3.胸に霧



「…広瀬は?」
今日は財部と待ち合わせて講道館に行くと聞いたんだが。

顔を見るなり顔をひねった秋山に財部もまた首をひねった。
確かに財部は広瀬と約束していたが、広瀬が柔道着を忘れたとかで家に立ち寄ってから行くと言っていたのだ。
だから広瀬が先に海軍省を出たわけで。特段理由がある訳ではない。
しかし話を聞く僅かな間に秋山の顔はどんどん青ざめていった。
その様子に財部が目をすがめる。

「今日はさつきが家にいる」

言うだに足早に歩き出す秋山を財部も追う。
三人の同居の事情をある程度把握している財部には、すぐに目の前を歩く同僚の懸念を察することができた。

「和菓子屋じゃないのか」
「―――今日は休みなんだ」

だからきっと家にいるはず。
職場から多少離れた所で走り出した秋山に財部は苦笑した。そんな様子に一瞥をくれて、

「こんなことで泣かせたくないだろ」

ふて腐れたように横を向いた秋山に、財部は笑ってしまったことにちくりと良心が痛んだのだった。



広瀬の女癖は極々一部の間では有名だ。
各地の港にはピンクな意味で顔見知りのお姉さんが沢山いて、修羅場ったりトラブったりする度に何故か親しい同期や友人が尻拭いをしたり後始末をつけていて、その一番の被害者が財部であったり財部であったり財部であったり竹下勇であったりする。
自分が泣かせた訳でもない女を慰めるのは腑に落ちないが、それ以上に納得できないのは女が特に広瀬を悪く言うそぶりも見せない点だ。
女曰く多少強引で無理矢理っぽい所はあるけど、あの笑顔に負けてしまう、許してしまう。まあいいか、仕方ないかと。
財部としては完全に骨折り損のくたびれ儲けである。

ただ、それが許されるのは相手がプロのお姉さんだからだ。
さつきは違う。
さつきは生まれ育った世界は”違う日本”だが、それに今まで付き合った男は何人かいたようだが、普通の女性だ。
一時の遊びで手を出していい女だとは、財部は思わない。
それに彼女は「広瀬は品行方正な男らしい男」という、自分からすると吹いてしまいそうな妙な夢を親友に持っていたようだから。

(違う、さつき。広瀬は結婚しないというだけで、女に触れないってことじゃない)

寧ろ特定の相手がいないから、余計に性質が悪い。


何度か教えてやった方がいいのではないかとも思ったのだけれども、秋山は広瀬とさつきふたりの為に、上手い具合に誤魔化し、守っていたようであるし。
その秋山の気遣いが今や完全に裏目に出ている訳であるが。

(まあ…確かに今更こんなことで泣かせたくはないわな)

というか今一番泣きたいのは秋山なんじゃないだろうか。

偶のトラブルに巻き込まれる自分と違い、秋山の場合は三人での同居であるから、言ってみれば(広瀬が)職場にいる時意外は気が抜けないことだろう。自分がその立場だったらと思うと、心底うんざりする。

「……何」
「お前も苦労してるな秋山」

何だか慈悲のこもった優しい目(可哀想な子を見る目とも言う)を向けられ、秋山は思い切り舌打ちした。




途中、ふたりは人力車を拾って家路を急いだ。
下りるや否や家に駆け込んだ秋山の分の支払いも済ますと財部も後に続く。
襖の向こうからは若干の言い争い。そして部屋に乗り込むべく秋山が襖に手をかけたその瞬間。


「大人しくしてりゃ調子に乗りやがってこの野郎あんたの ピー もいでこの先一生使えなくしてやろうか」


「…………」
「…………」

てん、てん、てん、まる。
秋山はしかしそんな沈黙をものともせず、スパーン!と襖を力強くスライドさせた。
聞かなかったことになったらしい。

そして。
眼前に広がる覆いかぶさってさつきの腹をまさぐる広瀬と、それを押しのけようとするさつき。

「………」
「………」
「………」
「………」

初夏だというのに自分の隣の気温が一気に氷点下まで下がり、無意識に隣の秋山を見た財部は肩を踊らせた。
般若だ。般若がいる。
めちゃくちゃいい笑顔だけど。

突然の乱入者ふたりをひどく驚いた顔で見上げると、笑顔だった広瀬はそのまま引き攣りどんどんと顔色をなくしていった。ユー・ルック・ソー・ペールである。更にイッツ・トゥ・レイトであった。
一方のさつきは緊張が緩んだのかへにゃりと顔を歪ませている。
(急いできて良かった)
その表情を見た財部はほっとした。


顔を合わせる度毒舌合戦になってしまう女だが、これは流石にいただけない。
財部にとって遠慮なくずけずけ物を言うさつきは『悪』は付くが友人のひとりなのであるし。
そうしている間にも秋山がズンズンと部屋に入って行き(無言である)、べりっとさつきから広瀬を引っぺがすと、その襟首をひっ掴んで部屋の外へと引きずって行った(無言である)。
その際助けを求める親友の視線とぶつかったが、今回ばかりは助けようという気も欠片の同情心も起きなかった。
家には女を連れ込まないとか、さつきには手を出さないとか、そんな約束をしていたと人力車の上で聞いた。
どういう状況でこうなったかは分からないが、今のさつきを見ると合意の上ではない事くらいは分かる。

「………」
「………」

無言での助けてコール。ア●フル犬のようにうるっとした感じだ。子供や年頃の女の子ならさぞかし可愛いだろう。
だが同い年の男にそんなことされてもイラッとしかしない。
財部は右手でサムアップするとそれを自分の首元にあて、軽く舌打ちしながら左から右へとスライドさせた。
一辺地獄見て来い。

「ちょ、財部っ…!秋山待てこれには……!!」

何か続けて言っていたが、その声も襖が閉まると遠ざかった。
自業自得である。


(10/12/31)


wavebox(wavebox)
prev | M&S | next

top