22.空転する





その日見た夢は今まで見た中でも最悪の部類だった。

暗い部屋の中でさつきが縊られている。
彼女には抵抗する気配もなく、ただ為されるがまま首を絞めている男を無表情に見つめていた。
男?
誰だと見ればさつきに手をかけているのは、

「…っ、」

己だった。

向うの”桐野”もこちらに気がついたのか、目を合わせるとにやぁと笑う。
禍々しい笑い方にぞっとした。

飛び起きると首元に滴る程の汗、少し息が切れている。
畳に転がっていたワインのコルク栓を口で引き抜くと、桐野はそのまま瓶を呷った。

違う、己はそんなことはしない。
打ち消すそばから、いや、あれはいつかああするだろうお前の姿だよ、そう黒い靄が耳元で囁く。

何度否定しても、否定し返される。
それを掴んで、掴んだと思ったがいつものように霧消する。
消えた筈の靄は何度か揺らめきながら己の形を作り、目の前に顔を突き出した。
愉快そうに細められたその双眸の奥には深い闇がぱっくりと口を開けている。
正視できずに瓶の底で殴っても、それは桐野を嘲笑いながら宙に舞うだけだった。

それに釣られるように縁側へと追うも姿は既に見えなかった。
舌打ちして瓶からそのまま液体を喉へ流し込んだ所で、視線を感じて振り返ると、

――いた。

見えたものを畳に叩きつけ、ぐっと咽頭を掴みあげると手応えがあった。
身じろぎはするものの抵抗する気配がない。
そうだ。このまま握り潰せばもう二度と現れないかもしれない。
そのまま力を込めようとしたその時、ひんやりとした温度が胸元、頬へと伝わった。
それに伴い少しずつ視界に明るさが戻り、目の前の現れたのは、

「……っ、…さつきっ!?」

咄嗟に手を離すと、さつきは途端に大きく咳き込んだ。
どれほどの時間首を絞めていたのか、うまく呼吸ができない様子に弾かれるようにして桐野はさつきの体を抱き起こす。
どんな言葉をかけたのか、覚えていない程ひどく焦っていた。
先程見ていたのは幻や亡霊などではなく、己の姿であった事に肌が泡立つ。

あれはいつかああするだろうお前の姿だよ、お前の、お前の……
頭の中にけたたましい嘲笑が響き奥歯を噛み締めた時、突然ふわりとした香りに包まれハッとする。

さつきだった。
咳き込みながら桐野に抱きついてきた彼女に驚かずにいられなかった。
少し逡巡した後その背に腕を回すと、膝にさつきを抱きあげて息が整うのを待つ。

「も、だ…じょうぶ」
ひどく掠れた声と月明かり程度の暗さでも分かる手形に眉を顰めた。
「…すまん」
やっと絞り出した言葉がそれだ。嫌になる。
「うん…でも」

下から見上げるその瞳には言葉と同時に生理的な涙がひとつふたつ、ぷくりと浮いた。
零したくない。
反射的に頬に手を添え、言葉の続きを聞く前に指でそれを掬う。片方を舌で舐め取るとさつきの体が小さく震えた。

傷付けて苦しめ、本当に泣かせてばかりいる。

「…さつき」

こんなにひどいことをした男でも、側にいて欲しいと懇願すればさつきは頷いてくれるのだろうか。
いや、もう十分だろう。
これ以上傷つける前にもういい加減手放すべきだ。

「さつき」

そう思い、小さく名を呼べばさつきは微笑んだ。ぐっと息を飲む。

それは本当に、本当に久しぶりに見る陰りのない笑みで、
(…これが見たかった)
情けなくも、さつきを解放しようという思いはそれで吹き飛んでしまった。


桐野は吸いこまれるようにさつきに顔を寄せると、ごく自然な動作で唇を重ねた。拒絶はされなかった。
角度を変えながら啄ばむように丁寧に口付け、慈しむように頬を撫でる。
ぐっと腰を引き寄せると襟元が握りこまれた。
その手は少し震えていたが、それが以前のように恐怖や怯えからくるものではないのは桐野にも分かる。

抱いてしまいたい。
今なら抱くのではなく抱きあえる気がする。
さつきにどういう変化があったのかは分からない。しかしずっと感じていたさつきとの距離の遠さは、今は完全に消えていたから。

「ん、…」
だが、鼻にかかった声が近い位置で聞こえると桐野は我に返った。
このまま流されたい。
しかしそれでは駄目だろう。今までと同じように言葉がないまま先に進んでも、また元に戻るだけだ。
そう思いゆっくりと体を離すと、さつきがこちらを若干困惑気に見つめていた。 


水を浴びると頭が冷えた。
不思議だ。何があったのかと思うほどさつきの雰囲気は昼間と違っていた。
笑っていても触れあっていても決してなくならない壁があったのに、今はそれを全く感じない。
何故だ。
「……」
さっと新しい着物に腕を通すと、桐野は部屋へと急いだ。
それは桐野にとって悪い方向への変化ではなかったが、もしかしたらさつきはまた己の知らない所で、何かをひとりで解決したのかもしれない。
今までの事を思うと、あまりいい予感がしなかった。

己の部屋で佇むさつきはしかし、先程と変わらない柔らかさで桐野に笑いかけ、部屋に誘ってきたのだった。
しかし答えを返す前に逃げられ、仕方なく褥の上で仰臥するとすぐにさつきが戻って来る。
随分と疲れていたようで彼女は何も言わずに懐で丸まるようにして寝てしまい、やはり話す機会を失ってしまった。

そのまま眠れず、襖の向うから掛けられた志麻の声にそんな時間かと気付く。
起きるかと声をかけた時のさつきは寝ぼけていたのか、傑作だった。傑作で…

もっと知らない面を見たい。近くで触れたい。
挨拶を声に乗せ、少し固まっていたさつきの側によると、腕を確かめ、首に巻かれたハンカチを緩やかに解いた。
当分残るであろうその跡に指を滑らせる。

「…良かった…」

最悪の事態に至らずに済んで。小さく零れた声は揺れていた。
「きぃさん」、と突然両手を握られ伏せていた視線をあげるとさつきは困ったように笑う。

「大丈夫だから。きぃさんが思ってるよりも私頑丈にできてる。こう見えて結構丈夫なんだよ?」
「きぃさんが約束しろっていうなら私はちゃんと守る。それならこれから何も起こらないでしょ?」
「だから、大丈夫だから、…心配しないで」

桐野は舌打ちしたくなった。
元に戻っている。
なんということだ。昨日桐野が部屋に戻る迄の僅かな間に何があったというのか。
近付いたと思ったのに一夜開ければ今までより質の悪い壁ができていた。
しかも、さつき、と声をかけ話そうとした桐野を不自然に遮るとさつきは部屋を出て行ってしまったのだ。
肝心な時に話す機会さえ与えられない。

「…ふ、はは…」

声をかけても振り返らなかった後ろ姿に嗤いが漏れた。
開きかけたと思った扉がまた閉じる。近付いたと思えば遠ざかる。
一体何度繰り返せばいいのだろう。

大丈夫。心配しないで。気にしないで。昨日、茶屋でも聞いた言葉だ。
さつきは既に桐野を赦している。
赦しているから笑いながらそういう事が言えるのだ。それは同時に謝罪も理由や言い訳もいらないという事。
そして、それは赦してはいるがこれ以上距離を縮める事は許さない。…そう言っているのと同じ事だ。
なんと手酷い拒絶だろう。
流石に堪えた。桐野相手になんという強情、我慢強さ。
従弟と同い年の女にここまで振り回されるとはお笑い草だ。

「…………」
静かに目を閉じる。
さつきが欲しいか否か。
執着がないのならここで切り離した方がいい。己のためにも、さつきのためにも。
出来でくっか?)
自問する。

さつきは既に桐野の生活の一部になっていた。内情はどうあれそう言えるほど側にいた。
そしてそれが続けばと、そう。

「…馬鹿じゃな」

単純で簡単な事じゃないか。答えはもう出ているのに何を迷うのか。己らしくもない。
欲しいのなら取りに行くだけ。それだけのことだ。

言葉で伝える努力は怠らない。
だがあのさつきの様子では聞く耳をもたないだろう。
それに言葉でさつきが欲しいと伝えれば、どう思っていたとしても今の状態なら彼女はきっと拒否せず肯首する。
しかしそれでは意味がないのだ。
桐野がさつきをどう思っているのか、腹の底から納得させなければ意味がない。
桐野がさつきをどう思っているのか、分からせるように態度で伝えるしかない。

その日から寝前の酒を止めた。
情けないところも格好悪いところもさつきには全て見せる。
また怖い目に合わせてしまうかもしれないが恐らく彼女は逃げないだろう。そう思ったのだが、やはりさつきはそれも受け入れた。
口付けにしても以前のような拒絶は欠片も見当たらない。
魘されて夜起こされる事もあったし、飛び起きて隣にいたさつきを抱き締める事があれば抱き締められる事もあった。
隣にいるさつきの顔を見ると酷くほっとする。
何も言わずに甘えさせてくれる存在は一種の快楽だった。


愛を語るように指先で触れればさつきの瞳は揺れる。
発する言葉の底にお前が好きだと意を潜ませればさつきは俯く。
そうしながら間近でさつきに接していると、桐野と彼女の間にある壁にひびが入るような瞬間が確かにあったのだ。そしてそれは少しずつ広がっている。
そのせいであるのか、最近のさつきはやや不安定になっていた。
それは桐野の感情が伝わっているからだと自惚れていいのかと思っていたのだが。

――きぃさんは…本当に好き。大事なの

「本当に好き、か…」

ぽつ、と灯りを消した部屋に落ちた言葉。
さつきは何をしたら”別府”にではなく己に面と向かってそう言うのだろう。


(11/11/02)(11/06/09)