29.下降する





「さつき、急にいなくなるな。探したぞ」
「あっ…きぃさん。ごめんなさい」

店に入ってきて一言二言さつきと交わす桐野の様子を店の者は暫く見つめた後、反物に視線を落とすや、
「…確かに…」
「でしょう?」
「何がじゃ」
「ああ、こちらが……」
「あー!ダメダメ言わないで!」
首を傾げる桐野に説明を始めた彼を止めようとするも叶わず、先程までのやりとりは桐野に知られてしまった。

結局さつきが縫うように上手い具合に言い包められて、反物はお買い上げになってしまった。
店の者は桐野とさつきのやり取りには口を挟まず、微笑ましいものを見るような、何やら生温かい目でこちらを見ていた。が、それが自分が「物珍しい客」から「店に来る普通の(しかし恥ずかしい)客」に”格上げ”されたように思えて悪い気はしなかった。
(…きぃさんがお店に来た時点で何となくこうなるような気はしてたけど…)
予感が的中しすぎてさつきは苦笑いするしかない。
とはいえ別に縫うのが嫌な訳ではないのだ。
(うん。頑張るけどさ)
…着るに堪えるような物ができるかが心配なだけで。
それでも桐野が喜んでくれるのならそれもいいかとさつきは思う。


反物を屋敷に届けるよう手配している桐野を余所に、さつきはふらりと店を出ると近所の小間物屋を覗いた。
出掛けても屋敷の近所ばかりで頻繁に外出する事もなかったし、こちらで装飾品を誂えるつもりもなかったから小間物屋など今までゆっくり見た事もない。
物珍しげに店先を覗けば、櫛や簪の他に髪を結う際に使う元結や化粧品が並んでいた。

(簡易化粧品店みたいなの?帰ったら志麻ちゃんに聞いてみよう。…あ)

店先に並べられていた簪をひとつ手に取る。
鼈甲だ。多分。
「んー…ん〜…?」
思わず自分の髪に挿したそれに手をやった。どう見ても自分が身に着けているものの方が高級だ。
(というか、これ手触りが…)
全然違う。

「それ本物かい?すごい鼈甲だね。そんなのとうちのを比べられたら堪らないよ。よしとくれ」
店の奥からいきなり掛けられた声に振り向く。
本物?どういうこと。

「あの、これ?」
簪を髪から引き抜いて目の前の中年女性に差し出す。
彼女は「日本人?」と、さつきの顔を見、驚きながら訝しがりながらも簪を矯めつ眇めつし、小さく息を吐いた。

「あんたね……うちのは模造品。鼈甲が普通の店で扱える品物じゃない事くらい常識だろう」
それだってそこそこ名のある飾り職の作品だろうに。

そう言った女性の呆れたような口調にさつきは言葉に詰まる。知らなかった。
それに桐野は気軽な感じで「簪くらいならいいか?」と聞いてきたから、まさかそんなハイグレードなものだとは。

鼈甲は古代からの高級品で、日本でも何度も贅沢品として取り締まりの対象になっているものだ。特に日本近海では原材料になる玳瑁が捕獲できない為専ら輸入に頼っていた。
つまり長崎経由でなければ入手できない最高の贅沢品のひとつ、女性が身につける装飾品としては最高のステイタスのひとつであった。

「でもこれは本物だね。贈られたのかい?」
説明する女性はさつきがあまりにモノの価値を知らないのに驚きはしたが、話を聞きながらその顔色がどんどん悪くなっていく様子に労るような声を掛けてくる。
「男?」
さつきがひとつ頷けば彼女は笑った。

「なんて顔だい。甲斐性ある男にそんな高価なもの贈られるほど大切に思われてるんだ。困る事なんかないだろうに」
「でも私、」
「いいんだよ黙って貰っといて。その代わり大事にしないとね」
物柔らかな労りにいたたまれなくなり、軽く礼を述べるとさつきはそそくさと店を後にした。

思いの外長くいすぎた。また探されているかもしれないと往来に桐野の姿を探す一方で、
(私じゃだめだ)
全く違う事を考える。
そちらばかりに気を取られ、網膜は道行く人の顔を写し出しはしたものの、表面をなぞるばかりで認識まではできなかった。
足が先程の呉服屋へと向く。まだあちらにいるかもしれない。


(この簪、…)
――そんな高価なもの贈られるほど大切に思われてるんだ。
確かに、そうなのかもしれない。
しかし人から高級なものだ、そんなことも知らないなんて非常識だと言われた事よりも、そうしたものを贈るほど自分を大切にしてくれる相手の心を汲めない事の方がショックだった。

さつきは桐野に「何か欲しい物は」と聞かれてもその都度断ってきた。
それは今のままで十分で、何か欲しいものがある訳でもなく、それに桐野にはそんなことを望んでいなかったから。
その気持ちは変わらない。
しかしそれを断り続けるのも桐野の好意を蔑ろにしているような気がして、軽い気持ちで「簪くらいなら」いいかと思ったのだ。
そして思う。
桐野は偶然見つけたと言っていたけれど、…これは偶然見つかるようなものなのだろうか。
(………)
きっと、違う。
探してくれたか、わざわざ誂えてくれたんだろう。
しかしそれを言えばさつきは躊躇うから気を遣わせないようにわざと気軽に渡したのだ。
さつきに気を遣わせないように桐野は気を遣っている。
桐野自身は気にしていないのかもしれないが、それは彼のどこかに無理をかけているという事でもあって。

(やっぱり、私じゃ、だめだ)

墨が水の表面に広がるように、じんわりと負の感情が心を覆っていく。
いつもの自分ならこんな風には考えない。
それなのに今日は何故か酷く暗い事ばかりを思ってしまう。

こういう事はまたきっと起こる。それも自分が気付かない間に。
今回は簪という些細な身の回りの事であったけれど、この次は何かもっと重大な事で桐野に気を遣わせる事になるのかもしれない。
その次は、…そしてその次は?きりがない。
対処を間違えれば大きな問題が起こる…様な事になる、かもしれない。
もし、かも、ばっかりだ。
不確定な未来を思って恐れている。
(考え過ぎてる)
そう頭の中で否定しても、一度浮かんでしまった思いは中々打ち消せなかった。

(この時代の人の側にいるのは、この世界の常識を持ち合わせている人でないと)
その上で正しく人の心を推し量れる人でないと。
桐野の行動の裏にある気持ちを、本当に汲んであげられる人でないと。

桐野の為に側にいると思いながら、前までその真意を避け続け桐野を傷つけてきた。
このままいくと恐らく自分は外界との接触が増えていく。そうしたら今度はこの時代での無知が彼に負担をかけていく事になるのか。
いい大人なのに知っていて当然のことを知らず、しかもそれが原因で負担を強いられるなんてなんて疲れる事だろう。
今は良くてもいずれ嫌になるに決まってる。

歴史が変わるかもしれないから怖くて側にいられない?
村田さとが来るまでしか側にいられない?

違う。

(生きている世界が違うとか…、)
そんな事の前に、桐野の気持ちを推し量る事もできず傷や負担を背負わせてばかりいる自分は、そもそも彼の隣に立つ資格なんてなかったのだろう。

下がりがちになる視線を上げれば、呉服屋から出て来た桐野が辺りを見渡しているのが見えた。
(………)
『好き』という感情だけではつき合っていく事ができないカップルもあるという事実をさつきは知っている。もしかしたら自分たちもその一例なんじゃないかと思った。桐野と自分では、…自分の側に問題が多すぎる。

「…声、かけなきゃ」

絞り出すようにして出した声が少し震えている。
向うに歩いて行ってしまいそうな桐野の様子に足を速めようとすれば、後ろからいきなり腕を掴まれ驚声と共にさつきはたたらを踏んだ。
「誰、」
振り返れば見ず知らずの男性で。今までに会った事がある人だろうか。覚えがない。

しかし誰何しようと口を開いた途端、
「アンタ、桐野はんの知り合いか」
掛けられた声に体が固まった。


(12/1/29) (11/10/8)
鼈甲は江戸時代、出島を通して上方江戸へと広まった高級品。江戸後期には鶏卵の殻で作った鼈甲の模造品があったそうです