26.懸念する





「どっか行っか」
軍服のジャケットを手渡された時にかけられた言葉に、
「出掛けるんですか?」
帰って来たばかりなのに今から?とさつきが首を傾げると、
んにゃ。今日でんナカ。それにわいとじゃ」
「私も?」
「どこがヨカな?希望は」
「き、希望?えーと?」
いきなり言われても思いつかない。

さつきが考え込むような素振りを見せると、「考えておけ」と桐野は口元だけで笑った。


「――でさ、これってデートじゃない!?」
「…でーと?」
「どうしよう、何着ていこう?」
「何処に行くんじゃ」
「何処に行こう!」
「……」
「はい!辺見先輩!」
「(先輩?)何じゃ」
「先輩なら何処に行きたいですか」
「あ?あー…池之端の」
「池之端?随分近いね」
「出会茶y「ちょっと」
「お勧め教えてやろうか」
「いらない!必要ない!ノーサンキュー!!ちょっと何で腹抱えて笑うの!もう!!」
「あっはははは!…こら!痛い!抓るな!」

桐野との関係が落ち着いてから辺見はさつきをよくからかうようになった。
以前のようにヘンに周りに気をつかわせる事もないし、からかわれると言っても相手に悪意がある訳ではなく、気分が悪くなるようなものでもない。
ムキになって返してしまうのはただ少し気恥ずかしいからだ。向うもそれが分かっているようだから、尚更恥ずかしい。

「芝居小屋は」
「え?」
「行き先。前は途中じゃったんじゃろ」
「うん」
そうだった。あれはあれで、凄く楽しかったのだけれども。
「歌舞伎は…今はいいかな」
大丈夫だとは思うのだけれども、また菊弥と出くわしたらと思うと怖い。
芝居小屋で偶然再会する可能性など低いだろう。しかし、顔を合わせる事があるのならもう少し間を置きたいというのが正直な所だ。菊弥に関しては芳しからざる記憶しかない。
「でも、少し賑やかな所がいいな」
「賑やかな所なぁ」



「浅草?」
見たい芝居でもあるのかと質してきた桐野にさつきは首を振って否定した。

「どこかで時間を潰すんじゃなくてね、ぶらぶら話でもしながら歩けたらなーと」
「歩く?そいでヨカな」
「よかですが…」と、ちらりと桐野の顔を覗き込むと意外そうな色を浮かべた瞳とかち合う。
「汝にゃ欲がないんか」

明確な行き先がない事がそれほど不思議なことなのだろうか。
さつきこそ首を傾げてしまう。
それにしても欲って。そんな大袈裟な。

「あるじゃろう。反物が欲しいとか」
「縫えないし」
「着物は」
「今あるので十分です」
「店を持ちたいとか」
「え、何言ってんですか。そんな才覚ありませんってば」

ころころと笑いながら言うと桐野が軽く息を吐いた。

聖人君子ではないからさつきにも人並みの物欲はある。
しかし今の恵まれた環境を思うと現代のように特に買いたい物がある訳でもなく、また欲しい物をねだってまで手にしたいとは思わなかった。第一明治ここで欲しいものというのがまずもって思い浮かばない。
寄る辺など全く無いのに、さつきは明治ここに来た当初から衣食住にも不自由していない上、恋人までいる。…一応。
これ以上欲張ると本当に罰が当たりそうだと思う。

「私はきぃさんと皆が元気でいてくれたらそれでいいかと」
「汝は尽くし甲斐のない女じゃなあ」
「え、尽くし甲斐って…何ですかそのしみじみとした口調は…楽な女でしょ?それとももう少し我儘な方がいいですか」
「そうじゃな……こら、むくれるな」
桐野が笑いながらぽすぽすと布団を叩くのでさつきはその側に座った。
「どうせ可愛げはありませんよ」
途端に吹き出した桐野を軽く睨みつけても、その笑いは大きくなるばかりだった。

「簪くらいなら…買わせてもろてもよろしゅごあんどかい」
聞き慣れない桐野の丁寧な言葉にさつきは眼をぱちくりさせたが、
「(それくらいなら…)苦しゅうない、許してつかわす」
冗談めかして言えば。
「は!あっはははは!そりゃよかった!」
「えっ?」
立ち上がり机の抽斗から取り出した小さな桐箱を桐野から渡され、促されて蓋を開ける。

「これ…」
浅い飴色から深い焦げ茶へとグラデーション掛った色合いの二足撥形の簪だった。牡丹が彫られている。
「鼈甲?」
安いものではないだろうが、ちょっと高そうだなと思う位でさつきにはその詳しい価値は分からない。

「偶然な、見つけた。汝は珊瑚や螺鈿が入ったモンよりこういう方が好きじゃろう。…いらんか?」
日本髪は結わなくてもそれなら付けられるだろうと桐野がさつきの髪に触れる。それを自分で捩じり上げて夜会巻風に髪を留めれば、
「器用じゃなあ」
ゆったりと空気を震わせて笑う桐野にさつきは睫毛を伏せた。

(ホントに、…)
こんなこと、してくれなくてもいいのだ。
何もいらないというのは嘘ではない。
何かを望めば、桐野がすぐにでもそれを叶えてしまうだろうと簡単に予見できたからこそ、さつきは殊更に何も言いださないよう気を付けてもいた。
別に何かが欲しいから、何かをして欲しいから桐野の側にいる訳ではないのだし。
それでもいざこうして気にかけてくれる姿を見せられると喜びを抑える事は難しかった。

(嬉しい…)
「ソーカ」

声が出ていたらしい。
顔を上げると重なった桐野の双眸が細まる。それにぎゅうと心臓を掴まれる様な感覚に陥った。

「きぃさん、どうしよ、すごく嬉しい」

簪ひとつでえらく大袈裟だと笑うと桐野は簪を引き抜き、それをさつきに手渡す。
落ちた髪を手櫛で梳かすその手つきが酷く優しくて、唇から零れる声が少し震えた。

「だって。どうしよう…私を喜ばせても…私、何もできないよ?私は本当にきぃさんが怪我も病気もせずにいてくれたら、それでいいんです」
あと桐野が幸せであればそれでいい。



声を立てずに笑いながらさつきの髪をかきまわすと、桐野はその肩口に顎を乗せた。
無意識なのだろうか、桐野の目から見てもさつきは酷く遠慮がちで控え目だった。
ことこういう関係に至ってからもだ。
桐野は彼女から未だ要望らしい要望をされた事がない。
無理や我慢をしているのかと思えばそうでもなく、「みんなが元気でいてくれたら」というそれが本心であるようだった。

簪は桐野が友人の屋敷を訪ねた際、その妾が別室で相手をしていた小間物屋が持っていたものだった。
その行商は旧幕時代は大奥や大藩の藩邸の女中を主な商売相手にしていたといい、そこそこの高級品を揃えていた。
品物を覗きこんだ桐野に気があると見るや、すかさず品を出してくる。

話をしながら幾らかを見繕っている内に、戻って来ない桐野を探しに来た友人がその姿に驚き、面白がって別室にいる友人達を呼んだ。後ろからのっそりと現れた篠原国幹が、
「さつきか」
小さく零した声を拾った彼らに「菊弥ではなくてか」と突っ込まれ、小突かれながらある簪を手にしたのだった。

「地味じゃな」
後ろから声がかかる。
「女はもっと煌びやかなもんが好きじゃろ」
そうとも言われたが、一見地味にも見える鼈甲を選んだのは、それがさつきには一番合うと感じたからだ。

さつきには、真珠や珊瑚をこれよみよがしに並べたり、ふんだんに金や螺鈿を使った蒔絵等、派手なもので身辺を飾るイメージはなかった。
それに、そういうもの…一目で贅を尽くしたと分かる品物を渡せば、恐らく彼女は困った顔をするだろう。喜びも、するだろうが。

「面倒な女じゃなあ」
(んにゃ)、そうでもない」

確かに、これが以前までの女であったら面倒くさい事この上なかっただろう。
しかしさつきは今までの経緯が経緯でやっと手に入れた女でもあり、また彼女との関係が良い変化をしたことを桐野は喜んでもいた。
それにさつきが困った顔をするのは、そこまで望んでいないとか、負担になりたくないとか、要するに桐野のことを思うからで。
もう少し肩の力を抜いて気楽でいてくれれば良いのだが、だからと言って

「面倒とは思わん」
「ほー…」
「なんちゅうか、オハン変わったな」

そうだろうか。
顔を上げればにやにやした同僚がこちらを見ながら、「一遍顔を見てみたいもんじゃなあ」なんて軽口をたたいていたのだ。


簪ひとつでさつきからこんな反応が返ってくるとは、流石に桐野も思わなかった。
しかしここまで喜ばれるとやはり嬉しいものがある。渡し甲斐があるというものだ。
さつきには欲がない訳でもなく、生来淡白な訳でももないのだろうが、しかし、
(…聞き分けが良すぎる)
そうだ。
さつきは桐野の前では聞き分けが良すぎる。それが一番気になる所だった。

苦しめた期間が長すぎて、桐野がさつきの『普通で』接して欲しいと願っても今すぐには無理なのかもしれない。
彼女が肩の力を抜いて気楽でいられないのは、きっとそのせいでもあるのだろう。
だがさつきは最近では桐野に本当に明るい笑顔を向けるようになったし、驚くほどよく甘えてくるようにもなった。
一応は信頼されているという事も、その態度からは伝わってくる。

その半面、さつきは己を信じているかと自問すれば、…即答はできなかった。
さつき本人はそんな事をおくびにも出さないが、桐野は彼女にした仕打ちを忘れるわけにはいかなかった。
桐野は最初に己を信じていたさつきを一番酷い方法で裏切り、そして裏切り続けた。
普通の場合なら、信用云々どころか多額の金と屋敷を出ていく類の話になる筈で、今こうして共にいる事を許されている事が不思議な位なのだ。

そうであるから彼女の信用を元の状態にまで戻す、それだけの事にも時間がかかると思うし、それで桐野も腹をくくっている。
好きである事と信じられる事は、必ずしも繋がらない。
だが信用に裏打ちされない付き合いは長く続かないのも事実だ。
とはいえ、さつきはその気持ちの均衡を少しずつではあったが次第に取り戻しつつあり、ゆっくりと距離を詰めるように、徐々に彼女の心が近付いてきているのは桐野自身も感じていた。

さつきの愛情も、心からの信用も手にしたい。
そう思う身からすれば、これは思いの外早く訪れた大きな前進だった。

だが彼女はそんな状態にまで回復してきても、桐野に強く何かを求める事もなければ、我を通す事もない。
我が儘は相手に愛されていると分かっているからこそ、言っても嫌われないと分かっているからこそ吐けるものであるのに、さつきにはそれがなかった。

そこに、以前あったようにさつきがまた己が知らない内に心の奥で何か変な事を考えている…
何か良からざる思いを抱いているのではないかと桐野は疑ってしまう。
それもぶつけてくれたらいい、寧ろぶつけて欲しいのに、それがない。
(…まだ心からは信じられん、か…)
だからと言ってさつきを責めるような気持にはならなかった。
それは全くもって因果応報で、自業自得であったから。
だがそのさつきの態度に若干の寂しさと、――不安を覚えるのは確かだ。

桐野自身、さつきから大切にされている事は分かっているし、好かれている事も分かっている。
しかし彼女が何故か異常なほど桐野を優先しようとする、そこに思うのだ。
己が彼女を突き放せば、どう感じたとしても彼女はきっと言葉もなく簡単に離れていく。
そんな気がする。

思うに、さつきは桐野が何をしようが咎めないだろう。
桐野が余所に女を作っても、きっと何も言わない。
「桐野が望んでいるから」、恐らくそんな言葉で片付けて。
以前彼女は「浮気は嫌だ、許せない」とは言っていたが、しないでとは、言葉で桐野を縛るようなことはしなかった。
だがそれは「そんなことしないと信じてるから」とか、そういった理由とは違う気がする。

ただ確かにさつきは本人が言うように、男にとっては恐ろしく”楽な女”だろう。
だからこそ思う。そんな女が口にするということは、恐らく本人にとっては余程のものなのだと。
ということはこれが最後の一線で、それを越えたらそこできっと全てが終わる。
さつきにとってはそういう類のものだということ、それだけははっきりと分かる。

さつきは桐野を好いていてくれる。それは分かっているのに、時々分からなくなる。
さつきと己の関係は本当に大丈夫なのだろうか。そう思うほど、まだ不安定だ。
信頼はされている。しかし一番肝心な部分は信じられていないような気がする。

目の前にいる女を見て、桐野は時々そう思う。
手に入れたと思ったが、注意していなければ意外と簡単に両手から零れ落ちていく類のものなのかもしれない。
振り向けばいなくなっている。それも己が気付かない内に――

そんな事が現実にありそうで背中に回す腕に少しだけ力を込めると、桐野の背中の後ろで簪を透かすように眺めていたさつきが笑った。

「きぃさん」
「ん?」
「明日楽しみ。これ、つけていくね」
「…おぉ」

問題などない筈なのに、腕の中で笑う女に不安が拭い去れないのは何故だろう。


(12/1/6)(11/08/18)
出会茶屋は御休憩専門ラブホ。上野池之端辺りは江戸時代は武家屋敷街でもありラブホ街でもありました。利用者は藩邸勤めの女中や大奥務めの女性が多く、だから武家屋敷の近くにある。割と世間の目を憚る関係(女中・歌舞伎役者とか大店の後家・番頭といった組み合わせ)のハイソが利用していた結構高級なラブホだったかと。明治六年頃は廃れてきてたみたい