12.滑落する





桐野との様子が普段通りだったのを見て安心したのか、辺見が明るい調子で話しかけてきた。
辺見にも別府にもいつも本当に救われる。

それに昨日の辺見の言葉は特に重かったとさつきは思う。
辺見がさつきを気にして話してくれなければ、何も気付くことなく桐野の近くにいた筈だから。
ただ桐野が安らぎを感じるのは自分ではないだろうが、それは辺見が実情を知らないのだから仕方ない。
それでも。

「…ありがとう…」

話の途中で何の脈絡もなく、いきなり礼を述べたさつきに辺見は妙な顔をしたが、

「まぁ仲良うやっちょるようじゃっで何よりじゃ」
「…ちょっと。きぃさんをそんな下品な目で見ないでよ」
「へーへー」
「もー本当に違うんだから…」

笑いながら靴を履く辺見に、怒る気も起きない。

「行ってらっしゃい」
背中にかけた声に軽く手を振られて、さつきも振り返すと、姿が消えたのを見計らって部屋に戻った。


今日は流石に起きられなかった。
あの騒動の後に一、二時間程しか寝ていないので無理もない。
時間になっても珍しく起きて来ないふたりの様子を見に志麻が部屋に来たらしい。

襖の向うから掛けられた声で桐野は起きたようだが、さつきは桐野にくっついて熟睡していた。
暫く後、桐野に揺り起された時は頭がぼんやりしたままで、さつきはそのまま目の前にある体温に擦り寄った。
空気を少しだけ震わせて笑いが頭上に落ち、回された手が軽く背を叩く。
それが酷く心地良かったのだが、「もう少し寝っか?」、その一声に肘枕で横たわったままの桐野の側に座った。

「…おきないと……」
「眠そうじゃな」

くつくつと笑う桐野をスルーしてさつきはおもむろに帯を解き寝巻を脱ぎ出した。

「お、おい…」
そのままよろよろと箪笥に向かうと下着を着けて、スーツのパンツを穿いてシャツに手を通す。ぼーっと鏡台を覗き込み首に手の跡が残っているのを見て、大判のハンカチを折り曲げてスカーフ代わりにして首に巻いた。
しかし眠い。
アヒル座りで目を閉じたまま首を何度か左右して眠気を飛ばそうとし、ふと視線を感じて振り返ると桐野がこちらを驚いたように凝視していた。

「…えっ、あれ?きぃさん?…あれ?」

睡眠不足で回っていなかった頭がそれで一気に覚醒した。
戸惑うさつきを余所に、ぼすっと布団にうつ伏せに倒れると桐野が体を震わせて笑い出す。

「くっ…くはっ、はは」
「み、見てました…?」
「ああ。全部すっぱい
「そ…それはお見苦しいものを…」
「んにゃ、ヨカもん見せてもろた」
「ええええええ」

(ちょっとちょっときぃさんてこんなこと言う人だっけ!?)
混乱気味なさつきを見て、桐野は益々笑う。

わいな、そいが素か」
素というか普通の寝起きだろう。
(ん。寝起き?あ…)

「えと、おはよ…」

小さな声だったが、しかしそれは相手にちゃんと届いたようだった。
自分でも唐突さを感じるタイミング、しかもこの部屋では初めての朝の挨拶だった。
桐野も少し面食らったのか一瞬の間を置いたものの、

「ああ…、おはよう」

そう言うと柔らかく微笑った。

どんっと体の奥から何かが突き上がったのか、サクッと胸に何かが突き刺さったのか。

(…っ…)

さつきは思わず息を忘れてしまった。
ペキ、と心に小さな亀裂が走るのを感じる。

感情の揺れを抑え込んで畳に視線を滑らせるとぎゅっと双眸を閉ざし、いち、に、さんと数えてからもう一度桐野を視界に入れなおす。

「き、がえますか?」

桐野が立ち上がったのでそう尋ねたのだが、彼はそのままさつきの前に座った。

桐野は無言でさつきの右手を取り袖口を捲くる。
押さえ込まれた所には指の跡がくっきりと残り、腕の外側には爪が食い込んだ跡がある。少し血が固まっていた。
そして口を開かぬまま首のハンカチの結び目を解く。
こちらにもはっきりと圧迫痕が、首を絞められたと分かるような形で浮いていた。
つ、と指が跡をなぞるや、桐野が珍しく重い息を落とす。

「……った…」
小さく良かったと聞こえた声は、少しだが確かに震えていた。

危ないと思ったら近づくな、昨日のような事になったら何としてでも抜け出して欲しい。
桐野はそんなことを言うと、有無を言わさずさつきにそれを約束させた。

「…頼む。どげな手段でん使うて構わん。…昨日は本当に汝を、」
「きぃさん」

桐野の言葉を途中で遮ると視線が重なった。

「大丈夫だから。きぃさんが思ってるよりも私頑丈にできてる。こう見えて結構丈夫なんだよ?」
「きぃさんが約束しろっていうなら私はちゃんと守る。それならこれから何も起こらないでしょ?」
「だから、大丈夫だから、」

(そんな顔しないで欲しい)

「…心配しないで」
殊更明るく笑うと、ぎゅうと桐野の手を両手で強く握った、のだが。

「さつき、俺は」

その声音に、桐野が何か大事なことを打ち明けようとしていることを察する。
昨日も芝居小屋で大切な事を話そうとしていた。
多分同じことだ。
今までの、この関係のこと、桐野のこと、そんなことを話そうとしている。それに、
…昨日は本当に汝を、殺すところだった…
そうだ。そんな事態になったのだから、何も話さないという方がどうかしている。
どうかしているのだけれども…

(や、聞きたく、ない)

体が強張った。
知らなかった桐野の断片に触れただけで気持ちは変化した。
そして今の挨拶に添えられた笑顔。


こういう風に、毎朝何気なくおはようと言って、心から笑いあえたらどれだけ幸せだろう。
そう思うことで心に走った亀裂に、殺した筈の桐野への恋心がまだ生きていることを知って愕然とした。
あの時…写真を見た時に湧きあがった感情は、認めたくはなかったが、

(…嫉妬だったのか)

村田さとへの、求められれば迷うことなく応えられるだろう彼女への、嫉妬と羨望だったのかもしれない。
菊弥と一緒にいる様子を見ても、何も思わなかったのに。
…嫉妬?何故嫉妬なんてするのか。
欲しいと思うからだ。欲しいのに手に入らないから……

体は触れているのに桐野との間には壁がある。
それはこれからの歴史であったり桐野の大切な存在であったりと、乗り越えるには高過ぎてさつきの足はすくんでしまう。
下の方からただ眺めるばかりで、しかもそれしかできないのだ。
それなのに。

――気持ちが通えば容易に目の前の男を手に入れられる女が憎い。

そう思う自分に体が震えた。
一過性の女でなければと思うのに、いつの間にか桐野が欲しいと思い始めている自分が恐ろしかった。

(だめだ…)
きちんとした話を聞いて桐野を知れば、きっと気持ちは今以上に傾斜する。

(それだけは、絶対にだめ)
聞いてしまったら今まで通り桐野に接する事ができるとは思えない。


この人には決まった相手がいて、私はその人の代わり。
――この人は、私のものには、ならない。
この人に、私の気持ちは、必要ない――


そう、桐野は自分以外の誰かのもの。
自分はぬくもりが必要な人の側にいる抱き枕。
身代り。

それだけ。
これ以上は踏み込んじゃいけない。
呪詛をかけるように自分に繰り返し言い聞かせる。


「さつき」 
頭上からの呼びかけにこれ以上ない程きれいに笑うと、さつきは話を続けようとした桐野を遮った。

「私顔洗ってきますね。きぃさんも早く着替えなきゃ」
遅れちゃうよ、と一際深く笑むと、
「さつき、待ちやい」
桐野の制止も聞かずに部屋を後にした。



さつきはそのまま志麻を手伝いに行ったため、結局食事の場で桐野と顔を合わせることになった。
とても微妙な雰囲気で分かれたが、ぎくしゃくはしていなかった、と思う。
こちらを気にかけているのは空気で感じたが、辺見が気付かなかった位なのだから、桐野との間に何かがあっただなんて周りにも分からなかっただろう。
それに少しだけホッとする。

戻った部屋で鏡台の前に座り、首のハンカチを取る。
「コレ、暫く消えなさそう」
首の圧迫痕も腕の傷も、明るい所で見ると二、三日で消えるとは思えなかった。
これでは首元が丸見えで、そこが露出する着物を着るのは暫くは無理だろう。
暫くは長袖のシャツ、パンツかスカートで過ごすことになる。

「きぃさん、罪作りな人だなあ…」

思わず苦笑した。
酷いことされたり優しくされたり、突き落されたと思ったら引き上げられて、落ち着いたと思ったらまた突き落される。
嫌いになり切れない自分も自分だが、昔のオトコと比べても桐野は色んな意味で質が悪すぎる。

『さつき、あんたそんな男といたらダメになるよ。いい加減別れな』

いつだったか関係が拗れて泥沼に嵌っていたのを見兼ねた親友の苦言を思い出す。 

「…ナニ、もしかして私また沼に足突っ込んでる?今正にそんな感じ?…はは…本当にもう、どうしようもないね」

今までの経緯と現状を話せば、全く同じことを言われそう。
そう思うも、そんなことを言ってくれる人はここにはいない。
この関係を遠慮することなく話せる友人がいない明治という時代がこれほど辛いと思ったことはない。

考えるほど、どうしようもなく気が滅入っていく。
ハンカチを首に巻きなおし、ごろんと畳の上に寝転がった。殆ど寝ていないから余計に暗い事ばかり考えてしまうのかもしれない。そう思い、目を閉じる。
少し寝た方がいい。睡眠を取れば大丈夫、起きた時はきっといつも通りであれる。
そう思うのに何故か涙が畳に落ちる。
泣かないようにとずっと我慢していたのに、辺見につつかれて泣いて困らせて、今また何かが壊れそうだと子供のようにひとりで泣いている。

強くなった?
数時間前になんでそう思えたのかが今は不思議だ。
前よりも格段に脆くなった。

「…だれか」

たすけて、という言葉は形にならないまま部屋に消えた。


(11/7/17)(11/05/10)