28.上向する





「さつき」
長椅子に座ったままのさつきの前にしゃがみ込んだ桐野が膝の上の両手を握り込んだ。
怖かったかと尋ねられ、少し間を置いてさつきは首を左右した。
「だってきぃさんの友達でしょ」
「ああ。あいつら、屋敷に呼んでよかか?」
いいも何も桐野の屋敷だ。
さつきに断る事でもないだろうに。

「いや。汝の家でもあるじゃろうが。…ゆっくりで構わん、俺の交流まわりの事も知っていって欲しい」

まわりのこと。
そう聞いてさつきは知らずぎくりとした。
それは桐野にとってはさつきに周りの人間を紹介するというより、さつきを周りの人間に紹介するという意味合いの方が強いのではないか。

さつきにとって桐野は既にかけがえのない存在になっている。
しかし、深く関わる事が怖いという気持ちは以前と比べれば小さくはなっていたが、依然として残っていた。
それに村田さとの事があり、いつまででも桐野の側にいられる訳ではないとも心の底では思っている。
要するに心には揺れる余地がまだまだあって、しっかりと固まった気持ちを持っている訳ではないのだ。
それは「桐野をよろしく」と言われて、ちゃんと返事ができない所に如実に表れていた。
それなのに少しずつ自分の周囲が固まりつつあるように思えて、さつきの心には形容しがたい焦燥が生まれていたのだった。

「…………」

目の前で答えを待っている桐野にどう答えるべきなのか、いくら考えても言葉が生まれない。
「はい」と一言零せばそれで終わる筈なのに、なぜかそれはどうしてもできなかった。
何か、何か返さなければ。
思うほどに言葉が喉に詰まり、焦って落とした視線を少し上げ桐野と顔を合わせると、そこには苦笑いがあった。

「…そげん困らんでヨカ」

深追いもせず、咎める事もせず、何も言わずに立ち上がった桐野にさつきは弾かれるように腰を浮かす。

(……あ、…)
きっと桐野は拒否だと受け取った。
もし自分が桐野の立場なら、同じ態度を取られたらやっぱりショックだ。不愉快でない筈がない。
それに――もしかしたら傷付けた、かもしれない。
そう思うと、

「違うの」

思ったよりも大きな声が出た。振り向いた桐野にさつきは言葉を続ける。

「違うの、きぃさんの友達が嫌とかじゃなくて、そうじゃなくて、」
桐野の友人を拒否しているのでは無くて、ただ、そうだ。
今の心の状態で知り合い――しかもそれが桐野と親しい人間だ――の輪がこれ以上広がるのが、ただ少し、
「少し、怖いだけ」

最近の環境の変化が大き過ぎて、それにまださつきの心は追いついていない。
それに自分の明治ここでの特殊性が桐野の体面を傷つけはしないかという懸念。
そして桐野の隣にはいずれ村田さとが来るのにという思いももちろん心の奥底にはあるが、それはさすがに桐野には伝えられなかった。

「…だから、…別に嫌じゃない、だけど、その…ね、」
「ふ、ははっ」
「え?」
思わずといった風に笑い出した桐野を見上げると、目の前の男は益々大きく笑んで口を開いた。
「分かっちょる」
「………」
「そげん必死に言い訳せんでヨカ。俺が性急過ぎたな」
ホッとしたのがあからさまに表情に出たのか、それを見た桐野がまた笑った。

長椅子に桐野が座ったのに釣られさつきも座り直す。
「あいがとな」
「え?」
何に?こちらが謝りこそすれ、桐野に謝意を伝えられるようなことはなかった筈だ。
「否、汝な以前なら何も考えず『ハイ』ち言うたろう」 
「え、そう、かな」
「無理に俺に合わせようとするな。もっと正直でいいし、我儘でいい」
そう、嬉しそうに笑う桐野にさつきは首を傾げた。
(嬉しそう?なんで?)
「さつき、俺の言う事を拒否したのは初めてじゃろう」
「………」
「思うちょる事をもっと口に出せ。何が嫌で何がだめなのか、言葉で教えてくれ。…まあ、それは俺もか」

以心伝心?それは何年何十年一緒にいる誰かとだからこそできることだ。そんなもの今の自分たちでは到底無理だと桐野は言った。
お互いに言葉がないから相手の気持ちが分からない。理由が分からないから要らぬ誤解も生まれる。
それが桐野とさつきの関係がこじれてきた大きな原因だった。
現に今も行き違いで誤解が生まれかけたが、それをさつきが自分で解こうとし、実際に解いた。
それが桐野には酷く嬉しかったらしい。

「汝に無理強いはしたくない」
「うん」
「じゃっどん言うてくれんと俺には分からん。じゃっであいがとな」
「…私もきぃさんが怒ってない事が分かってホッとしました」
これだって言われなかったら分からなかっただろう。
「だから…ありがとうございました」

(な、なんか変な感じ…)
ふたりしていい大人が路上で何を言い合っているのか、途端に気恥ずかしくなり俯くと、
「あー…浅草についたら」
小さな声だ。聞き取り辛くてさつきは桐野に近付く。
「出会茶屋にでん行っか」
辺見さんと同じ事言わないで下さい
べちんと肩を叩けばそれを合図に桐野はげらげら笑って立ち上がる。
さつきもそれに続いた。



浅草は賑やかなまちだった。
特に何かがある訳ではないのだが、この賑やかさには心が浮き立つ。
「初めてだったか?」
浅草寺に参った後に聞かれてさつきは首を左右したけれど、明治に来て後ここに来たのは数えるほどしかない。
「気の済むまでゆっくり見ればいい」
可笑しそうに言えば、桐野は緩やかに歩を進めた。

あちらへ向かいこちらを覗いて特に目的なく歩きながら、さつきは少し後ろを歩く桐野を振り返っては話しかけた。
「こうして歩くだけというのも悪くないな」
「でしょー」
つまらなくないかと聞いたけれど、そうでもないようでホッと胸を撫で下ろす。
そんな時だった。

「あ、あれ…」
(すごく似合いそう、あの色)

ふらりと通りかかった店の前でさつきは立ち止まる。
ふと目に飛び込んできた反物。深く濃い緑で桐野によく似合いそうな色だった。
引きこまれるようにして店に入ると、出していたその反物をしまおうとしていた店の者がぎょっとした顔でさつきを見る。

「あ…、ごめんなさい。あの、それ見せてもらえませんか?」
「日本人…?」
「ええ、あの」
「…どうぞ」
怪訝な顔でさつきを見ながらしかし反物を勧めてくれた男に礼を述べると、さつきはそれに指を滑らせた。

「やっぱり…すごくいい色。それにこれ、すごくいいモノ」
小さな呟きに「おや」というように顔を上げ、次いで暫しさつきの着物に目を留めていた店の者に、
「…ですよね?」
さつきは笑いかけた。

桐野は大雑把に見えて実はおしゃれだ。
普段から比較的高い品質の物を身に着けているし、さつきに与えられる着物も、着物を見る目がないさつきにも良いと分かる代物が多い。
明治ここに来てからというもの、良い物ばかりに囲まれて暮らして目が肥えてきているのはさつき自身も薄々感じていた。
「私、この色がすごく似合いそうな人知っていて、それで」
「左様でしたか」
外国人のような女が流暢な日本語で品定めする様子に単純に感心したらしい店の者が相槌を打つ。

その様子にさつきは苦笑してしまった。
(…私日本人なんだけどな…)
それに日本人かと聞かれて肯定もした。
しかし店の奥からこそこそ覗かれている気配があり、また目の前にいる男からも珍しがられている様子がだだ漏れだ。
しかしそれでも先刻大通りで抱いたような感じの悪さを思う事はなかった。
こちらが引け目を感じて隠そうとするから余計に見たくなる、暴きたくなるという心理なのか。

気にするな、堂々としておけ、余計な事を考えるな。
桐野はそう言ってくれたが、本当にそうなのかもしれない。
現代だったら絶対に考えない事を考えて気に病んで、余計な所まで気を回しては最悪の事を考える。
そんな癖がつきかけている。そういう自覚はさつきにもあった。

――自分はこんなにネガティブじゃなかった筈だ。
身長は仕方ないが、髪の色なんて時間が経てば黒に変わるのだ。ある程度の長さがあれば、茶色い部分は切ったっていい。そうすれば外見についての偏見や、そこから生まれるコンプレックスは多少は消えていくだろう。

それに――
(悪い事してるわけじゃないし、それに…こういう風に普通に接したら)
現に店の人も、恐る恐るでも普通に接してくれているではないか。
志麻や幸吉、屋敷に出入りする人たちと同じように接すればいいのだ。
(今まで悪い方に考え過ぎてたのかな)
内に閉じ籠り過ぎていたのかもしれない。
そして、ふと思う。
(それなら…さっきのきぃさんの友人にも、構えずに普通に接する事ができるかも)
桐野の親友だからとか、環境の変化が怖いとか、そういうこと抜きでもっと気楽に、もっと普通に。
「怖いけど、お友達を呼んで下さっても大丈夫です」
今なら桐野にそう言えるかもしれない。そう思うだけでも、少し心が上を向いた。


もし、と声を掛けられてさつきはハッとする。
そうだ。反物を見ている途中だった。

「あ〜…と、…でもこれ高そうですねえ。私のお小遣いじゃ無理かなぁ…」
両手で広げるように反物を持ち、にらめっこするようにして顔を顰めれば彼は顔を伏せてしまった。
「それに私お針事苦手なんですよね」
反物を進められる度に縫えないと断ってきた手前もある。
諸々を考えてやっぱりダメかなと断りを入れようとしたら、
「…え、なんで笑ってるんですか」
「”江戸”の人間なら見栄を張って買うところですな」
「あー…残念。私田舎の一般庶民の出なんで仕方ないです。第一無い袖は振れませんし。見栄で買うの?江戸って怖い所ですねえ」
きっぱりと、しかしにこにこと後腐れのない感じの断り方が気に入ったのか、彼は今度は声を上げて笑った。
その反応にホッとする。
(やっぱり悪い方に考え過ぎてたんだ、きっと)
心が軽くなるようで、思わずさつきも笑ってしまった。


(12/1/22) (11/10/07)
浅草の仲見世は明治18年開設だそうです。江戸時代からあるのかと思ってたけど違うのね。