23.判明する





ぐるりと視線を巡らせると見慣れた天井に調度。
ここは自分の部屋だ。

ジャケットはなかったがスーツのまま寝かされていて、時計も付けたままだった。
見れば針はさつきに真夜中だと教える。
道理で部屋はまだ暗く、隣で眠る桐野からは寝息が聞こえていた。

(帰って来たんだ…)

ぽつ、と胸に灯がともったが桐野が菊弥とふたりでいた映像を思い出すとそれはいとも容易く小さなものになる。
昨日は別府と出掛けて、今まで隠し通していた事を全部暴かれてしまった。
あんな話、聞かされる方もさぞ不快だったと思う。その上散々泣いて困らせて。

でも別府は最後まで優しかった。
好きになったのが別府だったら楽に幸せになれる気がする。泣いたり苦しんだりせずに、きっとずっと笑っていられる。
でも、なら別府を選ぶかと聞かれたらそれはやはり違うと思うのだ。
別府は好きだけれど、桐野がいい。

桐野が好きだ。別府の前で口にして一層そう思った。
桐野のために『側にいてあげたい』のではなく、自分が桐野の『側にいたい』のだ。
他の女性ひとを見ないで欲しい。
他の女性と関係を持たないで欲しい。もっと大事にして欲しい。
優しくされると欲と希望が生まれる。勘違いじゃない、桐野はこちらを向いている。そう思いたい。
…そう思えてしまう。
でもどんなに好きでもこの人は他の人のものだ。

何処に行っても世話をしてくれる女性がいるとか、お妾さんがいるとか、ここでは普通なのかもしれない。
しかしそれはさつきの考えとは相容れない。
この時代の価値観がどうでも、自分がいるのに余所に手を出すのはさつきにとっては浮気だし、他に女性がいるのにこちらに手を出されるのもごめんだ。
浮気されるのも、浮気相手になるのも嫌なのだ。
今は少しイレギュラーな気がするが、今桐野は村田さとと付き合っている訳ではないのだから、浮気ということにはならないだろう。

それでも、さつきは村田さとから桐野を奪う気にはならない。
色々と事情があることもあるが、そこまでして強引に手に入れたいとは思わなかった。

(そう言えばさとさんの話、うやむやで終わっちゃったな…)

歴史が変わるというなら、さつきが辺見に拾われて桐野邸に来た時からだろう。どんな未来になるかは神のみぞ知る。
だからお前が気にするような事はないと、言葉にこそしなかったが別府は言外にそう言ってくれた。
その気持ちは嬉しかったけれど、さつきがこの世界の異分子である事には変わりはないのだ。
桐野はこの世界の人と結ばれる方がいいに決まっている。
その方がいいに決まっている。


「…………」
指先で目の前にある顎に触れる。
さりっとしたひげの感触に少し指を滑らせると桐野の口端が軽く上がった。

「起きた?」
薄く開いた目がこちらを向いたのを見てそう聞いたのだが、一拍の後、
如何いけんした?」
何を問われているのか分からず沈黙すると、
「泣きそうな顔しとる」
桐野はそう言いながら俯きかけたさつきの顎を指で掬った。

体を起こした桐野につられさつきも座る。
すると言葉もなく顔を覗き込むように見つめられ、耐えきれずに顔を逸らすと桐野は声を立てずに笑った。
ちらん、とそちらを見ると桐野はまた目を細めて笑う。
雰囲気が酷く柔らかく甘い。

(ど、どうしたんだろ…何があったのかな?ていうかすっごくドキドキしてきたんだけど)

少し視線を落とすと顔にかかる髪を耳にかけられ、そのままごつごつした掌が頬の輪郭をなぞる。

「あの、何かあった?」
本当に何かあったとしか思えない。様子を見ると悪い事ではなさそうだが。
「あったと言えばあったな」

ふ、と小さく零す桐野にさつきは菊弥のことかと思う。
それなら帰って来なくてもよかったのに。なぜ桐野はここにいるのだろう。
ぎゅっと胸が締めつけられた。
(…私は嘘つきだなぁ…)
帰ってきた桐野の夢を見て嬉しかったくせに。起きた時本当に隣に桐野がいて嬉しかったくせに。

しかしそんな思いを押さえこんで、
「そっか…」
笑うと桐野の口から吐息が漏れた。肩が跳ねる。面と向かって吐かれる溜息は怖い。

「汝な、昨日の事は覚えちょらんか」
昨日…?別府と出掛けて、いつの間にか帰って来ていた。気が付けば今だ。

(そういえばどうやって帰って来たんだろう)
帰る道中の記憶が全くない。
ふわふわ宙を浮いているような感覚と、夢だし…別府にだしいいやと桐野が好きだと散々口にした記憶は、おぼろげながらあるのだが。

(ん?夢…?…夢だよね、うん)
あんなこと面と向かっては絶対に言えない。
覚えていないと首を左右すると、「そうじゃろうな」と目の前の男が苦笑する。その反応に困惑して眉を寄せた。

「えと、…私何かやらかしました?何も覚えてないんですけど…」
昨日は取り乱しはしたが飲んでないから酔ってはいない。しかし桐野の反応を見ると、記憶がない時間に自分が何かしたとしか思えなかった。
「いや、…」
答えを与えられないまま桐野の親指が目元を何度か往復する。
さつきはされるがままに桐野の顔を見つめた。

「俺は汝を泣かせてばかいじゃな」
「え?」
「無理せんでよか。これ以上我慢もするな。汝が気張っちょるんは皆知っちょる」
「きぃさん?…どうしたの?」

問い掛けに返事はなく、代わりにその指が唇に触れた。
怖くはないが桐野の雰囲気に若干びくびくしてしまう。しかしなぜか目は逸らせなかった。

「嫌か?」
「…や…じゃない…」

そんなこと、今まで聞いてきたことなかったのに。
近付いてくる桐野に目を閉じるが、唇に感じたぬくもりはすぐに離れていく。
コツと額同士が軽く当たり薄く目を開くと双眸を閉ざした桐野がそこにいて、何故か無性に泣きたくなった。

(あー…ヤだ、きぃさんの前で泣きたくないのに…)
本当に以前より脆くなっている。
ダメだと思うのに視界は意に反してじんわりと滲んでいく。
子供じゃあるまいしこんな風に泣くなんて桐野を困らせるだけだ。

「さつき」

耳に届くか届かないかの音量で空気を震わせると、桐野はさつきの頬を両手で包んだ。

「な、俺の目の前におる女はいけんしたら笑う?何をしたら喜ぶ?…教えてくれ。前のように笑う顔が見たい」

さつきは目を瞠った。

(笑う顔が見たい?…私の?)
唐突な桐野の言葉の意味が分からない。だって、それではまるで。

「悪かった。汝の優しさと強さに甘えて謝りもせず酷いこっばかいした。苦しんじょるんも、泣いちょるんも知っとった。汝にとっちゃ俺は最低の男じゃろう。じゃが…」
まるで桐野は自分を、

「それでも…俺は汝が欲しい」
好きと言っているように聞こえる。


「…きーさん……わたしのこと、好きなの?」


どこかから剥離したようにぼろっと言葉が落ちた。唇がわなないている。

「…ああ、わっぜ好いちょる。大切にしたい」
「うそ…」
何故ないごてな」
「だって、そんなはずない」

桐野には村田さとがいる。そんなこと言う筈がない。それに、

「だめだよ…」

言葉と共にぼろぼろと大粒の涙が落ちた。
気にするような事はないと励ましてくれた別府を思い出しても、気持ちを自制する事は止められない。

それに昨日の今日で一体何だというのだろう。自分は何か悪い事でもしたのだろうか。
(ああそっか…)
きっとまだ夢を見ているのだ。目が覚めたと、起きたのだと思ったがそれが違っていたんだ。
それなら分かる。

「…キスしていいかとか、好きだって言うのは夢だから?」
そう、夢だから。なんて質の悪い夢なんだろう。
「おい?」
最悪だ。
「酷いよ…」
目の前にある顔に手を伸ばす。そっと触れた頬は夢とは思えないほど温かだった。

「じゃあ私もキスしていい?好きだって言ってもいい?夢だもんね?…大好き、でももう無理、辛い。しんどいよ。きぃさん何で私のこと抱くの?抱き枕?誰かの代わり?」
「違う!」
「誰でもよかった?」

泣きながら笑うと桐野が顔を歪める。

「さつき、それは、違う」
「…違わないよ…」
「………」
「あなたの強くて弱くて甘えたなところが好き。カッコ良くて子供みたいでかわいいところが好き。でもそれを見せるのは私じゃなくて誰か他の」

言葉の途中で、ぱんっと軽く頬を打たれ、ぼんやりと桐野を見やる。
夢にしてはやけにリアルで痛い。
そしてまた怒らせてしまった。夢の中であってさえこの人を怒らせる自分は一体何なのだろう。
笑いたくなる。
「さつき、聞け」
押し殺した声に俯くと、両腕をぐっと掴まれる。

「こいは、夢でんなか」
「……」
「現実じゃ」
「うそ」
「嘘じゃない。さつき、逃げるな。いや、逃げんでくれ」

「言い訳はせん。汝が好きじゃ。汝に側におってもらいたい」

桐野は今何と言った?好き?側にいて欲しい?

「さつき」
「…だめだよ…でき、できない!」

それと分かるほど声が揺れ、体が波打っている。
怖い。怖い。怖い。
好きだと言われて嬉しいどころか恐れていた事が現実になった事に戦慄した。
身を捩って桐野の拘束から抜けようとするも逆に抱きすくめられてしまう。

「や…、やだ!怖い!」
「さつき、落ち着け」
「いや…!」

暴れたがぐっと胸板に押し付けられるとそれも敵わなかった。
「ほら、大丈夫、大丈夫じゃ」
背中に回された桐野の手が上下にゆっくりと往復する。
逃げようとしたくせに触れる桐野の体温に酷く安心した。
それだけ身近にいたのだ。もはや触れあう事はさつきにとっても桐野にとっても普通で、日常になっていた。

(……っ、)

その事実に今更ながら背中に冷たいものが落ちる。

村田さとの身代りだった筈だ。
それなのに、まさか桐野が自分を好きだと言いだすなんて。
始まりは仕方ない。不可抗力だった。
しかしそこから今までのどこかで選択を間違えたというのか。

「わた、どうしよ…ご……なさい、ごめんなさい、ごめんなさ、」
「おい、何を謝る?汝には謝る事なんぞなかろうが」
「なんで?見てるだけで良かったのになんでこうなるのかな?好きになるのもダメだった?それなのに好きになったから、……」
「おい、」

ひとりごとか自問のように呟くさつきを目にして桐野の眉間にはどんどん皺が寄っていくが、さつきは気付かない。

「…ごめんなさい」

ぼたっと大粒の涙が落ちるや、
「さつきっ!しっかりしろ!」
大きな声に体がびくりと揺れ、目の前の桐野に焦点が戻る。

「なあ、何がいかん?何が怖い?言うてみやい」
体を離した桐野の顔を見上げると、彼の表情もまた歪んでいた。そんな顔させたくないのに。
「俺が怖いか?俺では不足か?」
まさか。そんな事考えた事もない。首を左右すると、答えを待つ桐野に口を開いた。
「違う…私が、きぃさんにふさわしくないんだよ…」
「…それは俺が決める事じゃ。それにな、そう言うなら俺は罪人の子じゃぞ。俺の方が汝にゃふさわしくないかもしれんな」

その言葉に驚いて目を見張ると、桐野は可笑しそうにふっと笑った。


(11/11/06) (11/06/14-29)