10.急転する





――さつきには暗い影がない。平安の匂いがする。汝を見ちょっと安心する
――そのままでおって欲しい
――そいは桐野さァも同じじゃろ


灯りを消しても眠れなかった。
布団の上を二転三転しても辺見の言葉が頭から離れず考え込んでしまう。

(平安の匂いか…)
そんなこと考えたこともなかったし、そう思われているなんて、初めて知った。
桐野も同じ?

(そうなのかな…)
何気なく辺見が口にした一言だったのだろうが、それがどうしてこうも引っ掛るのだろう。

「………」

隣室とこの部屋を仕切る襖に視線を滑らせる。闇に慣れた目にはその模様がぼんやりと映った。
襖の向うには桐野がいる筈だが、今日はこちらには来ないのだろうか。

(怒らせたんだから来る訳ないか)
夕食時にはそんな素振りはなかったとはいえ、桐野を怒らせたことには変わりはない。

(どうしたっけな、こういう時)
元彼達との間に起った喧嘩後の対処を思い起こす。
ひとつめ、こちらから素直に謝る。ふたつめ、向うが折れてくるまで放置する。
みっつめ、さりげなく距離を縮めて少しずつボディタッチで甘えて誤魔化す。
よっ…つ、め、………。………………。

「……………は?」

(なんでこんなこと考えてんの)
なんで感情面で歩み寄る事を考えているのか。
「………………もう寝よ」
不毛だ。



と思った筈なのだが。

「寝られない」

ぱさりと掛け布団を弾いて体を起こす。
縁側からは柔らかな月の光が射していて、雨戸を引き忘れていたことを思い出した。
虫が入るのが嫌で気をつけていたのに。
しかし中空では月が輝いているだろう。そう思うとなぜだか無性にそれが見たくなりさつきは縁側へと寄った。
が。


(ひっ!)
気配を感じて何気なく見遣った先にいたのは、
(き、きぃさんか…びっくりした…)
彼もまたさつきと同じタイミングで部屋から出てきたのだった。

さつきはまだ部屋を出ていなかったからか桐野は気がついていないようで、そのまま片手に下げていた瓶をぐっと呷った。
(…あんな飲み方…)
さつきは桐野がこういう飲み方をする男ではないのを知っている。
らしくないと言えばらしくなく、違和を感じて眉間に皺が寄った。と、そこで振り返った桐野と、

「……」
「……」

ばちりと目があった。
見上げるさつきに見下ろす桐野。互いに無言。
言葉を発しようと息を飲み込んだ時、突如後頭部と喉元に痛みが走った。
だんっ!という大音を頭の後ろで聞いて、眼前に広がる桐野の顔と絞められている首に、畳に叩き付けられたのだと分かる。
右手もきつく拘束されていて、完全に動かないように、抵抗できないようにされていた。

息ができない。
生理的な涙で視界が滲んだが、距離が近いため桐野の顔ははっきりと分かった。
(またあの目…)
あの時と同じだ。怖くて動けなかった昏さを持った瞳。
それに触発されて何時間か前の辺見との会話が突如、奔流のように甦った。

――あんお人も若い頃から苦労し通しじゃ。貧しさの中から色んな辛酸ば舐めてここまできた。人も斬っちょるし…幕府があった時分にゃ随分色んなもんを見て来た筈じゃ

そうだ。
桐野にそんな影があるなんて、さつきは思わなかった。
だがそれは、”そんな風には思えない”のではなく、そんな桐野をただ知らなかっただけなのかもしれない。

それに気が付くと、唐突に色んなことを理解した。

この屋敷で初めて桐野に会った頃、人斬り半次郎と呼ばれていた人だと思ったのに、そんなこと、すっかり忘れていた。すっかり忘れる位明度の高い人だった。
桐野は自分の暗さを人に見せるような性格ではない。苦しみや葛藤を人に見せるような人ではない。
そう思う。
今まで接して来た桐野はそういう人だったから。
しかし見せないことと煩悶がないことはイコールにはならないのだ。

桐野は強い人だから寂しくない?

(そんなわけない)
強くあろうとする人だから、弱い姿を人に見せたがらないだけ。きっとそう。

(わたし、私ずっと側にいたのに…)
たとえそれが誰かの代わりであったとしても。

(ごめんなさい)
気付けなくて。気付く努力もしなくて。

朝起きた時いつも側に桐野がいたのはきっと、時々ひとりはどうしようもなく寂しくてしんどいから、純粋に誰かにいて欲しかったから。
――誰かに?大切な人に決まっている。
でも、代用でもいいと思うほどに、本当に、この人にはぬくもりが必要なのだ。…多分。


(怖くないよ)

遠ざかりそうな意識の中、なんとか右手を持ち上げて桐野の寝巻の襟首を掴んだ。
汗でしっとり重くなっていたそれに前のように魘されていたのかと思う。
衿を離して桐野の頬になんとか手を添えると、

(大丈夫、もういらないって言われるまで側にいるから)

僅かに口元が弧を描いた。それに桐野の目の色が少し変わる。

「……っ、…さつきっ!?」

(――もどって、きた…)

首を絞める桐野の手が緩んだ拍子にヒュッと空気が肺へと送り込まれ、それに体がついていかず激しく咳き込んだ。

「カハッ…、げほっ!げほ、けほっ」





さつきを抱えるように抱き起こし、背中をさすりながら桐野が矢継ぎ早に何かを話し掛けてきたが、いまだ酸素の回らない頭には全くその言葉は入って来ない。
ただ桐野の酷く焦った様子だけが瞳に映り、そんな顔をさせたい訳じゃない、そう思い両腕を広げて目の前の首に捲きつけた。

予想外の行動だったのか桐野が驚いたのが体から伝わったが、咳き込みながら、それでもぎゅうっと力を入れると、躊躇いがちに背中に手が回される。
そのまま軽く引き上げられて座っている桐野の膝に完全に乗りかかり、子供が親に抱かれているような格好になっていたがそれも気にならなかった。
いつもよりも早い相手の鼓動を聞きながら、暫くすると息も落ち着いてきた。
くっついていた体を少し離し、

「も、だ…じょうぶ」

そう伝えた声はしかし酷く掠れていて、桐野は表情を曇らせると手形の残るさつきの首に指を這わせたのだった。

「…すまん」
「うん…でも」

平気、と顔を上げようとして、不意に頬を手で包まれる。
右の親指が目元を彷徨い左目に溜まった雫を弾き、もう片方は舐め取られた。

「…っ、」

ざらりとした舌の感触にぴくんと体が震える。

「…さつき」
名前を呼ぶ声に、
「さつき」
いつの間にか閉じていた瞼をゆるゆると上げると、目の前にいる桐野から伝わってくる雰囲気は酷く穏やかになっていた。

(………よかった)

知らず口角が緩やかに上がる。
するとそれに引き寄せられるようにして桐野の顔が近づいた。

降りてくる唇に双眸を閉じると当然のようにそれは重なる。
腰に添えられた左手の温度、角度が変わる唇に時々鼻腔から甘い声が抜けた。桐野の胸元に添えた両手が着物を握りしめたが、ひどく気持ちがよくてそれも小刻みに震えているのが自分でも分かる。
それなのに口の端で息をしようとした途端に桐野は離れていった。
見上げた顔に不満でも浮いていたのだろうか、それでも桐野は困ったように小さく笑うだけだった。


(11/7/1)(11/5/4)