21.傾斜する





泣いて何かが剥がれ落ちたかのようにさつきは少しずつ元に戻っていった。
とはいえそれは完全にではなく、ポロポロと何かを取りこぼしながらであったが。

そしてさつきが桐野を受け入れるようになったのもあれからだ。
前までは、何故、どうしてという問いかけが瞳には浮いていたが、それがなくなった。問う事を止めたのか諦めたのか…

否、さつきは自分の中で、ひとりで問題を解決したのだ。
正直驚いた。
さつきが何をどう解決したのか、桐野には分からない。
しかしさつきに話し掛ければ本当に普通に返事をされるし、多少のぎこちなさはあったが笑いもした。
目の下に浮いていた隈は次第に薄れていったが、その代わりに少しずつ痩せていった。
表面は凪いでいた。しかし刻々と何かが悪化していく。

内情を知らない者から見れば桐野とさつきは恋人に見えただろう。
そうなのだ。自分達のことは誰も知らない。

さつきは自分の身の上に起った事を誰にも話していなかった。
出て行きたい。
別府か辺見に打ち明けてそう言えば、恐らく望みは叶えられた筈だ。ふたりにもその位の力はある。
だがさつきはそうしなかった。
彼女は辺見を好きで、別府を好きで、屋敷に住む人間たちを好いている。
桐野は自分が彼等からどう思われているかをよく分かっていたが、それがどんなものか、さつきも知っているのだ。
考えたのだろう。
自分が口を開けば周囲の人間がどう思うか。傷つく人間が少なからずいることを。

さつきは桐野から受けた行為を言葉にするのが忍びなかったに違いない。
それは自分の為ではなく屋敷にいる彼らの為――そしてそれは最終的には桐野も為、にもなっている。

さつきはそこそこ気の強い、人を傷つけないのならば言いたい事も口にできる気丈な女だと思っていた。
しかし彼女は桐野にも、屋敷の誰にも我儘は言わず、肝心な時は遠慮がちでどこか一歩引いていた。
こんな時にそれを発揮しなくてもいいものを…
しかしそうさせたのは桐野自身だ。
そう思うと、今更ながらあの時、さつきと話す事を先送りした自身の判断の甘さを痛罵したくなった。

そこまで思っても、夜、柔らかなぬくもりを求めてさつきの側で眠ることは止められない。
さつきは求めれば拒まなかった。
この女は己の前では嫌なことでも嫌とは言わないのだ。今でも桐野の側にいる事がその証左だろう。
桐野は、だからこそ慎重にさつきを見つめ、繊細な硝子細工を扱うように丁寧に触れるようになった。

さつきが何かを言い澱んだり躊躇う気配を見せれば、何を措いても無理強いはしない。強制もしない。
何処に指を滑らせれば体が震え、舌を這わせれば細い声が洩れるのか、そんなところまで相手を優先させて女に触れるのは初めてだった。

細やかに接すればそれだけ相手の内側が見えてくる。
どんな性格か、気性なのか。それは前から大体分かっていたが、見方が変われば接する程に違う横顔が見えた。
男っぽくあったが女らしくもある。時に桐野以上に厳しく冷淡かと思えば、志麻以上に子供っぽい。
大胆かと思えば意外と繊細で脆いところがあり、さつきはそれを気丈さで支えていた。

頼ろうとしない、寄りかかろうとはしない、できるだけ自分の力で。
そう思うのか、彼女はひとりでよろよろしながら立っている。倒れそうになるとそれとなく辺見や別府がその手を引き上げていた。
口にしないだけで、酷く強がりで痩せ我慢だ。
それも過ぎれば煩わしいだけだが、桐野はさつきには不思議とそうは感じなかった。
強くあろうとする姿勢は桐野が一番好む姿だ。
嵐にも折れじとする姿は単純にかわいかった。無理をするなと言いたくなる。

さつきは己の側でどれほど保つのだろう等と思ったくせに、そんな事を思った己が今は信じられない。

愛おしい。
今の異常な関係において見せる姿にさえ、桐野はそう感じた。
もし何の問題もなくさつきから気持ちを向けられたのなら、それはどれほどのものなのだろう。
気持ちが音を立てて傾いでいくのが分かる。
好ましいと感じるその程度の始まりであったはずが、次第に愛しさが生まれ、この女のナマの心が見たい、そう思うまでになっていた。
しかし触れるほどにその扉は入り口を段々と狭めていく。身体は拓けても気持ちは閉じていく。
だがそれを無理に抉じ開ければ、元のさつきの姿はもう二度と見られないような気がした。

そんな時、ちょうどぱかりと予定が開いたのだ。話をするにはいい機会だった。
そういえばさつきを連れて出掛けた事もなかったのだ。そう思い連れて行った芝居小屋で桐野は久しぶりに屈託なく笑う女を見た。
影の差す横顔ではなく花が咲くような笑顔が見たい。
そう思うと、その頬に手を添えていた。
少し驚いた後、さつきはゆっくりと微笑する。
「疲れた?」
いや、そうではない。
「…な、さつき。わいは」

なぜ笑える。なぜ自分の側にいる。なぜ怒らない。
桐野が問うことではないのは分かっているが、聞かずにはおれなかった。
何の言葉もかけないまま手元から離さない桐野をさつきは咎めてしかるべきであるのに、さつきにもまた言葉がなかった。

そうだ。自分達の間には言葉がない。
どれだけ触れ合っても、時間を重ねても、それにどういう意味があるのか、今まで互いに確かめた事はなかった。
さつきがどう思っているのか、自分がどう思っているのか。そして夜に見る夢、観る者たちの話を、謝罪をすべきは今かもしれない。
話すべき時を外した後悔は今でも後を引いている。
機会を逃すとまたすれ違う。またさつきを苦しめる。桐野が口を開きかけた時、
「あら、桐野の旦那」
背後から掛けられた声に舌打ちしたのを誰が咎められただろう。

さつきとの事では、なぜこうも間が悪いのか。



「ねえきぃさん。私のこと気にしなくていいよ。大丈夫だからあんまり気を遣わないで」
「十分色んな事してもらっているし、別に不満がある訳でもないの。わざわざ気にかけてもらわなくても大丈夫」

席を立ったさつきを追い、聞いた言葉に桐野は愕然とした。
十分色んな事をしてもらっている?不満がある訳ではない?気にかけなくてもいい?

――そこで一気に理解した。

さつきがひとりで問題をどう解決したのか。なぜ怒りもせず自分の側にいるのか。抵抗もせず抱かれるのか。
それは――

桐野と関係を持つことで屋敷にいられる。そう考えているからではないか……

さつきが口外もせず屋敷も出ていかなかったのは、周囲を気遣ったためだという読みは恐らく正しいだろう。
しかし桐野の側にいる事を、さつきがそう片付けているとはさすがに思わなかった。

さつきは花を売るような女ではないのに、それ紛いの事をさせている。
この上なく腹が立った。己の愚かさに。普段のさつきを知っていればそう考えそうな事くらい予測出来たではないか。

好んで酒を腹に入れる質ではなかったが、その日は飲まずにはいられなかった。
この日程まずい酒を桐野は飲んだ事がない。

なぜだろう。
さつきに関してはいつでも間の悪さと後悔が付き纏う。
以前の己なら考えられない事だ。
昔から女には不自由はしていなかったから、手を出すのも切るのも早かった。いや、村田さとだけは違っていたが…
彼女たちに酷い事はしなかったつもりだが、誠実では無かったことは確かだ。そんな事を繰り返していたから本当に欲しい女ができた時にうまくいかないのだろうか。
嗤った。
それなら自業自得だ。
襖を開ければそこにさつきはいるのに、どうしてこうも遠いのだろう。


(11/10/23)(11/06/4)