15.抉出する





いつもなら何気ない会話が続くのに、今は意識しないと言葉も出てこなかった。
お互い少し気詰まりで、隣を歩くさつきにちらりと視線を流すと、そんな表情かおをさせたかった訳じゃない、とそう思う。
責めるつもりはないのだ。ただ話を聞きたいだけで。


聞いてしまったのは、偶然だった。
予定していた時間よりも早く桐野邸に到着して、さつきに会う前に少し喉を湿らせるつもりで別府は水を貰いに奥に向かった。
近くの廊下まで来ると聞こえて来たのは志麻とさつきの声で、ここにいたなら丁度いい、声をかけようとした。が。

「志麻ちゃん。あのね、本当に違うの。私ね、アクシデントで子供ができないように薬飲んでる。だから妊娠はしないの」

それは小さな声だったが、別府にははっきりと届いたのだった。

――― 事故で子供ができないように薬を飲んでいる。

(事故で?)
それは子を孕む事に不都合があるとしか聞こえない言い方だった。
恐らく志麻もそう思って問い返そうとしたのだろう。
別府を見てさつきが一瞬息を詰めたのは、きっと聞かれたくなかった事だからだ。

じわりとまたひとつ違和が広がる。
いや、ここまでくると違和と言うより不審だ。おかしいと思う気持ちばかりが大きくなっていく。
辺見は以前、あのふたりはしっくりこないと言っていたが、それよりもっと悪い気がする。


「よか天気じゃな」
「え?う、うん」
「汝の洋服も久々じゃな」
「…そうだっけ…」

軽い問い掛けに少し間をおいて返って来る声。繕った笑顔。
そんなに怯えるなと言おうとして、それは止めた。困らせたい訳じゃない。

「どこ行く?」
「え?」
「行きたい所」
「えー!決めてたんじゃないの?」

聞きたいことはあるが、それは後でいい。
至極普通に話を振ると、さつきは幾分かホッとしたのか、
「じゃあさ、隅田川行こうよ!きっと気持ちいいよ」
舟に乗りたいんだよねと、子供のようなことを言うので苦笑いで応じれば、さつきは鈴を転がしたように笑った。
やっぱり笑っている方がいい。


調子が戻れば、確かにいつも通りの様子で、
「汝はよう話すな…」
「久しぶりじゃん!話そうよ!」
あそこに行っても、ここに行っても舟の上でも変わった所はなさそうに見えた。
しかし、今までの行きがかりもあって見たままを素直に受け取る事はできず、別府にはこの様子も空元気のように映る。

「さつき、わらび餅好きじゃろ。食うか?」
休憩で入った甘味屋でそう水を向けるも、
「いや、もうお腹一杯かな」
「いつも俺の分まで食うちょるんに」
「そうだっけ?」
「忘れたんか…」
「あはは!」

わらび餅で腹一杯もないだろうに、しかしそれは嘘ではないようで。以前会った時も食が細くなってはいたが、それは続いているようだった。

「大丈夫か?」

だから連れてきた料理屋で別府が思わずそう尋ねてしまったのも仕方ない。
キョトンとしてこちらを見るさつきに、「飯。食えるか?」、問うと、

「何言ってるの!私今日ご飯御馳走になりにきたのに!…え、何で半笑いなの」
「ここは美味いぞ」
「ちょ、スルー?!」
「はは」

しかし以前ならぺろっと食べていた量をさつきは酷く時間をかけて食べている。

「無理するな。食える分だけでよか」
「…ごめんね、すごくおいしいんだけどもうご馳走様。…別府さん何か飲まないの?お酒頼む?」
「いや、酒はいい」

機嫌よく笑っているのに、またその表情を曇らせるのかと思うと気が重くなる。


ちょっと席外すねとさつきが座敷を後にしたのを見計らい、膳を下げさせると別府は窓へと寄った。
通された部屋は二階であったから、障子を開けた別府からは中庭を挟んで一階の廊下や室並びがよく分かる。
(賑やかじゃな)
ちょうど見下ろす角度にある部屋から響く三味線の音、そして時折どっと起る笑い声。

「ね、向うから別府さんのお国言葉が聞こえるよ」
戻ってきたさつきを振り返ると、向う、と別府が見ていた部屋を指さす。

「賑やかだね…今日ね、きぃさんも出掛けてるの。帰り遅いって言っていたから、もしかしてあそこにいたりして」
「かもしれんな。ほら」

側に座ったさつきに茶を注いだ湯飲みを渡す。
いつもならすぐにありがとうと返って来るのに返事がなかった。
どうしたのかとそちらを見やれば視点がある一点で止まっている。それを追うと、

あにょと…)
菊弥か。

廊下に出ているふたりを容易に見つける事ができた。近い距離で話をしているのは部屋がうるさいからだろう。
菊弥はそのきっぷの良さを買って従兄が贔屓にしている柳橋芸者だ。彼女が桐野に執心だという事はよく知られていたが、確かのあの様子なら頷ける。
態度と素振りから遠目にもそれが分かった。

しかしさつきとそうなってからは桐野も酒宴に出ても早く切り上げるようになっていたため、顔を合わせる事が殆どなくなっていたようで、「桐野の旦那は?」と尋ねられたことのある薩摩系将校も少なくない。菊弥にすればこの機会を逃したくないのだろう。
しかし。
それが何故よりにもよって今、さつきの目の前でなのか。いくらなんでも間が悪過ぎだ。

「さつき」
無反応。
「あまり見んな。兄は帰るち言うたんじゃろうが」
とん、と障子を閉める。

「…いいの」
「何?」
「いいの、別に、帰って来なくても」
わい、何バ言…」

別府はぎょっとした。
目の前の瞬きを忘れた瞳からは、雫が線を作って流れている。

「おい」
肩を掴んでこちらを向かせたが、さつきはそのまま顔を背けてしまう。

「さつき、…さつき!こっちを見ろ!」

声が大きかったのに驚いたのか、さつきの肩がびくりと跳ねたが、そのまま両手で顔を隠そうとする。
それを別府が両手で掴み無理に開かせると、

「ごめっ、ごめん、ごめ…なさっ…や、も、やだ…私、だめ、全然だめ」

俯いて嗚咽を漏らし始めた。

別府はさつきの後頭部に手を回すと、自分の肩口へそっとその顔を押しあてた。
着物がじゅんじゅんと湿るのが分かる。震える背中に腕を回すとしがみつかれ、子供をあやすようにして背をさすった。
単なる嫉妬かと思ったのだが、どうもそれだけではないようだった。
それでは余りに様子が尋常ではない。

「馬鹿じゃなあ…泣かんでもヨカ。辺見にも言われちょるじゃろ。相談ごとがあるなら言えち」
しかし、別府はわざと明るい口調でそう言ったのだった。

「ほれ、言うてみい。何でん聞いちゃる。誰にも言わん。俺と汝の秘密じゃ。ん?」
「いや、いえ、言えない」
「兄とうまい事いっちょらんのか」
「そんなこと、」
「嘘を吐くな。浮気か?」
「ちが、私が勝手に」

ヤキモチ焼いてるだけ、さつきはそう続けたが別府はそれでは納得しない。

「汝な前より痩せちょるし、飯の量も減っちょる。それにちゃんと笑わん様になった。そん原因は兄か?」
その言葉に頭を左右する。

「…事故で…子供が出来んようにしちょるち言うちょったな。兄の子が出来るんは『事故』か?何ぞ不都合でんあっか?」

寧ろ別府は子供ができても問題はないだろうと思っているというのに。
名前を呼んでもこちらを見ようとしないさつきの顔を別府が無理に上げさせた時、

「汝、そりゃ何じゃ」

首元に巻いたハンカチからはみ出た、おかしな所に見える痣の跡。
抵抗するさつきを無視して、指を引っかけてハンカチを下にずらしその結び目を解いて、
「………」
別府は絶句した。薄くはなっていたが、これは首を絞められた跡だ。
恋人同士のお遊びとして相手を責めながらの情事がある事は知っているが、別府が知る限り桐野にもさつきにもそうした趣味はない。

「何があった……」
「…何もない」
「そんな訳ないじゃろう!」

ぎゅう、と目を瞑る様子に先日の辺見と交した会話が甦る。本当に想像以上に強情だ。
目の前の双眸から顎へと伝いぽたぽたと落ちる雫が、スーツのズボンに小さな染みを作る。
顔を拭い、目元を拭ってやると唐突に以前もこんな事があったと思い出した。
あれはいつだったか…
(そうじゃ)
桐野の部屋から出て来たさつきに声をかけた時だ。
急に泣き出した上、少し様子がおかしかったためどうしたのかとは思ったのだがそのまま誤魔化されてしまった。

(…あ?)
もしかして、
(――あん時からか)
桐野とさつきの関係は一番初めからおかしかったのかもしれない。


「さつき。兄ん部屋から汝が出て来た時、俺に会うたな?一番初めの日じゃ」
いやいやをするようにさつきは答えようとしなかったが、

「こげん状態の汝をもう放っておけん。ちゃんと答えろ。…ほら大丈夫じゃっで。何があった?」
「何もない!」

即座に大声での否定。しかしそれも震えていては何かがあったと認めるようなものだった。

「…襲われた」

それでさつきの顔色が蒼白に変わったのを見て、別府は奥歯を噛み締めた。
別府は従兄が女子供に乱暴する男ではないのを知っている。しかし近い存在とはいえ、別府も桐野の事を全て知っている訳ではないのだ。
信じたくはないが、さつきの様子からするにそれは真実なのだろう。

(じゃが…)
そんな目に遭ってまでなぜさつきは桐野の側にいるのか。
分からない。
それに違和感や不審を感じる事はあれど、ここ最近のふたりの様子を見ていると問題はなさそうでそんな事があったとは俄かには信じられなかった。

そうだが、ふ、と別府は思い返す。
桐野の部屋から出てきたさつきを見て、祝福したのは己だった。
別府はそれまでさつきから色んな話を聞いていたし、していた。それに桐野の従弟である。
どんな事実と経緯、思いがあったとしても、そんな別府によかったなと言われてしまえば、あの時、さつきはどんな言葉を返せたというのだろう。

辺見も別府もさつきに事あるごとにどうしたかと問い、相談しろと言った。
言ったけれども。

(言える訳がない)

そもそも人に話せるような内容ではなかったのだ。


さつきは起った事を曖昧にぼやかすことで桐野を庇い、また口外しない事で別府や屋敷の人間たちを傷付けないようにしていた。
ひとりで。
誰に話す事も、相談する事もできずに。
眠れずに隈が出たり、食事を受け付けなくなっていたのは、恐らくその反動だったのだろう。

「さつき、」

悪か事した、と頭を下げた別府にさつきが僅かに息を飲んだのが聞こえた。


(11/8/14) (11/5/17)