30.曲折する





呉服屋で手配を済ませている間にさつきがふらりと店を出て行った。
それを横目で見送れば、「仲のよろしい事で」と店の男が楽しそうに笑う。
桐野が店に入った時、さつきも随分楽しそうな様子だった。
さつきは自分の外見を必要以上に気にして人の目をやや恐れていたから、少し意外な気がしたのだ。
「…随分笑っちょったな」
素朴な疑問として桐野が問えば男は言った。

外国人なのかと思いきや、見た目が違うだけの中身は全くの日本人。
しかも反物を「良い物だ」と言い当てた第一声が彼にとっては良かったらしい。
彼女を見ればそれなりの着物を着ているし、それもあってきちんと対応する気になったのだと。
普通に話せば普通に答えが返って来るし、しかも反物に惹かれた理由が理由だ。
それにあっけらかんと笑いながら「買えない」と断ったさっぱりとした様子が気に入って、桐野がやって来た時には賑やかな感じになっていたのだと。

彼から聞いたさつきの様子は、屋敷で仲のいい者たちに見せる通常の姿に近かった。
――普通に話せば普通に答えが……
それだ。
さつきはそれが嬉しかったに違いない。
普通に接すれば相手も普通に接してくる。
他とは少し違う外見から遠巻きにされる事はあるだろうが、彼女の”中身”を相手に晒し出せれば大丈夫だ。
もちろん相手からいつもいつも良い反応が返ってくるとは限らないが……
しかし恐らく、さつきはそんな普通の事に気付いたのだろう。
これが切欠で少しさつきの世界が広がればと桐野は思う。
「あいがとな」
知らず口から零れた謝意に、
「いいえ。こちらこそ楽しゅうございました。また御一緒にお立ち寄り下さい」

和やかな空気に押されて店を後にすると、桐野はさつきを探した。
またどこぞの店でも冷やかしているのかと苦笑しながら当たりを見渡す。と、

「きぃさんっ」
「おっと」

突然どんっと背中に抱きつかれて首だけで振り返れば。

「…如何した」
様子がおかしい。

「さつき?何があった?」
「…知らない人に捕まって」
知らない人?
「私はきぃさんの知り合いなのかって」
「俺の知人か?」
「わかんない」

怖い目にでもあったのか、触れる手が酷く震えていて大丈夫そうには見えなかったが、
「…大丈夫か」
尋ねればぎゅうと腰に絡まる腕の力が強くなる。それはそれで悪い気はしないのだが、ここは人通りのある往来だ。端にいる為目立ちはしないが、気付いた通行人が驚いた顔で通り過ぎていく。

「さつき」
宥めるようにさつきの手を軽く叩けば、少し力は弱まりはしたものの離れる気配はなかった。
「何かされたのか」
低い声に茶色の頭は左右に揺れたが、
「………」
「ん?」
聞き返せば、
「きぃさんホテル、行こ」
小さな声で吐き出された単語の意味は分からなくても、誘われている事は分かった。


部屋に通されるやしがみつくように抱きつかれ、唇を合わせている間に兵児帯が解かれていた。
離れていた僅かな間、何かされたのでは無くても何かがあった事は明白で、しかしここまであからさまだと桐野は却ってホッとする。
下手に隠されるより分かりやすい方が良い。対処もできる。
しかしどうしたものか。

考えながら逆らいもせず好きにさせていたらいつの間にやら肌襦袢姿になっていて、夜具に導かれれば横になった体の上にさつきが跨った。
いつもなら大歓迎なのだが。いつもなら。
桐野はひとつ息を落とすと、自分の長襦袢の腰紐を解こうとしているさつきの手をそっと掴んで止めた。
途端に弾かれたように顔を上げたさつきと目が合う。

「…イヤ?」
「否」

別に嫌ではない。普段からこのくらい積極的でも全然構わない。ただしそれは普通の時であればの話で。
しかしそんな思いを余所にさつきはそのまま鎖骨に唇を寄せてくる。その肩を桐野は両手で押さえて止めた。
「こら」
苦笑しながらさつきの背を抱え込んで起き上がると、桐野は胡坐をかいた間に彼女を座らせた。

「自分から誘うような女は、嫌?」
「否、そうでんナカ」
泣きそうな顔で震えながら必死に煽られてもこちらも困るだけだ。第一、

「…汝がこげん状態じゃのに出来っか」
びくりとさつきの体が揺れる。

「だい、じょうぶだよ」
「いーや、大丈夫でんなか。ほら、さつき、言うてくれんと俺は分からん。特に汝の事は」
何があった?ん?とその瞳を覗き込めば、

「…ぅ、」
「ん?」
「……も、ヤ…やだあ…っ!」

うわあんと、子供のように泣き始めた。

(お、おいおい…)

驚いた。
さつきは気丈である反面結構泣き虫でもあることには気が付いていたが、抑え気味に涙を流す姿ばかりを見ていたのでこんな風に泣くのは見た事がない。
桐野の首元にしがみついてわんわん泣いている様子に何かが爆発したような印象を受ける。
きっと何か悪い事が起こったのだろう。そうに違いない。
そう思うのに、さつきの背をさすりながら桐野は心のどこかで少しだけホッとするのを否めなかった。

(今までが…)
自分の気持ちを押さえ付け過ぎだったのだ、さつきは。
本人からすれば我慢も無理もしてはいなかったのかもしれない。現に桐野にもそう見えていたくらいであったから。
しかし桐野に合わせようとする事で……、桐野との付き合いが彼女に幾らかの負担を掛けていたのは、…いるのは事実だろう。
以前はそれがかなりの重量であった事は桐野も自覚している。
今でもまだ少し重たいのかもしれない。
互いに対して全く負担のない関係などないだろうが、どちらかに偏った重さが掛り続けるのではその関係はきっと長続きしない。

(全部吐き出してしまえ)

いつもならもう泣くなとかなんとか言うのだろうが、今ばかりはそう思った。
吐き出して少しでも楽になればいい。
それに何か苦しんでいる事があるなら、聞く事さえできればその負担を減らせる事だってできるのだから。
少しばかり落ち着いてきた所を見計らい「さつき」と笑いながら軽く体を揺すれば、すんすんと鼻をすする音が聞こえる。

「私…」
小さな声だった。

「前いたとこではこんなに泣き虫でも面倒くさい女でもなかった。でも、きぃさんといるとなんでかな、自分のダメな所とか嫌な所ばかり見える。それで悪いことばかり考える変な癖ついてる。おかしなことばっか考えて前なら絶対考えなかった事を思う」
「悪い事なんて何もしてないのに人の目が気になったり、自分は相手に相応しくないとか、そんな事ばかり思って」

確かにこの前話し合った時もそんな事を言っていた。

「…でもね、さっきは平気だった」
「呉服屋か?」
うん、とくぐもった声が返って来る。

「だから私がちゃんとしてれば大丈夫だと思ったの。きぃさんの友達が来ても大丈夫だって。でもね、…でもねえ…」
桐野から少し体を離すとさつきは俯いた。
「…やっぱり、ダメみたい…」

「私もきぃさんの気持ち分からない。…ううん。全然分かってない。ここの人なら言われなくても分かることでも、私は言われないと分からない」

「簪すごく嬉しかった、けど、私は嬉しいってそれだけしか返せない。あれ見つけたの偶然じゃないんだよね?ちゃんと選んでくれたんだよね?…普通に扱えるものじゃないって、そんな物贈られる程私はあなたに大切にされてるって。でも私じゃそんな事も人に言われなきゃ分かんないの」

「私、きぃさんがそんなに思ってくれるほどの価値のある女じゃないよ。それにそういう風にされることに慣れてしまったら、私はきっときぃさんの気持ちを知らない間に軽んじてしまう。ちゃんときぃさんのことを分かってくれる人の方がいいよ。相応しいとか相応しくないとかそういう事の前に、私じゃあなたと釣り合わない。初めから無理だったんだよ」

堰切ったように吐き出された言葉が止まる。随分思い詰めたものだがこれが全てなのか。

「うん。言いたい事は…」
桐野が話し掛ければ、さつきが顔を上げた。
「そいだけか?他には?」
まだあるだろう。全部言ってみろと。

「………さっきまで機嫌良かったのにちょっと離れたらものすごく気分が変わってる。同じ事ぐるぐる考えてその都度きぃさんに気にかけてもらって、でももういい加減鬱陶しいでしょ?重たいでしょ?それにこんなことばっか考えて私どんどん嫌な面倒臭い女になってる。嫌い、こんな自分大嫌い。それにそんなこと考えるのももうイヤ。しんどい」

「それにね、これじゃダメだよ。きぃさんにばかり負担が掛ってきぃさんばかりしんどくて…こんなの今は良くても、後で絶対に嫌になる。ふたりでいるのに片方に負担が掛り過ぎるのは良くないよ。バランスが悪すぎていつかダメになる」

桐野は思わず驚いてさつきを見てしまった。驚いたが、
「さつき」
零れた声は自分でも分かるほど優しい音だった。ぺたりと頬を包むように手を添える。

「大丈夫じゃ」
「…大丈夫じゃないよ」
「否、本当に大丈夫じゃ。俺は汝を負担じゃち思うた事はナカぞ。しんどくもない。簪もなあれだけ喜ばれたら嬉しいもんじゃ。それに俺も今、汝と全く同じ事バ考えちょった」
「え?」
「汝に偏った重さがかかり続けるのはいかんと。今までが今までじゃったからな。もう少し汝にかかる負担が小さくなるようにせんといかんと思うちょった」

驚き顔のさつきに桐野は唇の端を緩く上げた。
互いが相手の事を考え、同じ事を思い悩んでいるくらいなら大丈夫だ。桐野はそう思う。
要するに、さつきは桐野に合わせよう合わせようとしているのだ。
桐野に嫌な思いをさせないように、さつきに会った誰かが桐野を侮らないように。そこで本人が自覚する程の無理が心にかかっている。
もうイヤ、しんどいとさつきは言った。
その上「釣り合わない」と関係を否定したが、彼女がどんなに負の言葉を重ねても、桐野にはそれが「好きだ」と言われているようにしか聞こえなかった。

「…あいがとな」
「ありがとうなんて言われることしてない」
「否。さつき、汝がしんどいと感じるのはな、一辺になんでもかんでもやろうとするからじゃ」
む、とさつきの口がへの字になる様子を見て、桐野は笑った。
「一辺になんて」

変化した桐野との関係に慣れる事。
屋敷以外の人間に会っても恥ずかしくないよう、桐野の側にいてもおかしく思われないよう、この世界に慣れる事。
あと、桐野をもっと理解しようとする事。
さつきが気にしているだろう事を桐野がぱっと思い浮かべただけでも三つある。三つも、ある。
しかし本人からすればもっと数は多いのかもしれない。

「汝なまだ環境の変化に心が追いつかんち言うちょったじゃないか」
「………」
「そこからでよか。急ぐな。ゆっくりでええんじゃ」

それに元いた世界とこの世界の違いを埋めるなんてきっとすぐだ。
さつきがそれを気にしているというのなら、尚更。

「汝が屋敷に来た時は酷かったぞ」
「っ」

笑いながら言えばさつきは息を飲んで俯いたが、桐野は彼女を慈しむようにして引き寄せた。
そうだ。言葉遣いと対人の態度はできたものだったが、初めは正座もまともにできない、着物も着られない。それどころか水の使い方も火の起こし方も、桐野たちから言わせれば何もかも知らなかったのだから。
それでも今は屋敷で普通に暮らせるようになっているし、着物も着こなせる。その上いい反物だと見分けられるほどになっている。

「自分で分かっちょらんだけで汝は成長しちょる」

だからそれと同じなのだ。
今すぐここの人間と同じようにだなんて思う必要はない。それは時間が経てば気にならなくなる類のものだから。
それにそうなれば、さつきが気にする「ここの常識がないから隠れた気持ちが分からない」、そんなこともなくなっていく筈だ。
だから、

「汝が一番せんとならんのは俺とおる事に慣るる事じゃ。他はどうでも…ほら、こっち向け。今はそれだけでヨカ。それでも嫌か?」

言葉もなく目の前の瞳からしたーっと落ちた雫を親指の腹で掬うと桐野はそれを舐め取った。
妙にしょっぱかった。


(12/2/4)(11/10/10)