11.発見する





片付けておきますから。

そう告げるとさつきは桐野を風呂場へと送った。
汗を流して着替えなければ、いくら桐野でも流石に体が冷えるだろう。

部屋から出ていく背中を見送って、立とうとするも足が震えてうまく立ち上がれなかった。
あんな雰囲気になっても体は正直で、やはり怖かったのだ。窒息でもしかして死ぬのかと思ったほどだったのだから。
せめてと思い、手を伸ばして畳の上に横倒しになっている瓶を拾い上げる。
栓もされずに投げ出されたその口からは、いまだ僅かにワインが零れ落ちていた。

(拭き取らないと、)
畳がダメになる。
そう思いよろよろしながらなんとか手にした茶櫃の布巾でそれを拭き取ると、さつきはボトルを手に桐野の部屋に繋がる襖を開けた。


さつきが日課以外でこの襖を開けるのは初めてだ。
日課、つまり床を延べる為以外で自分から入ることはないと思っていたのに。この急激な変化に自分でも少しついていけていない。
たった数分の出来事で桐野の側にいてあげたいと思うようになった心の動きには。

(それにしても…)
さっきのキスは一体なんだったのだろう。
以前嫌悪で拒んでから一度も唇を重ねることはなかったし、それからは桐野もそんな素振りを見せたことがなかった。

さつきが前のように拒否しなかったのは、気持ちが急変して桐野を受け入れるのがさつきにとって自然だと思ったからだ。
しかし桐野は。
(誰かと間違えてる、とか)
でもさつき、と名前を呼んだ。間違えたという雰囲気でもなかったように思う。

しかし。
普通ならかなりいい雰囲気だった筈だけれど、キスだけで結局桐野は体を離してしまった。
困ったように笑いながら。

「……」

分からない。
桐野が何を思っているのか。
以前ならここで堂々巡りになってしまっていたけれど、今は桐野の感情は必要ない上自分は誰かの代役だと納得しているし、もういらないと言われるまで側にいると決めた。
今はその結論だけでいい。
以前のようにくよくよと迷わないだけマシかもしれないと思うと、
(少し強くなったのかな)
知らず皮肉気に笑った。



闇に目が慣れてきたとはいえ、数える程しか入ったことのない部屋はやはり勝手が分からなかった。
月明かりを頼りに机の上に栓がないか探し、探し当てた矢先に、ごとっと何かが落ちる音。

「えっ、うそ!何!?」

よほど端近にあったのか、僅かに場所をずらしただけで机から落下したらしい。
白木の手文庫だった。
中身は手紙だったようで紙が足元に散乱している。

「やだ、壊れてないよね…」

使いこまれた様子がある。桐野が大切にしているものかもしれない。
焦って拾い上げると傷やへこみがないか確かめたが、どうやら無傷らしく安心した。

「でもこれ…手紙の順番分からない」

崩し字に少し耐性はついたとはいえ本格的な書簡は流石にハードルが高すぎる。
とりあえずあまりばらさないようにしてまとめ、そのまま手文庫に戻すことにしたのだが。

「あれ?」

束を持ち上げた拍子にぱらりと一枚。
カードかと思い首を捻る。トランプか名刺くらいの大きさだった。拾い上げてみると、

「写真?…あれ?これ、きぃさん?」

和装の総髪姿。最近のものではないこと位はさつきにも分かった。
椅子に座る桐野の隣には少女が床に座っている。裏を見ると何か書いてあった。

【於都 村田さと】

都において。京都で撮った写真だ。

(…ん?京都?あれ…?もしかして…)

「この子か」



さつきが思い出せる幕末の写真といえば坂本龍馬や近藤勇などの人物写真だったが、彼らは単体で写っていた気がする。武士が女性とふたりで写真を撮るのは時代を考えると珍しいものではないだろうか。
それに薩摩では女性の社会的な地位は馬にも劣るといつか誰からか聞いたことがある。
表面上だけの話なのかもしれないけれど、そこまで言われるシビアな社会で人の目に触れるかもしれない写真を撮るなんて。
それだけ何か形のあるものを手元に残しておきたかったということなのだろうか。

「…大切にしてるんだね」
桐野にここまでされている村田さとという女性が、彼の特別でない訳がない。 
(あ。じゃあさっきのキスは、)

「…ダメじゃん。きぃさん…名前呼び間違えてるし…」

きっと呼びたかったのは「さつき」ではなくて「さと」だったのだ。

(目の前にいたのが私だったから、思わず名前呼んじゃったのかな)

あんな風に中途半端な状態でキスを止めたのも、さつきの顔を見て困ったように笑ったのも…
きっと、我に返った時目の前にいたのが「さと」じゃなくて「さつき」だったからだ。
ヂリッと胸の奥で厭な炎が燻る。

自分は誰かの代用。
桐野の大切な人がその側にくるまで、自分がその代わりとして側にいる。

随分と前からそう、誰かの代役だと納得していたのに、実際にそれを突きつけられるとどうしようもなく胸がザワザワする。

(強くなったと思ったばかりなのに…)
何かにヒビが入りそうで、怖い。



村田さとの写真を無意識に手文庫の一番底にしまい、蓋を閉めた所で部屋の主が戻ってきた。
桐野が言葉を発する前にこちらから口を開く。

「机にボトルを置こうとしたら落としてしまって。手紙の順番が分からなくてそのまま入れたんですけど、」

ごめんなさいと続けようとして、気にしなくていいと薩音で遮られてしまった。
手文庫を定位置に戻す背中に、

「あの、隣の部屋で寝ますか?」

そう声をかけると振り返った顔が驚いていて、さつきは小さく笑う。
あんな事があった後で、しかもさつき自身がこんなことを口にするのは初めてだ。
驚かれても仕方ない。
それに女から誘うような事を言うなんて、桐野からするともしかしたらはしたなかったのかもしれない。

「…この部屋、ワインの匂いがすごいから、だから」
寝辛いでしょう?と、嘘をついた。

部屋が開け放されているからワインの匂いはそれほど残っていない。瓶が横倒しになったさつきの部屋の方が余程匂いが残っているだろう。
それでもこんな言葉が出たのは、たださつきが桐野の側にいてあげたい、桐野が朝起きた時に隣にいてあげたいと思ったからだ。
たとえそれがエゴかもしれなくても。
桐野のことで少し心が痛んでも、その気持ちは最早変わらなかった。



桐野が答えを返す前に、にこりと笑うとさつきはそのまま台所へと水を飲みに向かった。
僅かな間でいい。少しだけひとりになりたい。

「…しんどい」

ぐったり。そういう形容が今はぴったりくる気がする。
芝居小屋に出かけ、桐野を怒らせて、同じ夜に首を絞められ、気持ちが変わった所でいい雰囲気になったかと思えば、桐野の本命を確認して――
本当に一日で色々ありすぎた。展開の早さにさつき自身も困惑している。

「確認、しよ」
水甕の縁に両手をかけて、水に映る自分の顔を覗き込む。

(私は村田さとさんの代わり。どんなに優しくされてもそれは私にじゃない。勘違いしない。求められても求めない。いらないって言われるまでは側にいる)
(側にいるだけ。これ以上深い感情は持たない。きぃさんの未来を変えてしまうような存在にはなったらいけない)

「用済みになるまで側にいる、だけ」

はあっと落とした息で水の表面が揺れた。

――疲れた。

肉体的にも精神的にも。


自室に戻ると両腕を枕に桐野が布団に仰臥していた。
こちらに気付き少し端に寄った桐野の隣に滑り込むと、それまでの疲労が一気に押し寄せ、
「…さつき、寝たのか?」
名前を呼ばれたことも知らぬまま、さつきは急速に眠りに落ちていった。


(11/7/17)(11/05/06)
中岡慎太郎も女性と写っている写真があります。こちらは男ふたりと女ひとりの三人