3.困惑する





「…すっご…」

通されたのは素人目にも粋だと分かる室だった。
ここは桐野のプライベートな空間の隣であるから、さつきも足を踏み入れた事はない。
欄間装飾や置かれた調度品の類を物珍しげに眺めていると、片付けをしていた志麻がくすくすと笑った。

「朝一番にざっと掃除はしたんですけど…埃立ったかな?掃きましょうか」
「あ、それは自分でやるからいいよ。…あのさ志麻ちゃん、聞きたいんだけど…普段通りでいいんだよね、私。何かやらなきゃいけない事とか、あるのかな」

部屋を移る事で生じる義務なんかはあるのだろうか。そう思っての他意のない問いかけだったのだが。
志麻はキョトンとして、またすぐに破顔した。

「御前のお世話をして差し上げて下さい」

(…そうだよね…)
そう言う事になるんだよね、ここにいるってことは。

桐野とさつきの居室を隔てているのは襖一枚で、はっきり言って同じ部屋にいるのと変わりない。
これが意味する所は、妻とか恋人と変わらない扱いになるということだ。
部屋を移るだけ、それだけ、なんて無理やりに思っていたが、そんな甘いことはない。
さつきにそんなつもりは無くても周囲からの扱いも変わるということは分かり切っていたことだ。

それよりも、これからどうなるのだろう。
あれから一日も置かずにこんなことになって、落ち着いているように見えて内実は酷く混乱している。
何を考えているのか分からない桐野が怖い。

部屋でひとりになると自然と溜息が落ちた。
はたきをかけ、箒で畳を掃く。
考え事をしながらも自動的に手が動く位には、さつきもこちらの生活には慣れて来ていた。

「入るぞ」

返事を待つまでもなく現れたのは隣室の主だった。
ぼんやりしていて気が付いていないのか、さつきは掃除を続けている。
桐野は黙ってその様子を暫くの間見ていた。

「さつき」
「…っ、きぃさん」

いきなり呼ばれた名に体が跳ねそうになるのを、さつきは無理やり抑え込んだ。

(大丈夫、なんにもない。怖くない。大丈夫大丈夫何も起らない)

そうして辛うじて笑い桐野に来意を尋ねるも、彼はたださつきを見つめるだけで言葉を発しなかった。
昨日までなら物怖じもせず接する事ができたのに。
今は射竦められているような気しかせず、目の前の男が発する言葉を待つのが酷く怖い。

(大丈夫、大丈夫…いつも通りに)


「この部屋…、すごく良い部屋ですね。私でも分かる位趣味がいい」
声が少し揺れた。
「もともと大名家の中屋敷じゃからな」
「そうなんだ…」
「…好きに使えばよか」
そう一言を残したまま、桐野はあちらの部屋に戻ってしまった。

「…何だったんだろう…」
襖が閉まる様子を見て、ぽつり呟く。
やはり桐野が何を考えているのかよく分からない。
何をしに来たのかも、なぜさつきがこの部屋に移る事になったのかの理由も分からないまま。
はっきりしているのは、そこにふわふわした甘く暖かな理由があるからではないという事。
桐野が襖を開く事があってもさつきが開く事はないだろうという事。
そして残ったのは困惑だけだという事だった。



「志麻ちゃんお願い、それだけは勘弁して」
まさに半泣きになりながら頼み込むさつきに、志麻も困ってしまった。

「でもさつきさん」
「お願いっ!布団位は自分で敷くから、きぃさんの分も敷いておくから」
ねっ?と両手を合わせて見せると、少女の背中を押して部屋から押し出した。

「あっ、さつきさんってば!」
「ごめん!ありがとね!」
パンと襖を閉める。

志麻が桐野の部屋にふたり分の布団を敷こうとしていたのを見てさつきは酷く驚いたのだった。
大体の展開は想像できていたものの、これは一体なんだと実際目の当たりにすると驚愕してしまった。
心の中で絶叫するとさつきはすぐに志麻を止め、大丈夫大丈夫と笑って誤魔化しながら渋る彼女を追いだしたのだが。

(うわー…すごい汗だよ)
手の甲で額に浮かんだ汗を拭う。
冷や汗なのか脂汗なのか、どちらにせよ嫌な汗に違いない。
二室を隔てる襖を開くとさつきは布団を自分の部屋へと移動させ、自室から桐野のいくつか連なった部屋を眺めた。

「豪奢だな…」
畳の部屋に絨毯が敷かれ螺鈿細工のテーブルとイスが置いてあったり、ランプが置いてあったり、さつきからすれば妙な和洋折衷であったけれども、明治六年という時代を考えれば随分と贅沢ではあるだろう。
贅沢で、豪華ではあるけれど。

桐野は、さつきの知る限りでは特定の誰かを桐野の部屋やさつきに宛がわれた部屋に住まわせたことはない。
それにここは他からは隔絶されたスペースで、人の出入りは非常に少なくなっている。
と言う事はここは完全に桐野だけの空間であった事になる。
(ここにひとりでいるのは、私なら寂しいな…)
部屋が華やかであればある程、何故かそう思った。

「えーと、…先に寝ちゃってもいいよね」

今日は桐野は外で会合があるので遅くなると言っていた。
待たないといけないのだろうか。いや今までそうして来たように待たなくったっていい。
隣の部屋にいるというだけで、周りがどう勘違いしようと内実の関係は変わらないのだから。…そう思いたい。
幸いなことにこの部屋は他と隔絶された所にある。
さつきのそっけない態度も、人に気付かれる心配もない。




が。
朝、目が覚めると背後からは何故か桐野の寝息が聞こえ、昨日と同じように背中から抱きこまれていた。
ほのかに酒の匂いが漂っていて、珍しく飲んだらしい。
そして起きる気配がない。

「………」

さつきは暫くそのまま固まった。

どっどっどっ、と急に速いテンポで血液が流れ出したのが分かる。
しかし昨日のような恐怖心が湧くよりも前に、なんで?いつの間に?という疑問が頭に浮かんだ。

……覚えがない。寝巻きはちゃんと着ている。昨日は何もなかった、筈。
桐野も寝巻きを着ているようだから、自分の部屋で着替えてわざわざこちらに来たのだろう。
向うの部屋に布団を敷いておいたのに、これでは意味がない。

(て言うか、なんで気付かなかったんだ…確かに夜中に急に暖かくなったけど)

まだ少し肌寒い頃でもあり、急に現れたぬくもりが気持ちよくてそちらに擦り寄ったような記憶はある。
……。
……………。

最悪だ。

自分にひとしきり悪態を吐くとさつきは重く感じる体を起こした。


(11/05/24)