犬も食わない 3



「…来ない…」

そうなるかもとは、欠片ほどは思っていたのだけれど、思っていただけでまさか本当になるとは思わなかった。
広瀬に「楽しみ」とは言ったけれど、自分は思ったよりも今日を楽しみにしていたようで一時間経っても二時間経っても秋山が現れる気配がない事に驚くほどがっかりしている。

(疲れた…)
慣れない余所行きの着物で長時間立ちっぱなしだ。
どこかで休むという選択肢もあったが、ここを離れた時に秋山が来たらと思うと、そこから離れる事も出来なかった。
足も疲れたがそれ以上に疲れたのは気持ちの方で、「久しぶりの外出を楽しみにしてたのは私だけだったんだなー」とか「私はあの人にとっては所詮その程度だったんだなー」とか…
そう思うと本当に悲しくなってきて、さつきはその場にしゃがみ込んでしまったのだった。
側にいた人が驚いて声をかけて来る。 
それに大丈夫と答えると、さつきは口角を上げたのだが全然笑えていなかった。
「本当に、少し休めば大丈夫ですから」
そういう言葉で声をかけてくれた人を安心させて、さつきはしゃがみ込んだまま俯いた。

(うるさくしすぎた?しつこかったのかな)
(考えてる時にやいやい言われたら誰だって鬱陶しいよね…嫌になっちゃった?)
(最近全然構ってくれないし…もしかして他に好きな人でもできたかな)

元々自分から言いだして付き合って貰っているのだ。
積極的に選ばれた訳ではないから正直に言えば自信がない。もう嫌だと言われてしまえば、それで終わりだとさつきは思っている。
(………)
じんわりと瞼の辺りが熱くなる感覚に焦って顔を上げれば、ふと向こう側に見知った顔を見つけた。

(…好古さんだ…)
恋人の兄だった。
数人を引き連れていたから、部下でも連れて飲みに来たのかもしれない。
飲み会が始まるような時間なのか、そう思い時計を見れば既に五時を過ぎていた。
一時前から四時間以上ここで待ってる。もう秋山は来ないだろう。
(あんまり話聞いてなかったの分かってたし、私だって来ないかもって思ってたんだから、…それでいいじゃん)
だから秋山を責めるのはお門違いだ。
そう思いはすれ、そう自分に言い聞かせはすれ、本当にがっかりで残念で寂しいことには変わりなく、飲み客で賑やかになりつつある繁華街を見ているのが嫌になってしまった。
広瀬は秋山は自分の事をどうでもいいなんて思ってないって言ってくれたけれども。
(私、本当に相手にされてないんだな…)
来ないという事よりも、話も聞いてもらえない、そちらの方が余程堪える。 
(もういいや。帰ろ…)
そんな気分になって立ち上がった時、

「さつきさん」

どうした、と遠くから野太い声が響いた。
距離がある。それに薄暗くなりかけたこの人混みの中だ。
気付かれた事に驚いていたら、好古は向こうの相手を置いてこちらに来てくれたようで、さつきは平謝りに謝った。

「私、大丈夫ですから、あの、」
「誰か待っとるのか?」
遮るように言葉を被せて来た好古に、さつきは少し言葉を探したのだが。
「…あー…………なんか、すっぽかされたみたいで。だから帰ろうかなって」
「そうか」
相手が誰かなんて大体分かっているのだろうに聞いてこない所が嬉しい。
それにこんな中からひとりでいた自分を見つけ出して、心配して声を掛けてくれた事が純粋に嬉しかった。

「なら俺達に付き合うか?今日は随分めかしこんどるようだし」
茶化すように言う好古に、さつきも思わず微笑ってしまった。
この人ににこにこと笑われると、しんどく感じていた事が急速に薄れていくような気がするから不思議だ。
「…いいですか?私もちょっと誰かといたい気分で」
「なら決まりだな」

好古は一緒に歩いていた若い将校たちに何事かを言い伝えると、止めた人力車にさつきと乗りこんだ。
ひとりにさせないようにしてくれる心遣いが、本当にありがたかった。


(12/4/28)
秋山兄も敢えて標準語で。兄ィは当時陸軍乗馬学校の校長。乗馬学校(後の騎馬学校)ですが習志野にあったのかと思いきや、この頃はまだ東京にあった模様。


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