24.降伏する





(――怖い…)

作っていた壁を桐野は簡単に飛び越えてきそうで。
今まで必死に守ってきた壁の根拠を、桐野は簡単に否定してしまいそうで。
先程とは違う意味で震えが生まれる。

「ちが…そうじゃない、違うよ!私ここの人間じゃない!本当はここにいちゃいけないの!!」
「……」
「きぃさん、だから、私といたらダメなんだよ。だって出来る筈だった桐野利秋の子孫がいなく」
「さつき」

話を途中で邪魔して、こちらを覗き込んだ桐野は緩やかに笑っていた。

「……どうして笑うの…?」
「そげん事、大した事でんなか」
「っ、大した事だよ!」
んにゃ、些事じゃ。……さつき、汝な本当にほんのこて俺のこっバ好いとるんじゃな」

カッと頭に血が上ると同時に桐野の頬をぶった。
利き手で、思いきり。

「…ひどい…」

そう思うのは桐野の言が本当のことだからだ。桐野を大切にしたいから優先したい。そう思ってのことなのに。
この場面で笑いながらそんな言い方、いくらなんでも酷過ぎる。

さつきは濡れた頬を袖で乱暴に拭うと、この場を去ろうと腰を浮かした。が。

「ああ、知らんかったか?汝が好いちょる男は酷い奴じゃ。汝が一番知っとろうが。じゃがな、」

「そいでもヨカち言うなら、汝に全部くれてやる」
「え…?」
「その代わりな、汝を俺に全部くれんか」

簡単にそう言い切った桐野を呆然と見つめる。
だめだ。断らないと。今すぐ断らないと。そう思うのに、

「…………それは…断れるの……?」

口から零れたのは曖昧な言葉で。
「できたら断らんでもらいたいがな」
片眉を上げて苦笑いする桐野に絆されていくのが分かる。
(だめ、だめ、だめ、ダメだよ…)
どん、どん、どんと未経験のリズムで心臓が跳ねる音が聞こえた。
「さつき」
酷く揺れる瞳を見て桐野が微笑し、それにまた心がぐらつく。
「こら、泣くな。俺は汝が好きで、汝は俺を好いちょる。それだけでヨカじゃろ。他にはいらん。難しく考えるな」

「出来る筈だった子孫がいなくなる。確かにそうかもしれんが俺は出来るかも分からん子供より、今、目の前におる如月さつきが欲しい。そいではだめか?」
首を振って子供のような否定しかできないさつきに、桐野は呆れるでもなく話しかける。

「ならな、さつき。汝が自分の世界からここに来たんは、俺に会うためじゃったとは思えんか」
「…!」
その一言に驚愕して桐野を見ると、彼は一層笑みを深くした。
「俺はそう思うちょる」
「…………」

「さつき、俺が欲しいか?」
「…………欲しいって、……いって、いいの…?」
「ああ」
「本当に?」
「ああ」

本当にだめなんだとか、誰かの代わりなんでしょうとか、その一瞬だけは何もかもが消えた。

「大好き……ぁ…なたが欲しい」

言葉を消え入りそうな声に乗せると、桐野は今まで見たこともないような柔らかい顔で嬉しそうに笑った。
すっと頬に触れた掌が背中へと回り、ゆっくりと抱き締められる。

「やっと手に入れた…」

え?と聞き返すと「何もなか」とやんわり誤魔化され、されるがままに体を預け凭れかかると、桐野はそのまま後ろの布団に倒れ込んでしまった。

頭上から感じた密やかな笑いに、胸が締め付けられるかのように痛む。
本当に、本当にこれで良かったのだろうか。
好きな人があそこまで言ってくれて、自分を欲しいとまで言ってくれて嬉しくない訳がない。
しかしそれよりも怖いという思いの方が勝っていた。

(本当にきぃさんに会う為に明治ここに来たの?)

桐野はそう言ってくれたけれど本当に?
信じたい。
でも信じられない。都合が良すぎて。
信じたい。けど怖い。

(――怖い…)

理屈ではない感情の問題で、桐野や別府の言葉を素直に受け入れるには、さつきは今まで心を圧迫しすぎていた。
もはや正体がよく分からなくなってきている恐怖が先立ってしまう。
背中に置かれた掌にドキドキどころかドクドクと嫌な風に心臓が早鐘を打っていた。
(やっぱりだめだよ)
ぎゅ、と桐野の襟元を握りこむ。

「さつき」

その声にふと顔を上げると、映る桐野の顔は滲んでいた。
「汝はよう泣くなァ」
そう桐野は困ったように微笑すると、片方の手で胸元にあるさつきの手を握り締めた。ゆっくりと指が絡み、
「…大丈夫、怖くない。ほら、大丈夫、大丈夫じゃ」
とん、とん、と空いた手が背中を柔らかく跳ねる。

「なあ、一緒にいたら駄目じゃち思うて、そいにそげに怖がっちょるんに何故ないごて俺の側におった?」

応えずにまた元通り胸元に頭を預けると、目を閉じて胸板にぺたりと片耳をつけた。
桐野のゆったりとした鼓動が鼓膜を揺らす。

「なんでかな…」
「誤魔化すな」
「…きぃさんはひとりでも平気だけど、そうじゃない時もあるでしょ?…だからだよ」

ソーカ、と一言零すと桐野は言葉を切った。




(答えになっとらん…)
自分と関係して桐野の子孫ができなくなるのが困る。できるかもしれない桐野の子孫ができなくなるのが怖い。

さつきは異世界人だ。そう考える心は桐野にも理解できる。
しかしそう思っているのに桐野が…寂しくないように側にいる? 
矛盾している。

弱さを補い支えるためにと触れあう時間が長くなるほど、心は側にいる人間に対して無防備になっていく。
ましてや桐野は元々さつきに好感しかないのだ。
始まりこそ酷いものだったが、さつきも桐野を受け入れ今まで互いに随分と深い所までを許してきている。
時間と共に相手に向ける情が深く濃くなるのは当然の成り行きだといえた。
それに言葉こそなかったが、桐野はそれを態度で示してきたつもりだ。
そしてそれを感じていたからこそ、さつきの気持ちも揺れていたのだろうに。

そんな状況にいて、曖昧なまま関係を続けたい、続けられると思うのは、さつきの甘さだろう。
人間の感情はそんなに簡単に割り切れるものではないのだから。
現にさつきは言葉にしていたではないか。
――大好き、でももう無理、辛い。しんどいよ。
と、そう。
相反する理性と感情の衝突に彼女自身がもう限界を感じていた筈だ。

さつきが自分を好いていることは間違いない。自惚れではなくそう思う。
しかし、もしかしたら彼女はまた自分が知らない所で何かを考えているのではないだろうか。
桐野はそう思った。
怖いという思い以外に、まだ何かあるのだろうか。

(そう言えば)
ふとあの言葉の続きを思い出す。
あの後、彼女は「何で私のこと抱くの?抱き枕?誰かの代わり?」、そう繋げたのだ。
即座に否定したが…
「誰かの代わり」とは一体何の事なのだろう。
覚えがなかったが、もしかしたらさつきは自分を誰かの身代りか何かだと思って桐野に抱かれていたのか。
(無理、辛い、しんどい、か…)

「さつき、汝は誰かの代わりじゃナカぞ。言うとくが余所に女もおらん。汝が来る前に全部切れちょる」

えっと驚いたように顔を起こしたさつきを隣に寝かせると、腕を枕にして桐野は横になった。
「でも…菊弥さんとか、」
軽く眉間に皺が寄ったのを見て口を噤んださつきに、桐野は「あれは違う」と否定した。

菊弥は確かに気風がよくて男勝りの良い女だった。
一時期男女の関係であった事もある。今でも決して嫌いなわけではないが、情が濃すぎるのと少々粘着質であったのには閉口した。
さらに芝居小屋でのさつきへの仕打ちで興が覚めたのだ。
そして昨夜、料理屋で己を追い掛けて来た菊弥の相手にはなったものの、その場でもさつきの事に言及しようとした執着の強さに桐野は辟易してしまった。




桐野はひとつ息を落とすと軽く身じろぐさつきを強引に引き寄せた。
「痛いよ」
「ん」
拘束が緩むのと同時に「他に気になる事は」と問われ、目の前にある顔を見上げるとぱちりと視線が重なった。
「…俺も汝も言葉が足りんからな」
そう、苦く笑いながら訥々とこれまでの桐野利秋の歴史を教えてくれた。

薩摩の貧しい武家の出身である事、父が政治犯、遠島となり貧しさに拍車がかかった事、兄が早くに亡くなり桐野が青年期から一家を支えていた事。
京都で偉い学者を切り殺し今はそれを後悔している事、戊辰戦争の事。

そして夜中に何を見るのか、何に魘されているのか。東京に落ち着いてから今まで、共寝をした女性を何人も苦しめた事。
さつきには本当に悪い事をしたと思っている事、それでも側にいるのが心地よくて手放せなかった事、単純な好意がどんどん愛情に変わっていった事。

「泣くな」

笑う桐野にさつきは首を左右した。
桐野はほつれた糸を少しずつほどこうとしてくれている。その思いやりが嬉しい。
そして、それで分かってきたのは桐野は誰の代わりでもない、随分前からさつき自身を好きでいてくれたという事実だった。
桐野がこちらを向いていると感じたのは気のせいではなかったのだ。
さっきまでは怖くて泣いていたのに、嬉しくて涙がこぼれるのは悪い事だろうか。
怖い。
どんなに言葉を重ねられても、何と言われても怖くて堪らない。
しかしここまで気持ちの奥を見せてくれる桐野を無下にできるほど、さつきは心を凍らせる事はできなかった。


「きぃさん…私ね、浮気とか二股はダメです。許せない。一夜だけとか体だけだからとかもだめ。私は私だけを見てくれる誠実な人じゃないと嫌です」

突然の言葉に桐野の瞳に何を言うのかという疑問が浮かぶ。
「他に好きな人、いませんか」
「おらん」
「…本当に?」
「何故そげん事ば聞く?」
「…うん…。本当に、信じていいですか?」
「ああ。大丈夫じゃ」
「…なら…側にいてあげる」
そう言って無理矢理笑ってみせると、桐野もホッとしたように顔を綻ばせた。


「力一杯叩いたからきっと腫れるね」
「そりゃ汝もじゃろ」

頬に手を伸ばしたさつきを余所に、「冷やすか」、桐野はおもむろに立ち上がると自室へと戻っていった。
ぽかんとその後ろ姿を見ながら、その内戻って来るだろうと寝巻に着替えなおすことにしたのだが。

「あの、着替えにくいんですが」
「今更じゃろうが。気にするな」
「え、いや…それとこれとは別っていうか」
「手伝うか?」

手近にあった枕を投げると桐野が大きな声で笑い、釣られてさつきも少し笑った。
以前もこんな風に笑い合う事は多くあった。
そんな昔の話でもないのに、一体どれくらい久しぶりだろうと思ってしまう。
だが桐野に向ける笑顔の裏でさつきはこうも思うのだ。

(神さま、短い間だけでもいいので許して下さい)

元々見ているだけで良かったのに、それがどんな巡り合わせかこんな関係になってしまった。
ここまでは望んでいなかったのだから、もうダメならダメでいい。罰が当たるなら当たるでいい。
それはそれで構わない。しかし、

(……さとさん、ごめんなさい)

セピア色の写真の中で桐野の隣に座っていた彼女を思うと体が震えた。
他に好きな女はいないと言った彼が嘘をついているようには思えなかったけれど……
側にいてあげると言った。しかし村田さとの存在を思うと、自分がこれからもずっと桐野の側にいられるとは到底思えなかった。


さつきは今まで時間をかけて、強く心を押さえつけ殺していた。
そうであるから、桐野から伝えられたことに救われはしたが、その僅かな間で、これまでの心の屈折や鬱屈全てを消し去ることまではできなかったのだった。
心が正と負に分けられるのなら、前は圧倒的に負であったが今はその比率が随分減っている。
…減ってはいるけれども、なくなってはいない。
桐野の気持ちが嬉しくて堪らないのに、

(今だけ、今だけでいいから側にいさせて)

と、そう、先程まで主であったマイナスの事を考える。
心はやはりふたつに分かれたままだった。

(ごめんなさい…)

その謝罪はさとに向けたものなのか、桐野に向けたものなのか、さつき自身にもよく分からない。
心に明るさは若干戻ったけれど、そのせいで逆に今まで以上に陰陽の気持ちが複雑に交じり合う、そんな気持ち悪さがやけに引き立った。




「ほら」
ぺたりと目元を覆う手拭いの冷たさにほっと息が洩れる。気持ちいいと思うほどには瞼も熱を持っているらしい。
「寝っか」
そう言う割には桐野は肘枕で笑いながらさつきにちょっかいをかけてくる。唐突に唇が重なり、驚いたものの、そのまま覆いかぶさって来る桐野の背中に腕を回した。

「寝るの?」
「疲れたじゃろ」

うん、と返す。そうだ。今日は酷く疲れた。
桐野は本当に何もする気がないようで、ただ単にこの雰囲気を楽しんでいるようだった。
機嫌が上向いているのが手に取るように分かる。
僅かに罪悪感が湧いたものの、つい笑ってしまうと頬に桐野の手が触れた。

如何いけんした?」

柔らかな笑みを含んだ声と共に、指先がゆっくりと頬をなぞる。
それは本当に何気ない、今まで数え切れないほど繰り返されてきた動作だ。
それなのにヴェールが剥がれた途端、今まではぼんやりとしか感じられなかった意思がそこから伝わるのをはっきりと感じる。

――真綿で包むように、優しく大切に。
思えば今までもずっとそうだったのだ。そこに潜む意を理解する事を拒否していただけで。
言葉は少なくても桐野の指先は雄弁だった。

そこでハッとした。

(もしかして、…)
自分はこの人に一番残酷な仕打ちをし続けてきたのではないだろうか。
周囲に対しては表面を繕って桐野とは問題ないように見せかけて、当の桐野には体だけを与えて壁を作って。
確かにこんなことになった始まりも原因も桐野にあった。しかし桐野はその理由を話そうと何度も水を向けていたのに、それを避け続けてきたのは自分だ。
それがいつの頃からか優しさだけでしか接してこなくなったこの人を一体どれだけ傷付けてきたのだろう。
弱さも持っている人だから一緒にいようと思ったのに、側にいる事で却って一番酷い事をした。
それなのに桐野は何も言わなかった。ただの一言も。

「……ごめ、ごめんなさい」

唇から零れた声は震えていて、桐野がぎょっとしたのが分かる。
慌てた手つきで目元の手拭いを取り払うと、桐野が顔を寄せた。

「ん…何故泣く?」
「きーさんごめんなさい、わた、私酷い、今まであなたに本当にひど」
「もう済んだ事じゃ」

桐野は言葉を途中で遮ると、

「そいに元は俺が悪い。さつきには悪い所はひとつもなかど。ほら…もう泣くな。泣き虫じゃなあ」

笑いながらさつきの頬の雫を指の腹で軽く拭う。



(…嫌な事は全部忘れよう)
村田さとの事も、罪悪感も、嫌な事悪い事も、全部。そう思った。
自分を見てくれる桐野にちゃんと応えたい。
怖いと思う気持ちが消える事はないと思うけれど、隣にいる事が許されている限りは桐野ときちんと向き合いたい。
いきなりは無理でも、少しずつ負の思いを小さくしていければいい。
それにさつき自身もいい加減目の前にいる桐野を素直に愛したくなってしまった。

「きぃさん」

名前を呼んで軽く唇を合わせると桐野がやや驚いた顔でこちらを見ていた。
そういえばいつも受け身で、こちらからは初めてだったかもしれない。
気恥ずかしくなって両腕を桐野の首に回すと、引き倒されるように桐野の体が軽くのしかかり、やがて密やかな笑いが耳元をくすぐった。

「…ほんとに大きな子供みたい」
いつかと同じように言ってみれば、桐野は別段気分を害するでもなくゆったりと笑い再び唇を重ねた。

「子供はこげんこっせんじゃろ」
「子供はこんな事しませんね…」

くすくす笑う桐野に、また気持ちが温まる。
体も心もドロドロに疲れていたが、桐野の隣にいて、こんなにもすっきりした気持ちで夜を過ごすのは初めてだった。


(11/11/20)(11/6/16-7/3)