18.消耗する





さつきを散々泣かせた挙句屋敷に返すことになった。
人力車を頼みに向かった僅かな間にさつきは柱に凭れて寝てしまっており、それを見た別府は頼んだ俥を断った。
さつきを背負ってそのまま屋敷まで歩いたのは少し考えたかったからだ。


さつきが隠していたものは思ったよりも根が深く、その上複雑だった。
関わり過ぎては歴史を変えてしまうかもしれないという怯えと、自分は村田さとの代わりであるという意識。
どちらも厄介だが、別府が見るところ後者がより厄介だった。

さつきは偶然写真を見ただけ。そう。見ただけで桐野から直接聞いた訳ではない。
つまりさつきの言う”代わり”が桐野にとっての真実なのかは分からないのだ。


「そいは聞いたんか?あにょがそう言うたんか?」
「きけ、聞けな…、こ…いっ」
怖くて聞けない。聞いて肯定されるのが怖い。
「わかってるの…おかしいよね…矛盾してる」
そうだと言われないといけないのに、本当にそうだったら。そう思うと胸の奥から悲鳴が上がる。
「今日だって別、に、帰って来なくて…いいの、菊弥さんのほうが、私じゃない方が…っいいの、」

「だけどっ、…だけど、帰って来て欲しい…っ…!」

別府はぼろぼろ泣きながら本心を曝け出すさつきの背をさすることしかできなかった。
どんな言葉がかけられたのか、ふさわしい言葉があったのなら教えて欲しい。

苦しい筈だ。
好きな相手に愛されていないと思いながら側にいるのも、抱かれるのも。
傾いていく感情と、それを押し留めようとするしがらみや理性に挟まれて心を殺すのも。

村田さとを呼んで欲しいと言ったのは、恐らくさつきの本心だ。
そう言わざるを得ないほど心の均衡が崩れてきている。
本人が言った通りもう無理なのだ。限界が近いのではなく、さつきはもう限界だ。 


辿り着いた桐野邸には既に主の姿があった。
帰って来るだろうとは思っていたが、従兄の姿を認めた別府は酷く安心した。
別府の背にしがみつくようにして寝ているさつきを見て桐野は少し驚いた顔をしていたが、すっとその目元を撫でると小さく息を漏らした。
分からないほどに眉が顰められたのは、きっと見間違いではない。

「晋介、俺が運ぼう」

さつきは桐野の手に移っても目覚める気配がなかった。
朝から長時間出歩いた上最後は追いつめるようにして問い、秘密にしていた事を無理やり吐かせてあれだけ泣かせたのだから、疲れたなんてものではないだろう。
同い年とは到底思えない無防備さだったが、それだけ無理が掛っていたのだと別府は思う。
「あ、ほんなら別府さん、お茶淹れますよって奥に、…」
そこまで言いかけた幸吉がぎょっとして言葉を止めた。

「…べっぷさん?きぃさんにそっくり…?」

視線の先では抱えられたさつきがぴたぴたと桐野の頬に手を当てながら話し掛けている。夢と現の区別がついていないのか、桐野を別府と勘違いしているようだった。

「ね、別府さん、がんばれって言って」
「ん?」
「そしたらもう少しがんばれるから」
「……」
「おねがい」
「…他には」
「ぎゅってして」
桐野が抱え直すようにしてさつきを抱き直す。
「香水つけてる?きぃさんと同じ匂いしてる」
「そうか」
「…ん。好き、この香り」


「………」
「………」
甘えていた。

さつきからすると別府にだが。あれが自分に言われていると思うと酷くこそばゆい。
というかこの場にいるのが酷くいたたまれない。
呆気に取られている志麻に就寝の準備をするよう指示すると桐野も奥に向かい、その場に残された別府と幸吉はやや呆然としてその姿を見送った。

「…あれ、さつきさん、ですよ、ね…」
幸吉が呟く。それに頷きはしたが実は別府も驚いていた。
誰だあれは。
そうは思うものの、あれが飾りも強がりもしない素のままのさつきなのだろう。随分と――
「かわいいですね…」
思わず別府は幸吉を見やってしまった。

はたと目が合う、と、幸吉は苦笑して先を歩き出し、別府もその後に続いた。
従兄は若干微妙な表情かおをしていたが、それはきっと自分と勘違いされているからだ。
いくら間違えている相手が仲のいい従弟とはいえ、面白くはないだろう。

本当にさつきの言う通り村田さとの代わりなのなら、桐野が表情を変えることも、さつきを自分で部屋まで運ぶ必要もない筈だ。
別府からすれば、なぜ代わりなどと思えるのか、その方が不思議に思える桐野の態度だというのに。
それに…
(まだ我慢するつもりか…)
もう耐えられないとあれだけ泣いた癖に。そう思うと暗澹たる気持ちになった。

ただ、別府から見ると桐野がさつきを誰かの代用などとは考えていないと思えるところは救いだった。
さつきは確かに別府の知らない桐野を知っている。しかしそれは逆もまた然り、なのだ。
薩摩、吉野の実家はごく近く、物心ついた頃から別府は桐野を知っている。
こと従兄に関してはさつきに別府が劣る筈がない。
しかし、こればかりはどんなに別府が言葉を尽くしてもさつきは信じないだろう。桐野本人の言葉でなければ。

別府は通された部屋でごろりと横たわった。
部屋を出る際目配せされたので、もしかすると後で従兄が来るかもしれない。しかしあのさつきの様子からすると、それもどうなるか。
いつもと違いすぎる、あんな状態のさつきを桐野がひとりにするとは思えなかった。

愛されているように錯覚する。違うのに、馬鹿みたい。

そう泣きながら笑ったさつきを思い出す。
桐野を呼んだ方がいい。
あの時、そう判断して別府は立ち上がったのだが、途端に泣き縋られたのだ。

やだ、やめて、言わないで、知られたくないの、重い女だと思われたくない、好きなの――

それならば余計に確かめなければならないだろうに。
(じゃっどん俺が確かめる訳にもいかんじゃろう)
それでは意味がない。
両掌を両目にかぶせると、別府は溜息を落とした。話を聞いて何かできる事をと思ったが、事情を知ったところでできることは余りにも少なかった。

(村田さとを呼べ?…そげんこっができっか)
「は、ぁー…」
「別府……何じゃあれ」
「…辺見か。何?」

掛けられた声の元を見上げれば怪訝な顔をした辺見。彼は部屋に入るなり別府の側に座った。

「さつき、桐野さァん事オハンじゃち思うちょるんじゃろうに…なんかイチャイチャしよったぞ」
吹いた。
「そいで”別府どん”にどれだけ桐野さァを好きかっちゅう話バしちょったわ」
「………………」
「側におった志麻が真っ赤でな、ありゃかわいそうじゃ」
「そうか」

笑う辺見に苦笑しか出ない。
そのまま別府だと思って、自分に話した事を全て桐野にぶつけられたらいいのだが。

「別府、あそこまでよう口割らせたな。あげん事、普段のあいつなら絶対に言わん」

辺見の言葉に別府は頷いた。
ただあれは口を割らせたと言うより精神的な疲労で泥酔したように理性がドロドロに溶けているだけだ。
夢の中で別府と話しているとでも思っているのかもしれない。恐らく起きた時には誰に何を話したか覚えてはいないだろう。

「何ぞ分かったか?」

渡された杯に酒を注ぎながら辺見が別府を窺う。
陶器の縁を舐めながら別府は躊躇った。誰にも言わんとさつきには言ったが、辺見に黙っている訳にはいかないだろう。しかし何処まで話していいかの判断に迷うところだ。
相手が辺見とはいえ内容が内容だけに口にするには随分と憚りがあった。

「分かったんは…さつきは自分が違う世界の人間ちゅうのを気にしとる事と、自分が兄に好かれちょるとは思うとらん事」
「……は?」

簡潔に問題の根本のみを伝えると、ぽろりと杯が辺見の手から落ちた。

「じゃっで、…は?なん、何ば言、何故あの桐野さァ見てそう思える?」

別府は辺見の驚き方を笑いもせず受け止めた。辺見から見てもそう思えるのだ。
前者はともかく、確かに後者はやや衝撃だろう。

「別府…さつきは好かれちょらんち思うて桐野さァの側におるんか?好かれちょらんち思うて、…」

今までのさつきを思い出すのか、辺見の言葉は半端に途切れた。
辺見も同じ屋敷にいて彼女の様子は随分見てきたのだ。
眠れず食事も随分減る程何かに苦しんでいる事には気付いていたが、まさかそんな根本的な所に問題があるとは思いもしなかった。

「じゃが」
おかしいではないか、と辺見は思い返すように言った。
さつきは元々桐野を気にしていた。
そして桐野もそうなったからこその関係だったのではなかったのか。
辺見は金や生活の為に体を売る女を山ほど知っているし、ここではそれは大して特別な事でもなかった。
しかしさつきは違う。
さつきはそういう事をする女でも、できる女でもない事を辺見は知っている。
そんな女が好かれていないと思いながら体まで許すのは余程だろう。
なぜそこまでして。

「…愛しいんじゃと」
触れる程に分かってくる強くて弱くて優しくて酷い、そんなところが。
「そうか。……そうじゃろうなぁ…」

別府の一言に辺見はふっと笑う。
そうでなければ廊下で桐野の何処が好きかなど口にしてはいないだろう。
自分は廊下で聞いただけだが、側を歩かざるを得ない志麻には本当に同情してしまう。あれは他人が聞いていられるものではなかった。

「さつきは元々桐野さぁを好きじゃったもんな。そいが…何故(ないごて)あげな事になる」
「以前歯車が噛み合うとらん、釦掛け違えちょると言うたろう」
「ん?…ああ」
「恐らくそん通りじゃ」
何かがおかしな形で行き違ったのだと。

「…じゃっどん…別府、そいだけか…?…うん。まだ話しとらん事があっとじゃろ」
しかしそれでは承服できないという風に辺見が顔を上げた。その目には探るような色が混じっている。
「行き違いだけであげな酷い状態にゃならん」
別府は苦笑した。全く勘のいい男だ。嫌になる。

「ああ。じゃが辺見、俺からはこれ以上は話せん」
話すには余りも私的な上きわどすぎる。

「そうか」
「…悪い」
んにゃ、俺はあまり深く立ち入るつもりはないんじゃ。あのふたりがうまくいけばヨカち思うだけで。ただ女が泣いちょるんは…どうにも」

それがさつきであるなら尚更だろう。
新宿でさつきを拾い、この屋敷に連れて来たのも辺見であるのだから余計かもしれない。
別府は辺見の杯を満たしてやると、ぱん、とその背中を叩いた。

「何とかしてやれんもんか、な」

本当に何かいい解決策はないものだろうか。



(11/09/24) (11/05/29)