4.暗転する





それから毎日、朝起きれば背後に桐野がいる。
桐野からはいつも軽くアルコールの匂いがするから、知らなかっただけで毎晩寝酒程度には嗜んでいたのかもしれない。
さつきは今やすっかり桐野に流され慣れてしまっていた。
あんなに震える程怖い筈だったのに。本当に何だったのだろう。
桐野との間に何かがある訳でも起こる訳でもなく、日常生活は全く前と変わらない。

先日の夜のように無理矢理にでも行為に及ぶ事があれば、さつきは怒りを表に出して桐野を罵れる。
ストレートに軽蔑できる。
しかし抱き枕にされているだけで何もないのだから何とも言えず複雑な心境になってしまう。

セックスしようがしまいがさつきの立場からすると、怒ってしかるべきだった。
しかしさつきは桐野を嫌っている訳ではなく、ましてや元々好意を育てていたのだから尚のこと質が悪い。
前のは何かの弾みだったんだよね、といまだに桐野を良く解釈する方に心が向く。

いや、そう思いたいのだ。
弾みだったというのなら今の状態は説明がつかないのにも関わらず、アクシデントだった、悪い夢だった、そう思うことで自分の何かを誤魔化そうとしている。
凌辱されてもなおまだ恋心が生きているなんて、どうしようもない馬鹿だ。
そう思う。
正直なところ泣いてしまいたかったが、しかしそれだけは意地で我慢した。

関係を変えるような明確な言葉を与えられた訳ではなく、変化と言えば部屋の移動と朝起きたら隣に桐野がいることだけ。
何が起きる訳でもなく、却ってそれが中途半端すぎて、思えば思うほど桐野が何を考えているのか分からなかった。
さつきは自分の置かれている状況を理解できないままでいる。
このままでいられる訳がない。

(怖いけど、…ちゃんと聞かないと)

桐野の気持ちを。 



「今日は前より大丈夫そうじゃな」

桐野邸に顔を出した別府の口ぶりにさつきが首を傾げた。
大丈夫そうと言ってくる割には別府の顔には若干の驚きが浮いていたからだ。
しかし別府はさつきの様子をどう捉えたのか、

「気付いちょらんかったんか。夜寝とらんかったんか知らんが前は酷か顔色じゃったぞ」

返って来た言葉は少し方向が違っていて、それはあの日、桐野の室から出たのを見られた時の話だろう。
別府のからかいに思い出したくないことを思い出して、思わず口元が引き攣った。しかし、

「…大事にしてもらえ」

口を開く前に届いた別府の言葉に、さつきはいたたまれなくなり曖昧に笑うだけで返事はしなかった。

「…ねぇ、きぃさんて何か悩みとかないのかな?」
「ん?」
「何か知ってる?あるの?」

なぜこんな奇妙な関係に陥っているのか。なぜ朝起きたら自分を閉じ込めるようにして桐野が寝ているのか。
桐野本人に聞く前に、少しでも分かるヒントがあるのなら知りたい。

「さつき…」
「何?……違うって、ちょっとそのニヤニヤ顔止めて。なんか腹立つ」
「なんじゃ照れちょるんか」
「なっ、照れちょらん!」
「ふ、ははっ、あっはははは!」
「もう!ちょっと止めて、笑わないでよ!」

ムキになって言い募るほど照れと取られる逆効果。
終いには笑う別府に髪をかき混ぜられる始末で、真面目に聞いていたのに、とうとうさつきも一緒になって笑い出してしまった。


別府は好きだ。
ぶっきらぼうに見えて意外と優しく、細かい所までよく見ている。
沈みそうになっていると今のようにさりげなく引き上げてくれるのは、いつも別府だった。

「別府さーん」
「ん」
「ありがとう大好きー」
「伝える相手間違うちょるな」
「そうでもないよ?」
「阿呆」

大きな声で笑ったのは久しぶりで、以前のような日常が戻って来たような気がして嬉しかった。




―――だから今起こっていることが夢じゃないかと思うのだ。



自分の口から漏れるのは甲高い母音の羅列ばかりで、もはや伝達手段としての意味を成してはいなかった。
温度の上がった体をあちこち舐められたり甘噛みされたり、身を捩ろうにもそれも許されない。
拒否も拒絶も桐野には届かない。
これが何のための行為なのか意味を知らされることもない。
かけられる言葉もなく、交わす睦言もない。

じゃあ今の桐野と自分の間に一体何があるんだろうと抱かれながら頭の中、消去法でひとつひとつ抹消線を引いていけば、一番初めに消えたのは愛情とか恋情で、最後まで残ったのは虚しさだった。
それが好きだった人と迎えた結末だと思うと寂し過ぎた。

ぱりん、と心の奥で何かが砕け散る音がした、気がした。
目尻から雫が落ちると、それが引き金だったかのようにこめかみから耳元へととめどなく涙が流れる。
すると布団にさつきを縫い付けていた手が、おもむろに頬を包んだ。
静かに目尻を拭う親指には確かに優しさが篭っていて訳が分からず、却って心をかき乱された。
視界が酷く滲む。

「…ど…して…なん、っ、で……こん、こんな」
こんな事する人じゃないと思ってた。
力のない人間を踏み躙るようなことをする人だとは思ってなかった。

その言葉は何かの合図だったのか。
逸らした顔を戻され乱暴に顎を掬われたと思いきや、

「やっ!イヤ!!やだ!!」

そのまま重なりそうだった唇をさつきは全力で拒否した。それだけは絶対に嫌だった。
桐野の肩を両手で押し上げ激しく抵抗する様子にあっさり諦めたのか、桐野は何も言わずに目元に唇を落とす。
そのまま舌が涙の筋をなぞり、到達した耳を舐め甘噛みされると口元から小さな声が洩れ、同時にそくんと背中に電流が走った。この期に及んで気持ちいいと思う自分が嫌になる。

受けている行為の酷さと、体や頬を撫でる手つきの優しさのギャップに、頭の中がぐちゃぐちゃになる。
嫌だと叫んでいるのに快楽には逆らえず、高まれば高まる程心と体とが乖離していく。
嫌だ、嫌だ。違う、違う。
この人に望んだのはこんなことじゃなかった。
愛されたいなんて思わなかった。好きで、ただ側で見ていられたらと思っただけ。
それだけだった。
それだけだったのに、それもダメだったのだろうか。
歴史上の人物を目の前にして、安易に心を寄せたバチが当たったんだろうか。
越えてはいけない線を越えたという罰なんだろうか。

(…ごめんなさい…)

そう心の中で謝ると、瞳にぼんやりと写る桐野の顔が少し歪んだ気がした。
口から漏れるのは喘ぎ声なのか泣き声なのか、もう自分にも分からなかった。


(11/5/30)(11/4/14)