と私どっちが大事とか今迄そんなこと聞いたことないでしょう?!ナンセンスだからよ!だからどっか連れてってとか我儘も言った事無かったのに!」

兄達がいる隣室から聞こえていた笑い声やざわめきが途切れる。
これだけの声が上がれば流石に何があったかと思うだろう。
そして秋山はと言えば、さつきのあまりの剣幕に驚いて言葉がなかったのだった。
こんな風に声を荒げる彼女を秋山は今迄見たことなかったし、こんな風に声を上げることがある女だとも知らなかったから。
本当に自分が知らない所でさつきには随分我慢を強いていたのかもしれない。

「あのさ、忙しいのも分かるんだがあれじゃ秋山、幾らなんでもかわいそうだ。付き合う気持ちがあるんなら、もっとちゃんとしてやれよ」

広瀬から見た自分たちはこんな風で、それは聞いていたのにさつきをここまで追い詰めていたとは思わなかった。
(ああもう、本当に……)
自分は馬鹿だとしか。

「そうだな。お前は一度もそんな事言わなかった」
「………」
「すまない。本当に悪かった。…しかし、その、お前も知ってるだろうが。集中すると俺が話聞いてない事は」
「…うん」
なら、と言葉を続けようとして、

「…じゃあ、じゃあさ、なんで何もしてこないの?」
「は?」
「私がそっちの布団に入っても触れてもこないよね?いっつも背中向けて寝てて」
「え?」 
さつきは真顔だ。恐ろしい。
というか隣の部屋が静まり返っているのが恐ろしい。

十中八九聞かれている。

「…あ、あのな、さつき……」
さすがに口元が引き攣ったのだが。

「……私、そんなに女としての魅力ないですか…」
そりゃあフネから陸に上がれば素敵な女の人が沢山待ってるんでしょうし。
私じゃ普通すぎて見劣りしますよね。

何かとんでもない方向に話が進もうとしている事に秋山は内心激しく慌てた。
それはここでしたい話ではない。兄やその部下がいる前ではしたくない。断じて。

「もしかしてここは結婚するまで女はとかそう言うあれですか………はは、じゃあ私ふしだら過ぎて無理だなあ…」

(や、止めてくれ…)
言いたい。口に出してそう言いたい。
しかし言ってしまうと、自分を否定されたと解釈してゆらゆら揺れている目の前の瞳からはきっと雫が落ちる。
その程度の予測は秋山にも容易にできた。
(――― ああ、もう) 
しかしぐずぐずと考えている間にさつきは秋山の無言を肯定と取ってしまったようで。
見るからに悄然として部屋を出て行ってしまったのだった。

「あ、おいっ!」
「きゃあっ」
逃げようとする腕を掴んで部屋に引き戻せば、秋山の突然の行動にさつきの体が倒れこんでくる。
それを抱き込み、無理矢理こちらを向かせて部屋に座らせて。
「さつき…こらこっち向け。……さつき」
それなのに目さえ合わせてもらえずに、こういう時はどう機嫌を取ればいいのかと思う。

付き合い始めた頃はどうだったのだろう。
抱き締めれば香水の淡い香りがするのが好きで、理由もなく近くに寄っていた。
「あっきー匂いフェチか何かなの?」
とか何とか言いながらさつきだってくすぐったそうに笑っていたのだ。
それをふと思い出して、さつきの髪に手を伸ばす。髪から頬、首筋へと手を滑らせ体を近付けると、抵抗もされず自然な動作でその体が畳へと倒れた。
「………」
「………」
押し倒すような態勢になっている訳で。何か言おうと、言葉を音に乗せる前にさつきが目を閉じてしまった。
(これは、)
そういうことなんだろう。
全面的ではないのだろうがどうやら許されたらしい事にほっとして、秋山はそのままさつきに覆いかぶさろうとしたのだが。

………。
……………。
……………………。
ここは兄の家だ………

畳に散らばる髪を手櫛で梳かしながらどう伝えるかと言いあぐねていた時、
「…ムリしないでいいよ」
「ち、違う!違うさつき、これは…ぶっ」
手近にあった座布団を思いきりよく顔面にぶつけられてしまった。
「どいて」
「ちょ」
「もーいいもー知らんもーどーでもいい!馬鹿!馬鹿真之!あんた修行僧かなんかなの!?」
「そんなわけあるか!」

言い返した途端に隣室から破裂したような爆笑が上がった。
泣きたい。

「じゃあなんでなのよ」
「なんでってお前、」
「私広瀬さんのとこに帰る。広瀬さんの方が優しくしてくれるし忙しくても嫌な顔せず話もちゃんと聞いてくれる。あなたはどこぞのお姉さんに相手してもらって下さい」

「は?」

するりと秋山の下から抜けると、さつきは本当に部屋から出て行ってしまった。


(12/5/10)
あはははは 桐野が髪なら秋山は匂いに(笑)


wavebox(wavebox)
prev | M&S | next

top