20.思返する





夢を見るようになったのはいつ頃からだったのだろう。

戊辰の戦が終わり、東京に出て来てからであったから、そう遠くもなく近くもない昔だ。
一身が考えられない栄達を遂げたのと引き換えに桐野はしばしば夢を見るようになった。
悪夢と言われる類だ。

都で一刀の下に切り捨てた学者、不可抗力とはいえ戦争で藩だけでなく家族や故郷を失った者たちの恨みの目。今でも耳に残る怨嗟の声。
様々な怨讐が積み重なり合い、夜になるとそれがひとつとなって現れる。
飛び起きるだけならまだいい。偶に亡霊が見えた。

それは暗い部屋の片隅に座ってこちらを睨んでいたり、寝ている顔を覗き込んでは呪詛を吐いたり、首を絞められる事もあった。
桐野は亡霊など信じない。
そんなものいる筈がない、錯覚だと片付けてもしかし、現にそれは部屋に現れ桐野を苛んだ。

そこですっと頭が冷えた。
桐野には桐野の信念があって刀を振るってきたのだ。亡霊にとり殺されるなど冗談ではない。
握り潰すかのように黒い靄に手を伸ばせば、それは大抵、すい、と宙にかき消えたが、しかし偶に実体を掴む事があった。
実体、いや、それは隣に寝ていた女だ。

それは桐野本人からしても気の毒だとしか言いようがなかった。
数時間前まで笑っていた女の顔が驚愕と恐怖に覆われて行く様を桐野は何度も見て来たし、早ければそのまま、遅くても二、三日の間には彼女たちは屋敷を後にした。
それを幾度か繰り返し、桐野自身もいい加減うんざりしたのだ。

それから屋敷に女を入れはしなかったが、ひとりでいることは時々酷く疲労した。
しかしそれは耐えられないと思うほどではなかったし、また起るかもしれない面倒を思うと辟易してしまう。
そうしている内に志麻が、やがてさつきが屋敷に住むようになった。
志麻には夜桐野の部屋に近付く用事はないし、さつきにしても夜、男の部屋にひとりで来るほど無分別ではなかったから、桐野も油断していた。
まさかあんな状態の時に部屋に飛び込んでくるとは思いもしなかったのだ。


さつきは屈託のなくよく笑いよく動く、明るい女だった。
今まで関係してきた女たちとは違い桐野の事をよく知らないため下心も持ちようがない。丁寧に接してきたがそれ以上でも以下でもなく、桐野自身を肩書抜きで見ていたように思う。
棘のない表裏も殆ど見せない気持ちのいい女だ。いい環境で生きてきたことを思わせる。

さつきは桐野が好む部類の女だった。
辺見や別府からすれば友人で、幸吉や志麻からすると姉で、桐野からすれば…何だったのだろう。
ただ突然現れするりと自分達の間に溶け込んださつきは、早い段階で桐野が守りたいと思う者たちの括りに入った事は確かだ。

その内さつきからは熱のこもった視線が向けられるようになった。
それに気付きはしたものの、好ましいと思うからこそ桐野は気付かないふりをした。
今までの女と同じように扱うのは簡単だ。
それに側に置けば、この女なら恐らく肩の力を抜いて笑っていられる。居心地はさぞいい事だろう。
しかし側に置けば確実に桐野のあの姿を目の当たりにするのだ。今までの女たちと同じ目に合わせてしまうのは目に見えている。

さつきにはこの屋敷に住む者、出入りする者たちとの関係もあり、桐野とだけ繋がりがあるのではない。
その上彼女は帰る場所がないのだ。屋敷を出るという選択肢…逃げ道が彼女にはないに等しい。
何より今までの女と同じようにさつきが顔を歪めるのを、桐野自身が見たくなかった。


抱いたのは本当に弾みだった。
幻であるのか現実であるのかの境目が分からず、桐野は一番避けたかった方法でさつきに触れた。
自分の下で体を投げ出す女に気がついた時には既に遅く、あれほどの後悔に呑まれたのは久しぶりだ。
しかし月明かりの下で見れば、さつきの肢体は着物の上からでは分からない色があった。

着物を着る習慣がなかったようで胸は潰れず形を保っており、腰の位置は高くくびれていて、足がすらりと延びている。
桐野の知っている女の体型とは随分違っていて、女の裸体は見慣れていた桐野にもそれは煽情的に映った。
朱に染まったままの情事の熱が引かない体を抱きこむと、桐野は唇を首筋にあてた。
甘い、何の混じり気のない女の匂いに頭が酔った。

部屋を移って来たさつきは、やはり酷く怯えた視線を桐野に投げかけた。
歩み寄ろうとすれば体を強張らせ、名前を呼べば瞳が揺れる。平静を保とうとしていたが、声も体も震えていた。
そんな姿を一番見たくなかったというのに。
きちんと話すつもりでいたが余りに怖がっている様子に眉を顰め、その時は引いた。
今思えばそれが失敗だったのだ。
それからさつきと話す機会を得ることはなかったのだから。

しかし凌辱されても尚、さつきは逃げなかった。
桐野でなくてもおや、と思っただろう。違うとは思っていたが、さつきはこれまでの女とは本当に違っていた。
怖いだろうに少しおどおどしながらも桐野に対そうとし、気丈にもこちらの様子を窺おうとしている。
ここから離れようとする気配はなく、何故こうなったのか理由を知りたい、そんな素振りだった。
その瞳には、桐野はそんなことをする人ではないという望みのようなものと、驚くべきことにまだ恋情が映っていた。

その様子に可哀想な事をしたという気持ちが九割九分九厘。
しかし残りの一厘に、ほんの僅かだが嗜虐心が混じっていた事を桐野は否定しない。
そして自分の側でこの女はどこまで保つのだろうという興味が湧いたのも確かだ。
腕の中に閉じ込めた柔らかさを手放し難かったというのもある。
それは久しぶりに抱いた女だったからなのか、さつきだからなのかは、判然としなかった。  

しかし桐野は恐々ながらも近付いてくるさつきに、折りを見て己の話をするつもりでいたのだ。
その心積りで、そしてさつきが話を聞きに来ようとしていた矢先、桐野はまた鳥の羽根を毟り取るようなやり方でさつきを暴いてしまった。無用に傷付けないよう、眠りを深くするために飲んでいた酒は何の役にも立たなかった。
「…ごめんなさい…」
そう、桐野の下でさつきは放心したように泣いた。初めて見る涙だった。

正気に戻った後、何度思い返してもさつきが何に謝ったのかが分からない。
寧ろ謝らなければならないのはこちらの方なのだ。
折りを見て話す?
それでは遅すぎる。己はそんなにちんたら事を運ぶタマでは無かった筈だ。
さつきを気にかけ過ぎて、完全に判断を誤った。


後悔は先に立たないという。
その通りだ。
後から思えばこの夜が分水嶺だった。


(11/10/17)(11/5/17)
亡霊云々で女性がよく逃げ出していた云々は大正期新聞に載ったエピソード。
#19とも関連しますがさつきちゃんは取り立てて綺麗な体という訳ではなく超普通。甘爪押し上げて、爪もオーバルに切って気になったらクリーム塗るとか。普通に手入れしている程度。
元の世界では事務職かつ熱心に家事してたわけじゃないので、そんなに手も荒れてない。ただプロポーションが明治(というか江戸)の女の子と違いすぎて桐野驚く。笑。特別に綺麗とか美しいとかではなく、カルチャーギャップ的なアレです(?)。当時の女性の理想的体型は所謂幼児体型に近かったと思います。着物を着る為に。ちなみに当時の女性の平均身長145cm位、寸胴の胴長短足。