19.把捉する





「志麻、床を延べてくれんか。さつきの部屋でよか」
「…あ、はいっ」

ぽかんとした表情でこちらを見上げる志麻に、桐野は苦笑して声をかけた。
もう一度軽く抱え上げると不安定だったのかさつきは軽く身じろぎしながら着物の襟元を掴んでくる。

「ほら、ちゃんと掴め」

小さく声をかけると桐野はそのまま歩を進めた。
別府とは後で話をすればいい。長い付き合いだ。その辺りは言葉にしなくても、向こうも分かるに違いない。

「…あれ、さつきさん、ですよ、ね…」
後にした部屋から小さく聞こえて来た従僕の声に、別府が相槌を打ったのが聞こえた。
そう問いたくなる気持ちも分かる。桐野自身も若干驚いているのだから。



さつきは人前でべたべたするのが好きな女ではなかったし、そもそも今まで甘えようという気配を見せる事も殆どなかった。
寝ている時くらいだ。寝ている時に擦り寄って来るくらいだろう。

さつきは桐野に何も求めない。
今までの女のようにあれが欲しいこれが欲しい、あそこに出掛けたいとか、そんなことは今まで一切言ってこなかったし、また何かを頼んでくるような事もなかった。
抱きしめてほしい。
別府にならそう言えるのか。そう思うと若干の寂しさが浮かぶのを禁じ得なかった。
しかしこの求めない女に甘えて己のしてきた事を省みるとそれも致し方ないことだろう。息が落ちそうになる。

「べっぷさん?」
緩慢な呼びかけにはっと我に返る。
「ん?」
とろんとした瞳の周りはえらく腫れていて随分泣いたのだろう。

「ほんとにきぃさんそっくりね」
「そうか?」
「なんでそんなに優しくしてくれるの」
「…汝を好きじゃからじゃろう」
「私も好きだよ。辺見さんも好き。きぃさんは…本当に好き。大事なの」
「………」

すり、とさつきの頭が胸元に凭れかかった。
ふわふわして飛んでるみたい。そんな声が衣擦れの音と共に廊下に落ちる。
本当に夢でも見ているつもりでいるのだろう。

「時々怖いけどすごく優しくて苦しくなる。一緒にいるとすごくドキドキする」
「手が大きくてあったかいんだよ。繋いでみたいけど明治ここじゃだめだよね…手もだけど体温がすごく気持ち良くて朝離れたくなくなる」
「あと意外とちゃんと見てて心配してくれる、嬉しくて困る」
「ほんとにどんどん好きになってく。どうすればいい?」

「………志麻、耳塞いじょれ」
「…はい…あの、あの、私先にお布団敷いてきますね…」

少し前を歩いていた志麻はぱたぱたと逃げるように部屋に向かってしまった。後ろ姿から覗く志麻の耳は真っ赤だ。
聞こえていたのか、このまま行くとすれ違いそうだった辺見は違う方向へ廊下を歩いて行った。
これは惚気とか睦言の類だ。聞かされる方が気の毒というもので、居心地が悪すぎる。

しかし――
薄々は気がついていたが、自分に向けられるさつきの気持ちを言葉で聞くのは初めてだった。

微妙な事には変わりはなかったものの、初めて口付けを交わした日を境に互いの気持ちの持ち方はそれぞれ大きく変わった。
さつきは桐野が今までしてきたことを咎めもせず、拒むこともなく、他に換え難く手放し難い場所を桐野に与えた。

さつきとの距離が急速に近付いたと言えば、そうだったのだ。
しかしさつきは心の一番肝心な個所には鍵をかけたまま、決して桐野に開放しようとはしなかった。
肌を合わせるほど気持ちの角は取れていくのに比例して、心は薄い膜で隔てられていく。
そんな印象を受けていたのだが、まさかその奥でそんな事を考えていたなんて。

好き、大事、どんどん好きになっていく。どうすればいい?

これはさつきが従弟に吐いた嘘がない本音だろう。
そんな飾りのない直截な感情、大切にしたいと思う女から向けられていると知って嬉しくない男がいるのだろうか。



さつきの部屋で一言二言言葉を交わすと、志麻は出て行った。
布団に横たえたさつきの目尻に桐野が指を這わせると、くすぐったいのか軽く身を捩る。

「…別府さん…?」
「…俺じゃ」
「きぃさん?帰って来てくれた…」

途端にぱたと落ちる雫が布団に吸いこまれていく。別府といた時に随分泣いたのだろうにまだ泣けるのか。いや、別段泣くような事でもないだろうと、
「帰るち言うたろうが」
言うや伸ばされた両腕に頭を掻い抱かれた。

その弾みで桐野が前につんのめるようにして両手を布団につくと、頬を白い手で包まれ唇が温かい温度に覆われる。
「ん、…」
驚きに反応が遅れたからか舌先で唇をなぞられ、少し隙間を作るとそこから生温かい塊が入り込んできた。
それを追いかけて甘噛みし貪り合うように口付けあっていると、力が抜けるのかさつきの体が徐々に弛緩していく。
(ほぼ寝ちょるな)
その口角の辺りをぺろりと舐めると、桐野は体を起こした。


さつきは今日はもう限界だろう。こんな姿を見せるほど酷く疲れている。
洋服のままだがこのまま寝かせた方がいいか。無理に起こすこともない。桐野はジャケットを脱がせると首元のハンカチを取り、シャツの首元を少し緩めてやった。
そして自身も着替えようと立ち上がろうとした時、くん、と着流しの裾を引かれた。

「どこ行くの?」
「着替えるだけじゃ」
「帰って来る?」
「帰って来る」
「…ん」

さすがに苦笑が洩れた。
本当にいつもの姿は何処へ行ったのだろう。
それでも昔関わった女たちのように不要に構われる煩わしさを感じないのは、自分がさつきに明確な形で求められていると分かるからだ。
今まで何も求めて来なかったこの女が帰って来てほしいと言った。

床に入ればさつきが擦り寄って来る。
(体温が気持ちいい、か)
そう思うのは桐野も同じだ。

さつきは筋肉もなかったが贅肉もあまりない。細かったが柔らかな肢体だった。
手足にも殆ど傷や荒れがなく、整えてある指先は上流階級のそれに似ていた。少しひんやりとした指が顔や背中に添えられるのはひどく心地良い。
またさつきが桐野が知る女たちと決定的に違うのは匂いだった。

彼女は日本髪を結わないから、あの独特の臭いがしない。風呂には毎日入るし髪もよく洗っている。
てっぺんから色が変わりつつある茶色の髪は手触りがよく、太陽の匂いがした。
それに化粧も薄く白粉のにおいがまるでない。
桐野の基準からすればさつきは無臭に近かったが、首筋や襟足に顔を寄せれば不思議と歯を立てたくなるような甘い香りがした。
荒むとか殺伐といった言葉がこれほど似合わない女もいないだろう。


さつきは戦争も知らず、血が流れるような争いも知らず、元の世界では周辺に死が転がっていることもなかったらしい。
また遊廓に売られたり女中奉公に出たりする女子供がいる事を知識としては知っていてもその実際を何も知らない。
さつきより十は下の志麻でさえ、この屋敷の目と鼻の先で起きた彰義隊の戦の悲惨さを見ており、また身の立たなくなった女の悲惨さを、この社会の暗い部分を嫌という程知っているというのに。

さつきはこの世界の基準に照らせば世間知らずだ。
いや、浮世離れしているという方が近いのかもしれない。
しかし、そうだからこそ、桐野はさつきを見ていると憂さを忘れてほっとする。
陰湿さや影のないまどかさは、この世からかけ離れたものに慰められているようで、抱き締めれば心が凪ぐのが分かる。



桐野はさつきを引き寄せると鼻先を髪に埋めた。
やはり柔らかくて甘い。
受けた暴力を赦した上、甘えても弱さを見せても子供みたいだと笑ってそのまま受け入れる。
触れてみればそれは麻薬のような慈愛だった。
体温が心地良いどころではない。
さつきの側は居心地が良いのだ。もう他にはいらないと思えるほどに。


(11/10/17) (11/5/30)
髪は洗うのではなく、梳るのが日本の習慣。日本髪は1ヶ月に1回くらいしか洗わない。日本髪を結った女性は近付くと臭かったという明治期の青年の話を読んだ事があります。多分中年〜年配くらいの女性じゃないかと思うけど、頭洗わないから…。私が江戸や明治にタイムスリップして一番耐えがたいだろうと思うのは臭いと虫です…