「さつきさん、どうしはったんですか。なんか先生…」
「…私がちょっと御機嫌斜めにしちゃって」
「喧嘩か。
「何って辺見さん、そんな言い方しないでよ…」
「ね、さつきさん。今日大丈夫ですか?」
「え、志麻ちゃん?大丈夫って、……何が!?」
早い帰宅にも驚かれたが、それ以上に珍しく機嫌のよろしくない桐野に屋敷の誰もが驚いた。
桐野にはどうしたかなんて勿論聞けないので、さつきに質問が集まる。
「あー…うん。なんか怒らせちゃったみたい。心配かけてごめんね。大丈夫だから」
大丈夫も何も原因さえ分からなかったが、とりあえずそう言い繕っておけば周囲は苦笑いでさつきを慰めた。
桐野は怒りを持続させる質ではなかったから、屋敷にいる人間が戸惑ったのは帰って来た時の一時だけで済んだものの、辺見だけは夜にさつきにもう一度「平気か」と声をかけて来たのだった。
「…え、うん」
「最近はちゃんと寝ちょるようじゃが、体調は」
「…え?……大丈夫」
「もうちっと飯ば食え。汝、
そうかな…と少し首を傾げると、辺見が頭に手を置いた。
「何か困っちょる
「…ない」
「悩み」
「え?何、一体何なの?何の話?」
「有るんか無いんか」
「ないよ?」
それでも疑わしげにこちらを見て来る男に、「本当にないよ。大丈夫」、さつきが言い切ると、それでもじっと瞳の奥を覗き込もうとしていたが、少し諦めたように息を吐いた。
「ならヨカ。今日の事もそうじゃがな、汝の事を心配しちょる人間もおる事は忘るるな。相談があるなら誰にでん気兼ねするな」
「辺見さん、あの、なんで?本当に何もないよ?」
至極真面目に返したさつきに、「ならいい」と言った筈の辺見はぐっと眉を顰めた。
「…来い」
腕を引かれて使われていない部屋に入り、座れと促されてさつきは大人しく座る。
「隈は消えちょるが、まだ顔色は悪いままじゃ」
化粧で誤魔化し切れていないと指摘した辺見に、さつきは目を見開いた。
「色白を通り越してちと青白か」
まさか辺見に指摘されるとは思っていなかった。
「心配させたくない、面倒かけたくない、負担になりたくない。そいで汝は
そこで言葉を切ると辺見は黙り込んだが、暫くして口を開いた。
「そげん青か顔で大丈夫ち言われても心配になるだけじゃ」
「……」
ぼろり、と涙が出た。
泣かせたい訳じゃないと焦って目元を拭おうとする辺見がいつかの別府と被って、思わず小さく笑ってしまう。
それでも、お前が心配だとストレートに示してくれた辺見が嬉しくて、壊れた水道のように涙が止まらなかった。
桐野とのことは自分の中で納得して随分と平気になっていたが、誰にも話さずに溜め込んでいたストレスが辺見につつかれて零れ落ちたようだった。
辺見はそんなさつきの様子が少しおかしいのには気が付いただろうが、ただ黙って背中をさするだけで何も言わない。
それがたまらなくありがたかった。
「落ち着いたか」
「あり、ありが、とっ」
おら、と差し出された懐紙を受け取ると、
「酷い顔じゃな」
「っ、辺見さんのが酷いよ…」
そう言って少し顔を上げると、目の前の赤みがかった鳶色の瞳が柔らかく細められる。
辺見は普段はネコ科の猛獣のような印象なのに、さつきや志麻に対する時は随分と優しい男だった。
「…ありがとう。辺見さんも別府さんも大好き…一番の友達」
「ソーカ」
「うん。ふたりともよく見てるね。普通気づかないよ…」
「
ぐっと息が詰まる。その通りだった。
眠れるようにはなったが、それと引き換えに食欲がなくなった。
食事の手伝いをしている段階で匂いで腹が一杯になり、自分の膳に配るのは以前の半分程の量になっていたが、そこまで見ている人間がいるとは思っていなかったのだ。
「別府が汝の好きなもんばかい持ってくるんも、そいなら分かっじゃろ」
「……敵わないなぁ…」
ちいさくひとりごちた言葉に、そりゃそうじゃろと返される。
「汝のおった所、
「うん。少なくとも私が住んでいた所では戦争はないし、争いらしい争いも殆ど…」
「平和の中で暮らしちょるから、俺らとは根本的な注意力が違うんじゃろう」
辺見は故郷の郷中では並みいる先輩を抜かして
それでも部隊長の注意力散漫は多数の生死に関わるから、戦で揉まれる中で嫌でもそういうセンスが磨かれた。
辺見の性格からするとあまり細かい点には気がつかないが、全体を見た時に感じる違和感は敏感に拾い上げることができたし、そこから違和の原因を探ることはできる。
口にしないだけで、見ていなさそうで意外と見ているし、気が付くこともそこそこあるのだ。
屋敷内という狭い範囲であれば尚更容易だ。
「汝に注意力が足りんと言とるんとは違うぞ」
「うん。それは分かるよ」
生きて来た環境や過程がまるで違うのだからそれは仕方ない。
「さつきは持っちょる雰囲気が他の女ともちと違う」
「雰囲気?」
「何にも怯えんでいい、よか所で育ったんじゃろうな。世間知らずっちゅうんとは違うと思うが…警戒心や周りへの注意力が薄うてぽやぽやしちょる」
「ぽ、ぽやぽやって…」
この時代、何らかの形で戦争に関与したり目の当たりにした人間や地域はそれなりにいるし、ある。
旧幕時代は政治情勢に関連して死人が出る事件が多かったし、攘夷戦争、禁門の変、そして戊辰戦争と規模の大きな戦争が何度か起っている。
人為的に起る人の死が、さつきが暮らしていた時代よりももっと身近なものだった。
さつきにとって人の死はテレビや新聞では見るものの、子供の頃に祖父母や親戚の葬儀に出たと言う程の関わりしか無く、抗えない自然の摂理だという理解の方が大きい。
乱暴に、理不尽に奪ったり奪われたりする対象でないのは確かだ。
「さつきには暗い影がない。平安の匂いがする。汝を見ちょっと安心する」
「……」
「そのままでおって欲しい。ここにおる奴は皆多かれ少なかれそう思うちょる。そいは桐野さァも同じじゃろ」
「きぃさんも?」
「あんお人も若い頃から苦労し通しじゃ。貧しさの中から色んな辛酸ば舐めてここまできた。人も斬っちょるし…幕府があった時分にゃ随分色んなもんを見て来た筈じゃ」
「そうなの…」
そんな風には見えなかった。
普段目にしている桐野にそんな影があるとは思わなかったのだが。
少し考え込んでいると、
「さつき」
呼びかけに辺見の顔を見返す。
「俺は汝が変じゃっち気付いても心中察する事はでけん。言葉にしてくれんと分からん。言いたくなかち言うならそいでよか。無理強いはせん。じゃっどん…何か気にかかる事があっとじゃろ」
「………」
「今は聞かん。じゃが相談したくなったらいつでん言いに来い」
肯首すると、満足したように辺見は笑う。
本当にありがたい友人だった。
(11/6/26)(11/5/1)