14.否定する





泣いて寝たら憑き物が落ちたように気分が軽くなった。
今まで我慢してきたので、二回立て続けに泣いていいガス抜きができたのかもしれない。
泣きたい時は泣いた方がいい、すっきりするからといつか見たテレビで言っていたが、それは本当かもしれない。

きっとあの時が感情の底だった。
何日か経って振り返るとそう思う。一日の内に色んな事が起り過ぎて、思い過ぎてさすがに感情の処理が追いつかなかったのだ。
頭も回っていなければ心も完全にキャパオーバーで、弱った部分から抑えていたものが一気に噴き出した。

でも、マシになったと思う今でも問題がなくなった訳ではないし、色々と自覚したことで寧ろ事態は悪化した気がする。
(気をつけないと…)
気を緩めたら、陥穽に嵌る。いや、嵌りかけているのだから、これ以上は。


鏡に映る自分を覗き込んで、いまだ残る首の痣に触れ頬に手を当てる。
最近は会う人みんなに痩せたと言われていたが確かに目の前の自分は窶れていた。

(カッコ悪い)

食べる量は無理矢理元に戻されたものの、吐き出してしまうことも多く、以前と変わらないか悪くなっているような感じだ。
スーツもウエストが少し緩くなっていたから、これはちょっとと思うものの、いかんともしがたかった。
ふう、と息を吐くや、

「さつき」

寝起きのハスキーボイスに振り向く。

「おはよ」
「ああ…さつき、」

おいでと言われて近づくといつものように唇が重なる。
いつものように?そうだ。微妙な所でさつきが無理矢理話を切ったあの日からこうなった。
どうしたんだろうとは思うが、さつきももう何も考えずに素直にそれを受けている。

あの日を境に変わったのは、少しずつ桐野の素かと思うところが見えてきた点だった。
桐野は眠りが浅いのか夢をよく見るようで、魘されたり、夜中に起きたりすることがあった。
驚いて揺り起したり、顔を覗き込めば抱きしめられる。抱きしめ返して大丈夫と背中をさすれば安心したように息を吐く。

前のように乱暴されることはなかった。落ち着けばそのまま眠る事もあったし、抱きあう事もあった。
酒の臭いがしなくなっていたから、もしかしたら以前は夢を見ないように寝る前に酒を飲んでいたのかもしれない。

子供みたい。
そう思うことは以前もあったけれど、最近ではこの人は意外と甘えたかもしれないとも、さつきは思い始めた。

ふたりでいる時はスキンシップが割とあったし、抱かれれば腕の内側や腰、太股に歯型が付くほど甘噛みされる。
しかしそれも大きな猛獣に懐かれているようで、痛いと思う前に笑ってしまう。
項に顔を埋めたり髪に鼻を埋めたりもよくされたが、それと似たような甘え癖なのかもしれない。


しかし。
(困る…)

さつきとしてはそう思わざるを得ない。
桐野と過ごす時間は、前よりも明らかに濃密になっていた。
しかも毎日少しずつ桐野の些細な事を知り、その度に嬉しくなる自分がいる。その事実に背中が震えた。
桐野の色んな面を知る度、好きだと思う心を抑えつけるのが段々と難しくなってきている。
こうならない為にあの日は途中で話を切ったというのに。今でも話がそちらに向かうのをわざと避けているのに。  
それなのに。

更にまずい事に、桐野はどうしたのかと思うほど優しくなったのだった。
以前から優しくはあったが、その質があの日から酷く変わった気がする。
どうも気持ちが、こちらを向いている気がするのだ。
さつきの方を。

(――違う。さつき、それは錯覚、気の所為、自意識過剰過ぎ)

そう思い、じくじくとする心を諌める。それに…

(怖い…)

自意識過剰だと打ち消しても、もし、本当に桐野の気持ちがこちらを向いていたらと思わずにはいられない。
もしそうなら、さつきがいることで桐野は逢う筈の、本来のパートナーと出会わない可能性が出てくるのだ。
そうなったら桐野の未来はどうなってしまうのだろう。

(怖いよ…)

ふるっと体が震える。

(村田さとさん、京都から呼んだ方がいいんじゃないかな…)
桐野のためにも、自分のためにも。 



如何いけんした?」
顔を見つめたまま動かないさつきを不思議に思ったのか、尋ねてきた桐野にごく自然に笑った。

「大きな子供がいるなあと思って」
「子供はこげんこっせんじゃろ」
「あ、こらこら。ちょっとどこ触ってんですか」

のしかかってきた桐野の背を叩くと、桐野が笑いながら首筋に鼻をあてた。

「今日は別府さんと出掛けるんですから…ほら、きぃさんも出掛けるんでしょ?」
起き上がって着替え始めた桐野の背中に、晩は遅いんですか?と声をかけると肯定が返って来る。

わいも羽根伸ばして来い。晋介になんぞ美味いもんでも食わせてもらえ」
「あはは。そうしよっかな」
「ちと痩せすぎじゃ」
「え?」
「吐いてしもうてもな、食えるもんはきちんと食え」

くしゃっと髪を混ぜると、桐野はそのまま部屋を後にした。
なんで知ってるの。というか。
(だから、そういうところが困るんだってば…)
本当に。



「さつきさん、今日別府さん来られるんですよね?私ひとりで大丈夫なので、出掛ける準備してきて下さい」  
「え、一緒にやれば早く済むじゃん。それにもう準備できてるし」

炊事場で食事の後片付けをしながら志麻と無駄口をたたくのは、さつきにとっては結構大事な時間だった。
悲しいかなここにさつきの女友達はいないし、志麻も日中は屋敷の仕事で忙しい。
女だけの空間で無駄話できる時間はそうふんだんにはないのだ。
じゃあ早く済ませましょうかと笑って手を動かす志麻に、さつきは最近思っていた事を口にした。

「ねえ、最近酢の物多くない?」
さっぱりしていてさつきとしては食べやすいが、毎食出てくるようなものでもないだろう。
それに最近の志麻の献立全体が随分あっさりしているような気がする。
しかもさつきが好きだとか美味しいとか、軽く零したものまでが結構な確率で食卓に出ているのだ。
志麻を手伝いながら今まで尋ねる事はしなかったが、ずっと思っていた。
食事の内容が自分向けだ。
時代も時代、しかもただでさえ男所帯であるのだから優先されるのはそちらだろうに、どうしたのかと疑問に思っていたのだが。

「え?つわりならその方がいいかなーって思ったんですけど」
「つわり?誰が?」
「さつきさん」
「……………………え?」
「え?」
「いやいやいやいや違う違う違う違う!私妊娠してないよ!!?」
「え、だってご飯食べられなかったり吐いちゃったり、私てっきり…」
「ぎゃー!違うよ志麻ちゃん!ちょっと体調が悪かっただけ!」
「でも体調って、やっぱり」

納得いかないと顔にでかでかと書いてある志麻を見て、さつきは脱力してしまった。
まさか、まさかそんな誤解が生まれていたなんて。

言ってしまって大丈夫だろうか。
でも食事からあらぬ希望を志麻以外の人たちが持つ可能性を考えると、今きちんと否定しておいた方がいい気がする。放っておいたら悪く大袈裟な方に事態が転びそうだ。
志麻なら口外しないだろうという、安心感もある。
は、と息を吐くとさつきは口を開いた。

「志麻ちゃん。あのね、本当に違うの。私ね、アクシデントで子供ができないように薬飲んでる。だから妊娠はしないの」

以前から飲んでいた薬をここに来ても飲んでいた。本来の目的は生理痛の緩和で避妊ではないけれど。可能性は皆無ではないが、欠かさず正しい飲み方をしているため妊娠率はほぼゼロに近い。今のシートを飲み終わるとなくなるので不安ではあるが、まさかこんな風に役に立つとは思いもしなかった。

「あくしでんと?」
「事故のこと」
「……さつきさん…それって、」

「さつき」

突然の入り口からの声に振り向くと別府が難しい顔で立っていた。


(11/8/5) (11/5/13)